第二章 Lovers Port 七
七
「水が浴びたい」
唐突な要求に、ヴォルフは巨大な羽虫を見たかのごとく嫌な顔をした。
前の村を出て三日。そろそろ水浴したくなる気持ちは分かるが、近くには泉も川もない。何より街道沿いの泉では人が来る可能性もある。相変わらず常識のない女だ。
「村に着くまで我慢しろ」
「こっちだ」
窘めてもジゼラは聞く耳を持たず、ヴォルフの袖を引っ張って森の中へと入って行く。躊躇いなく進んで行くところを見ると、水の匂いがしたのだろう。
鼻がいいのは良い事だが、いくらなんでも利きすぎる。犬並の嗅覚だ。旅をするに当たって水は貴重なものだから、水場を見つけてくれるのは有難い。しかし時折水以外の匂いも嗅ぎ取って寄り道を強いるから、ヴォルフとしてはたまったものではない。いつだったか、匂いばかりで食えもしない花が群生した草むらに連れて行かれ、荷物が蟻だらけになった。
街道沿いの森へ入って少し進むと、突然開けた場所に出た。そこだけぽっかりと穴が空いたかのような平地は、新鮮な空気で満ちている。
そのまま踏み出しそうになったヴォルフは、慌てて一歩後ろへ退いた。さすがと言うべきか、そこには泉が広がっている。端から端まで泳いで渡れる程度の広さしかないものの、湛えられた水は恐ろしいほど澄んでいた。
柔らかな日差しを受け、光の粒子をまぶしたように水面が煌いている。透き通るような淡い緑色は、泉の底に生える水草のせいだろうか。風に吹かれて浮かび上がった波紋の中、小魚の背が光を反射して時折ちかちかと光る。
「きれいだな。ここにしよう」
ジゼラに言い返す気力も失せ、ヴォルフは頭痛を堪えるように額に手を当てる。ジゼラは深呼吸して爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込み、満足そうな笑みを浮かべた。それからおもむろに、荷物を全て地面に置く。踏みつけられた草が潰れ、青い匂いが舞った。
片手で剣の吊りベルトを外すジゼラを、ヴォルフはぼんやりと眺めていた。器用なものだが、その分蝶結びが上手く出来ない事が不思議だ。先天的に片腕がないなら、慣れていておかしくないと思うのだが。
或いは先天的なものではなく、怪我か病気で失ってしまったのだろうか。病気だとすれば、髪が白いのも頷ける。ヴォルフは医者ではないので病気の事はよく分からないが、しかし腕が落ちるほど重い病気なら、髪は抜けるのではないだろうか。
「ヴォルフ」
その声に我に返ると、ジゼラは困ったように少しだけ眉根を寄せていた。ヴォルフは一瞬呼ばれた意味が分からず、黙り込む。
「私の体が見たいのならそれはそれで嬉し」
「ない」
間髪容れないどころか言い終わる前に否定したにも関わらず、ジゼラは嘆かわしげに緩く首を振った。憂えてでもいるような仕草だが、憂えたいのはヴォルフの方だ。
頼むから人の話を聞いて欲しい。聞こえているから、あえてこういう反応をするのだろうが。
「そう遠慮するな、体には自信がある。しかしな、あなたにこの腕を見られたくないのだ。見て気持ちの良いものでもない。申し訳ないが……」
「その腕はどうした」
ヴォルフを見上げていたジゼラの表情が、一瞬消える。普段からあまり表情を変えないのだが、その時一瞬だけ垣間見た彼女の顔は、無表情ともまた違っていた。
顔が白いからそう見えたのかも知れない。けれど確かにその表情は、底冷えするほど冷たいもののように見えた。
「気になるか?」
いつもの声だった。涼やかながら抑揚の柔らかい、美しい声。微笑む彼女を、ヴォルフは初めて不気味に思う。
そう言えば、否定すると思ったのだろう。しかし今回ばかりはどちらも憚られた。腕を失くした理由を言いたくないのだろうと思うが、拒否されると聞かなければならないような気がしてしまう。聞きたくないと思っていたのに。
「……ああ」
彼女の意のままに否定するのも癪で、ヴォルフは短く肯定する。一瞬驚いたように目を見張ったジゼラは、しかしすぐに取り繕って唇に笑みを浮かべた。それしきで誤魔化されると思うのだろうか。
「そうか、嬉しいぞ。あなたはやっと私に興味を持っ」
「ジゼラ」
