第二章 Lovers Port 九
九
道端で声を掛けてきた女性は、アンナと名乗った。家に着いて早々食事を振る舞われ、夜でも安全な風呂屋へ案内してもらった末、もう遅いからと問答無用で寝かされてしまった。
無論ヴォルフも、易々と見知らぬ人間について行くほど馬鹿ではない。何か企んでいるのではないかと、はじめは疑った。だがジゼラと会話する彼女があまりに嬉しそうで水を差すのも忍びなく、口を出す事が出来なかった。
アンナはまともな人がいた事が嬉しかったのだろうが、それにしても他人をなんの抵抗もなく家に泊めるものだろうか。ヴォルフは訝しくも思ったが、思い返してみればジゼラと初めて会った時もそうだった。二人ともどうかしている。
翌日も早朝だというのに、やっぱり騒がしかった。右隣からはヒステリックな女性の怒鳴り声が聞こえ、逆隣からは男性が大声で嘆く声が聞こえる。やかましい上に壁が薄いようだ。ヴォルフは夜通し隣家から聞こえる怒鳴り声に安眠を妨害され、寝不足だった。
「朝から元気な事だな」
朝食をつつきながら、ジゼラがうんざりとぼやいた。彼女もろくに眠れなかったようで、眠たげに欠伸を繰り返している。正面に座っていたアンナが申し訳なさそうに眉を下げ、首を竦めた。
「五年くらい前だったかしら……町中こんな風になってしまって。見たでしょう、この町」
「皆べたべたと仲が良さそうだったが」
ええと溜息混じりに返して、アンナはフォークを皿の上に置いた。町の人々の様子を見れば、まともな人間がいて喜ぶ気持ちも分かる。
「みんな結婚した途端、こんなふうになってしまうの。以前はこんなうるさい町じゃなかったんだけど」
それもそうだろう。この町の様子は明らかに異常だ。しかしその口振りから察するに、タロットの仕業とは考えていないのだろう。
最初にタロットが現れてから相当な月日が経っているが、未だにその災厄を現実として認識していない人も多い。中には、魔術師と共に全て倒されたのだと勘違いしている者もいる。存在を信じたくない気持ちも、ヴォルフには分かる。
「恋人」というタロットが糧とするのは、他と同じように怒りや不満である事は間違いない。他と違うのは、その矛先を向けられる者が配偶者に限定されるという点だ。悪質な上に知恵が回るようだが、その分、未だ気配を感じられない事が不思議だった。
「あなたは何故無事なのだ?」
ジゼラが問い掛けると、アンナは見るからに気落ちした様子で肩を落とした。ヴォルフは会話に入らず、黙々と朝食を平らげて行く。
「私も、ついこの間まではあんな風だったの。恥ずかしい事だけど」
「何かあったのか」
会話を進めるのはいつもジゼラだ。彼女は食欲がないようで、食べかけの皿をヴォルフの方へ押しやる。寝不足と食欲は別物の彼は、ジゼラの食べ残しもぺろりと平らげた。
アンナは言いにくそうに俯き、口ごもった。悩ましげに眉を寄せ、彼女はテーブルの上で手を組む。その手をきつく握ってまた暫く悩んでから、やっと顔を上げた。
「三ヶ月前から、彼が行方不明なの。お願い、一緒に捜して!」
親切にしたのはその為かと、ヴォルフは思う。言いにくそうにしていたから、彼女にも躊躇はあったのだろう。藁にも縋る思いだったに違いない。
それでも、返答を躊躇った。三ヶ月も行方の分からない人間が、果たして生きているものだろうか。
「分かった、捜そう」
ヴォルフが悩んでいる間に、ジゼラが軽く返した。ぱっと表情を明るくしたアンナとは対照的に、ヴォルフは肩を落とす。また寄り道をするハメになってしまった。ジゼラが答えなくとも、彼は最終的に捜す方を選択しただろうが。
朝食の後片付けをした後、二人はアンナと共に町へ出た。港まで渡航手続きをしに行くついでに、捜してやろうと思ったのだ。聞けば自分では町中しか捜さなかったと言うから、本当に見つける気があるのかどうか疑問だ。