強い声で呼ぶと、彼女は口をつぐんだ。驚いたような顔をしていたが、ヴォルフも自分自身、何故食い下がる気になったのか分からない。自分の事も話す気がないのに、問い詰めるのも卑怯な気がしている。
ただ今は何故か、彼女が恐ろしかった。一緒に旅する者の素性が分からなければ誰でも不安に思うだろう。しかしそういう類の感情とも、少々違う。
何を考えているのか分からない。いつもの事だった筈なのだが、今ヴォルフが感じた淡い恐れはそういう類のものだった。そして見知った者が突如として豹変したかのような、不気味な違和感。
「生きたまま虫に食われる感覚を、あなたは知っているか?」
何を聞かれたのか、ヴォルフには一瞬分からなかった。見上げてくるジゼラの笑顔は寒気がするほど美しい。それもいつもの事だというのに、彼は何も答えられなかった。
何故だか、無性に悲しかった。何も教えてもらえないだとか、何も知らないだとか、そういった子供じみた感情ではない。何も語ろうとしない彼女の態度が、哀れに思えてならなかった。
そんな感情が、顔に出てしまったのだろう。ジゼラはヴォルフを見つめたまま困ったように眉尻を下げ、背を向けた。
そのまま泉へ歩み寄りながら、ジゼラはまず、右腕をコートの袖から抜く。綿の長袖で覆われた腕は細かったが、薄い生地越しにも、しなやかな筋肉で覆われている事が分かる。
その右手がコートの左肩を掴んだ時、ヴォルフは反射的に目を逸らした。視界の端で、ジゼラの背中が動く。
振り向いたのだろう彼女はそのままコートを肩から浮かせて後ろ側へずらし、手を離した。
なんの抵抗もなく、コートは地面に落ちる。インナーの左袖が風になびき、引き締まった丸い尻を叩いた。
「ヴォルフ、私はあなたが好きだ。だが、同情で気を引きたくはない。聞かないでおいてくれ」
本当に、そういった理由なのだろうか。しかし何も言わずに、ヴォルフはビスチェを外す彼女に背を向ける。ここで食い下がるのも、悪戯に傷つけるだけのように思えた。
今は何も、話したくない。荷物を下ろしながら手近な木に背を預け、ヴォルフはそのまま座り込む。
森は、あまりにも静かだった。風が吹く度に木々のざわめきがはっきりと聞こえ、小鳥のさえずりが頭上を通り過ぎて行く。背後では、水が跳ねる音も聞こえていた。
ジゼラが水浴を終えたら、洗濯をしよう。急ぐ旅ではない。どうせもう、十年近い月日が経ってしまっているのだから。
失ったものは戻らない。「節制」はそう言っていた。あれはヴォルフが何の為に旅をしているのか、知っているのだろうか。あれだけではなくタロット達は皆、ヴォルフを知っているかのような言葉を口にする。心を吸い上げるものだから、分かるものなのかも知れない。
両親、妹、恋人。全てを誰かに、或いはタロットに奪われ、ヴォルフは一人になった。それが何年前の事だったか、もう彼は思い出せない。けれどどれほど大事なものだったのかは、今でもしっかりと覚えている。
いとおしい思い出と武器だけを携えて、ようやくここまで来た。やっとの事で手がかりを掴み、一歩前進しようとしている。あまりにも長い道のりだった。このところひどく疲れているのは、安心してしまったせいなのだろうか。そうではないと思いたい。
安心している場合ではない。まだ、何ひとつ成し遂げてはいないのだから。
「ヴォルフー」
間延びした声に呼ばれ、彼は一気に脱力した。疲れているのは間違いなく、あの女のせいだ。あれが逐一やかましいせいに違いない。
「リンネルを取ってくれ、置いてきてしまった」
そう言われても、振り向くのは躊躇われた。わざとやっているのではないかと勘繰るが、腕を見られたくないと言っていたからそういう訳でもないのだろう。
このまま立ち上がって、ここを去る。そうすれば、離れられるだろうか。今の内に逃げてしまえば、また一人に戻れるだろうか。ジゼラは追って来るだろうか。
そして、どんな顔をするだろう。そう考えた時、もう一人には戻れないのだと、彼は気付いてしまった。
「早く、寒くなってきた。このままだと風邪をひくぞ、風邪をひいたらあなたが看病してくれないと何も食わぬぞ。薬はジャムに混ぜてくれないと飲まぬ」
畳み掛けるような言葉に、ヴォルフは渋面を作った。
「……馬鹿娘が」
唸るように毒吐いて、結局立ち上がる。本当に置いて行ってやろうかと思いながらも、彼はジゼラの荷物の中から象牙色の布を取り出す。頼まれると断れないのだ。
振り返ると、ジゼラは首まで水に浸かって岸の上へ手だけを出していた。白い肩は遠目にも華奢に見え、左右で明らかに厚さが違う。右は女にしては筋肉質だが、左は病人のように薄く、骨張っている。
左手がないのを右腕で補っているせいだろうか。そう考えながら、ヴォルフは彼女に近付いて岸に布を置く。ジゼラは彼を見上げ、不満そうに岸を叩いた。
「何故そこに置く」
「渡したら上がれんだろうが」
「そうだった」
呆れながら顔を上げると、白い胸が視界に入った。水面に浮かぶ丸い乳房を見て、脂肪は水に浮くのだと考えながら顔をしかめる。腕は見られたくないのに胸はいいという、彼女の判断基準が分からなかった。どちらにせよ、易々と他人に見せていいようなものではない。
再び泉に背を向けた彼のその背後で、水の音がする。暫くの間の後、衣擦れの音がした。
「あ、そうだ」
ヴォルフは振り向かなかった。真っ直ぐ自分の荷物に近付いて麻袋の中を探り、汚れた着替えと石鹸を取り出す。手袋を外したところで、ジゼラが後ろから彼の顔を覗き込んだ。彼女の首には湿った布が引っ掛けられている。
肩越しに振り返ると、ジゼラはその目の前に掌を差し出した。見れば、小さな袋が乗っている。
「誰かの落し物だ。胡椒だと思う」
「落とし主が来ればいいがな」
殺菌、防腐作用のある胡椒は、食べ物を保存加工する際重宝される。昔は金と同等の価値があったというが、最近は大分手に入りやすくなっている。それも以前よりという程度で、高価な事には変わりない。
この大陸の人々が植民地を求め、こぞって船を出していた大航海時代ならまだしも、今はそんな世ではない。それでも長期間大陸を旅する人間にとっては貴重な香辛料だ。落とし主は困っている事だろう。
「あなたは偉いな」
泉で洗濯するヴォルフの手を眺めながら、ジゼラが呟いた。さっきの事は既に彼女の頭から抜けているようで、隣に腰を下ろして太い二の腕にもたれている。邪魔だ。
「普通は返さぬぞ、拾ったものは拾った人のものだ。あなたも胡椒は必要だろうに」
「金はある、幾らでも買えるだろう」
ジゼラはヴォルフの二の腕に頬を寄せるようにして、彼を見上げていた。大きな目からは彼女が抱く感情の片鱗さえ読み取れないが、ふふと呟いたので、機嫌がいい事は分かる。
二の腕へ子犬のように頭を押し付けながら、ジゼラは泉に視線を落とした。それから水面を滑って行く石鹸の泡を、視線だけで追う。
機嫌が良いのはいいが、ヴォルフにとってはやっぱり邪魔だった。しかも髪が濡れているから冷たい。
しかし退けるとまたうるさい。結局ヴォルフは黙ったまま服を洗う。擦る時に力を入れすぎるとすぐ破ってしまうので、細心の注意を払わなければならない。
「こうしていると、夫婦のようだな」
唐突な発言に、ヴォルフは一瞬硬直した。しかし考える前に、すげなく返す。
「全く」
「全くその通りだと」
「違う」
洗い終わった洗濯物を全て絞って立ち上がろうとすると、ジゼラは身を引いて離れた。ヴォルフは手近な木の枝に濡れた服を引っ掛ける。よく晴れているからすぐに乾くだろう。洗濯をすると、不思議と気分も晴れる。
食事にしようかと荷物の横に屈んだところで、街道の方から足音が聞こえた。下は土だから、普通なら聞こえないはずだ。走っているのだろうか。
顔を上げたその瞬間。木の陰から男が一人、飛び出してきた。大きな麻袋を背負っているから旅人だろう。商人の服装とも違う。
「ひいっ」
飛び出してきた男はヴォルフに気付いて、悲鳴を上げて後ずさった。怖かったのだろう。思わず顔をしかめると、彼は縋るように木に抱きつく。
首をすくめて木に隠れた旅人に、ジゼラが髪を拭きながら近付いた。彼女を見て、男は少し表情を緩める。
「まあ怖がるな。この通り地獄の魔王のような顔だが、この人は嫌になるほどいい人だ。拾ったものをネコババしたりもしない」
「お前はよほど私を貶したいようだな」
旅人は怪訝な表情を浮かべて二人を交互に見た。そして更に、不可解だとでも言いたげな顔をする。
しかし彼はすぐにはっとして木の陰から身を乗り出し、泉の方を確認した。暫く目を皿のようにして泉を凝視していたが、やがてその体から徐々に力が抜けて行く。しまいには、落胆したように肩を落としてしまった。