町は相変わらず恋人達で溢れかえっており、それぞれ歩みが遅い為に至る所で通行の邪魔をしている。対抗しているつもりなのか腕にぴったりと寄り添うジゼラも、歩行の邪魔だった。ヴォルフは普段の真顔に輪をかけてしかめっ面のまま、アンナの案内で港へ向かう。
少し前を歩くアンナは慣れているようで、するすると恋人達を避けながら歩いて行く。対してジゼラはいちいちぶつかりそうになるから、ヴォルフが手を引いてやっていた。彼女はどうも、他人との距離感が掴み辛いようだ。
「彼とは、町がこんなふうになる前から付き合ってたの。とっても優しい人だったんだけど……」
アンナは前を向いたまま、小さく溜息を吐いた。落ち込む彼女を見て、ジゼラが眉尻を下げる。
「辛いな。私もこの人と離ればなれになったら悲しいぞ」
「あ、お二人は……」
「赤の他人だ」
黙り込んでいたヴォルフの野太い声を聞いて、アンナは驚いたように振り返った。二三人は殺してきたようなしかめっ面の彼を見て怯えるでもなく、大きく瞬きする。
「まあ、口が利けないのかと思ってた。寡黙な方なのね」
「そうだ。滅多に喋らぬから私が代わりに話している。この間など、あまりにも口を利かぬものだから岩と間違えられていたぞ」
「喧しい」
喋らないのは自分が悪いのだが、代わりに話せとジゼラに頼んだ覚えもない。何より彼女が先にべらべらと喋るから、口を挟む余地がないのだ。寧ろ煩いので口を開かないで欲しい。
二の腕に頬を寄せたまま、ジゼラはヴォルフを見上げる。大きな目は、瞬く星を沈めたように輝いていた。
「無口で暗くて大食いでも、私はあなたが好きだぞ」
ヴォルフは嫌な顔をしたが、アンナは声を上げて笑う。肩越しに振り向いた彼女の笑顔は愛らしく、そこだけ花が咲いたようだった。にも関わらず寂しそうにも見えるのは、考えすぎだろうか。
何にせよ、これほどかわいらしい恋人を置いて自ら失踪するとは考えにくい。彼女の恋人には、何かあったと見て間違いないだろう。
「私もジゼラさんみたいに、彼が大好きだったわ……どこに行っちゃったんだろう」
憂えるアンナに赤の他人だと改めて訂正するのも憚られ、ヴォルフは行く手へ視線を移す。道の先に煌めく水平線が見え、生ぬるい潮風が頬を撫でた。傷んで赤茶けた髪が揺れ、ちくちくと首筋に刺さる。
港にも、大勢の恋人達がいた。ベンチに腰を下ろして語り合う者もあれば、カモメにパンくずを投げる者もいる。沖合いには数隻の漁船が浮かんでおり、こんな状態でも仕事は一応するのだと、ヴォルフはいささか驚いた。仕事も恋人同伴なのかも知れないが。
恋人達は多いものの、子供の姿はほとんど見当たらなかった。唯一見かけるのは、船の荷を運ぶ十歳前後の子供達のみだ。こんな状態では、町はいずれ廃れて行くだろう。
「ヴォルフ、人が集まっている」
ジゼラが指差した先には、確かに人だかりがあった。風に乗って話し声が聞こえてくるが、何を言っているのかまでは分からない。
ヴォルフはそちらへ足を向けかけたが、コートを掴まれて立ち止まった。驚いて見下ろすと、アンナが首を横に振っている。彼女は眉間に皺を寄せ、厳しい表情を浮かべていた。
「ダメよ、見ない方がいいわ」
「何故?」
問い返したジゼラを見ておずおずとコートから手を離し、アンナは痛ましげに表情を歪めた。
「水死体よ……子供か、妊婦の」
二人同時に目を見開くと、アンナは頭を抱えて力なく首を横に振った。嘆くような彼女の仕草に、ジゼラが困ったように表情を曇らせる。
「こんな町じゃなかったのに!」
悲痛な叫びに、人垣の中の何人かが振り返った。しかしアンナは構わない。
「みんな結婚してもすぐ離婚して、子供が邪魔になると石をくくりつけて海に捨ててしまうの。それでまた新しい恋人を探して、同じことを繰り返すのよ。どうかしてるわ!」
かすれた涙声で、アンナは嘆く。だから彼女は港に来なかったのだろう。ジゼラが肩に手を置くと少し落ち着いたようだったが、その顔は人々の視線から逃れるように下を向いていた。
子供を連れた母親を見かけない理由を、ヴォルフはようやく理解した。呑気に渡航許可を取っている場合ではなかったようだ。アンナには悪いが、行方不明者など捜してはいられない。