そんな旅人を見て首を傾げ、ジゼラは頭を拭いていた手をコートのポケットに入れる。無造作にそこを探り、先ほど拾った小さな袋を取り出した。
「これを落とした人か?」
「え……ああ!」
男は目の色を変えてジゼラの手に飛びついたが、彼女が不思議そうに大きく瞬きをすると、慌てて手を引っ込めた。取り乱した事が恥ずかしかったのか、彼は顔を赤くして俯く。
ジゼラはそんな彼を暫く見つめた後、その目の前に袋を突き出した。男はおずおずと顔を上げ、そっと両手を出す。開かれた手の上に小さな袋が置かれると、彼は安堵したように息を吐いた。
「……すまん、ありがとう。あんたが拾ってくれたのか」
「そこの岸に置いてあったぞ」
ああと納得した声を漏らし、男は袋を大事そうに懐へしまった。それから困ったように頭を掻き、ジゼラから視線を逸らす。
「やっぱり忘れてきちゃってたのか。俺はどうも抜けててなあ」
「その人も抜けているぞ、よくメイスを置き忘れるのだ。あんな重たいものを置き忘れる気が知れぬ」
「悪かったな」
ヴォルフはよく、休憩するのに置いておいたメイスをそのまま忘れる。メイスの存在を忘れるのではなく、あの重量に慣れているから背中にない事を忘れてしまうのだ。後から気付いたジゼラが、引きずって回収してくる事がよくある。
旅人は野太い声で吐き捨てたヴォルフを見て身を竦めた後、彼の足下に転がっていたメイスを見て、ひいと呟いた。気が小さい男のようだ。
「なんだこりゃ、メイスなのか? 随分でかいな」
「特注だそうだ。ただでさえ重いものを、更に重たくして特注する気が知れ」
「煩い」
ジゼラが言う方が正論なのだが、こうでもないとタロットには効かないのだ。苛立たしげに吐き捨てると、旅人がまた怯えた顔をした。ヴォルフは濃い眉を寄せ、顔を逸らす。
「あ、と、とにかくありがとう。なんか礼がしたいんだが……あれ、俺なんか持ってたかな」
担いだ袋の中を漁る男に首を傾げて見せ、ジゼラはヴォルフを見上げる。彼女を一瞥してから、ヴォルフは旅人に向き直った。
「礼はいらんが、聞きたい。この先の港町までどのぐらいかかるか知っているか?」
ええと声を上げた男は、あからさまに嫌そうな顔をしていた。何かあったものかと考えながら、ヴォルフは彼の言葉を待つ。
「いや、あんたらあそこに行くつもりなのか? やめた方がいいんじゃ……」
「何故だ?」
ジゼラが問い返すと、男は困ったように頭を掻いた。その指の間からフケが落ちたので、彼女は一歩身を引く。ヴォルフとジゼラはアルカナの腐臭が染み付くのが嫌でよく風呂屋へ行くが、普通の旅人はあまり風呂に入らない。窃盗に遭う確立が高いし、安い風呂屋には娼婦が多く、余計に金を取られる為だ。健全な店を探すのも骨が折れる。
男は言い難そうにううんと唸り、首を捻った。それから二人を交互に見て、眉根を寄せる。
「あの町は、『恋人』に汚染されてるって噂だ」
「なんだそれは、浮かれたカップルが乱痴気騒ぎでもしているのか?」
ジゼラの思考回路が、ヴォルフにはよく分からなかった。寧ろ思考しているかどうかも怪しい。
「いやいや、タロットだよ。恋人同士で町に入ると、出られなくなるって聞いてる」
ヴォルフは不快そうに顔をしかめた。話の内容に対してではなく、恋人同士と間違えられた事が不愉快だったのだ。そもそもどこをどう見たら、そんなに親密そうに見えるのか聞きたい。
ふうんと鼻を鳴らして、ジゼラはヴォルフを見上げた。今度は何を言い出すものかと、彼は僅かに身を引く。
「それなら、私達は大丈夫だな」
ヴォルフは我が耳を疑った。自分は鼻だけでなく耳まで悪くなったのかと不安になる。
「……珍しいな」
当然だとでも言いたげに、ジゼラは大きく頷いた。旅人は怪訝な表情を浮かべているが、ヴォルフにはジゼラが不思議に思えてならない。どういった心境の変化だろうか。
とにかくこれから、一日何十回も求愛される事はなくなるだろう。そう安堵しかけた時、ジゼラは薄紅色の唇に笑みを浮かべる。
「大丈夫だろう。恋人ではなく、夫婦なのだから」
「お前と夫婦になった覚えはない」
いつものジゼラだ。それに何故か安堵感を覚えている自分に気付き、ヴォルフは誤魔化すように顔をしかめた。