早急にタロットを見付け出したい所だが、懐の砂時計に変化は感じられなかった。しかしここまで町が侵食されているのに、反応しない事があるだろうか。
一応確認しようと懐から砂時計を取り出したところで、ヴォルフは眉をひそめる。砂時計は冷たいままだったが、黒い砂は淡い光を放っていた。
初めて見る反応だ。普通なら光っていれば熱を持っているはずで、こんな事は今までになかった。ここにいるタロットは、この町に溢れる恋人達の気配に紛れているのかも知れない。
「ジゼラ、探すぞ」
怪訝に顔を上げたジゼラは、ヴォルフが手にした砂時計を見て納得したように頷いた。タロットも思念体ではあるが実体はあるから、姿を消せる訳ではない。町の中を探せば見つかるはずだ。
アンナは不安そうに二人を見ていたが、彼らが歩き出すと何も言わずについて行く。罪悪感はあるものの、今はタロットをどうにかする事が先決だ。彼女の恋人を捜すのは後回しになるだろう。
「この町で、人のいない場所はあるか?」
振り返らずにヴォルフが聞くと、アンナは思案するように視線を流した。聞いたはいいが、ヴォルフ自身あまり期待はしていない。ただ、タロットというのは人気のない場所に潜むものだから、手掛かりにでもなればと思ったのだ。
「人がいない? そんな所は……あ」
「あるのか?」
今度は振り向いて問い返す。アンナは躊躇いがちに頷いた。
「ええ。岬にはあまり、人が近寄りません」
「岬?」
「あの、流れ着いた水死体だとか身元の分からない旅人の、共同墓地があるので……」
ヴォルフは納得した。それならアルカナが出るのを危惧して、誰も近付かないだろう。頷いて見せると、アンナは再び二人の前に出て歩き始める。
アンナの足取りは、重かった。行きたくないならわざわざ案内して貰わなくとも構わないのだが、彼女も必死なのだろう。探すのはタロットだとは今更言いづらかった。
港を抜けて森に向かう道中は、明らかに人通りが少なかった。昼間でも薄暗い森の中は鳥の鳴き声すら聞こえず、猫の子一匹見当たらない。
熱を帯び始めた手の中の砂時計に、ヴォルフは確信する。やはりいるのだ。確実に、タロットに近付いている。
ジゼラが明らかに歩みの遅くなったアンナに近付き、背後からその顔を覗き込んだ。一瞬怯えたように肩を震わせ、アンナは首をすくめる。
「森の外で待っていて良いのだぞ」
「いえ……付き合わせてしまっているのは私ですし」
「残念だが、あなたの恋人は捜していなっ……」
言いかけたジゼラの口を、ヴォルフの掌が塞いだ。分厚い手袋の下でもごもごと何か言っているが、彼は構わずもう片方の手でアンナの肩を掴み、引き止める。
「な、なんですか?」
「このまま帰れ。タロットがいる」
掴まれたままのアンナの肩が、びくりと震えた。タロットがいると言われれば、誰でも怯えるだろう。未だに信じていない者も多いが、存在している事は事実なのだ。
ジゼラは口を塞がれたままヴォルフを見上げ、首を傾げた。待っていても彼が何も言わないと分かると、その手を掴んで離してから正面へ顔を向け、木々の隙間を注視する。ヴォルフも目で確認出来た訳ではないから、彼女に見えるはずはない。
「タロットって……」
「知っているだろう。お前はこのまま帰れ、恋人捜しはまた改めて手伝おう」
信じられないとでも言いたげに力なく首を振り、アンナは両手で口元を覆う。
「じゃあ町がおかしくなったのは、タロットのせいだったの?」
「そうだ。気付かなかったのか」
辛そうに顔を歪め、アンナは下を向く。彼女の隣で、ジゼラはしきりに鼻を鳴らしていた。
気付かなかったと言うよりは、そう思いたくなかったのだろう。信じたくないが故に、町中でタロットを見かけても見ない振りをする者もいる。タロットに襲われた町には救われる術がなく、ただ荒廃を待つしかない。住み慣れた町を侵されるなど、考えたくもないはずだ。
「いいえ……薄々、気付いていました」
「なら家へ帰れ。私達が戻るまで、外には出るな」
「え、あなた達は?」
答えに詰まって黙り込むと、ジゼラがアンナの肩を掴んで後ろを向かせた。戸惑ったような目がヴォルフを見上げるが、彼は何も言わない。説明する気はなかったし、したくもなかった。
タロットを倒しに行くと言って、止めない者はいない。それがどんなに危ないものか、知っているからだ。
「夕飯までには戻るぞ」
いつだったか、どこかで聞いた台詞だった。ヴォルフは顔をしかめたが、アンナは日常的な言葉に安心したのだろう。小さく頷いて、森を出て行った。
アンナの小さな背中が見えなくなってから、ジゼラは岬の方ではなく森の奥を人差し指で示した。
「あちらだ。変に生臭い」
答えないまま指された方へ足を向けると、ジゼラは剣を抜いて少し後ろを着いてきた。腐葉土と潮風の匂いが混じりあい、つんと鼻を突く。
目を細くして前方を注視したヴォルフの視界に、白いものが映る。さすがは犬並の嗅覚と言うべきか、方向は間違っていないようだった。しかし近付いて行く内、妙な事に気付く。
地面に腰を下ろしたそれは全裸の恋人達のように見えたが、どう考えても頭の数が一つ多かった。更に近付くと、それがただの恋人達ではない事が分かる。
男の方は裸ではあるが、人間のようだった。女の白い手がパンをちぎって口元へ運ぶと、幸せそうにとろけた表情で口を開ける。パンの切れ端を飲み込む男の目は、夢見るように恍惚としていた。まだ若いものと思われるが、彼の肌に艶はなく、顔色も紙のように白い。
女の方は、明らかな異形だった。体は一つだというのに、首が二つある。そこだけなら結合双生児ともとれるが、二つの顔は一目見ただけで分かるほど違っていた。
金髪の右側は華やかな風貌で、もう片方は黒髪で理知的な顔立ちをしていた。その体は造り自体は人間のものと同じだが、左右で胸の大きさが全く違う。人間の体は通常左右対称でないとは言うものの、その程度の差違ではなかった。
よくよく見てみれば、体の左右で肉のつき方さえ違う。右側は肉感的で女らしい曲線を描いているが、左側は少女のように華奢だった。
「なんだあれは。あれもタロットか、卑猥な」
「男は人間だ。あれは取り込むのか、まずいな」
タロットの左腕に抱かれた男の腰は、その腕と融合しかけていた。タロットの腕の白い肌は、そこに根を張るかのように男の皮膚にへばりついている。
「世界」などは人間の体を取り込むと聞いているが、実際どうなるのかヴォルフは知らなかった。取り込むというのは、ああして物理的に融合してしまう事なのだろうか。
戦うのはいいが、男が邪魔になりそうだ。考えながら、ヴォルフは「恋人」達に近付いて行く。タロットと男は気付く様子もなく、幸せそうに笑っていた。
嫌そうにそれを眺めていたジゼラの顔が段々と険しくなって行き、ついには引きつる。ヴォルフがまずいと思った時には、遅かった。
「人前ではしたない真似をするな! ヴォルフは手も繋いでくれぬのだぞ!」
そういう問題ではない。ヴォルフは脱力しかけたが、「恋人」の視線が同時に向いたので、咄嗟に砂時計を目の前に掲げた。男は無反応だったが、二つの女の顔は驚愕に歪む。
ひっくり返した砂時計の中で、黒い砂が落ちて行く。十分はかかるだろうか。そう考えたところで、「恋人」がゆっくりと立ち上がった。
「ダーリン、ちょっとガマンして」
「ダーリン、すぐ終わるからね」
左腕に抱えられたままの男は、力の抜けきっただらしない笑顔で頷いた。ヴォルフは一瞬やる気を削がれたがすぐに立ち直り、背中の留め具を外してメイスを握る。
「いいな」
呟いたジゼラは、期待に満ちた目で彼を見上げる。何がどういいのか、ヴォルフには分からなかった。
「ヴォルフ、私もダーリンと呼んでいいか?」
「駄目だ」
「ハニーがいいか?」
「煩い」
こちらも緊張感がなかった。ジゼラはいつもの事だが、向こうも立ち上がったはいいが、代わる代わる男の頬にキスをしている。ヴォルフはどうしたらいいのか分からず、途方に暮れた。