第二章 Lovers Port 六
六
「駄目だ、まけろ」
ヴォルフは閉口していた。ジゼラが行商の錬金術師相手に、値段交渉を始めてしまったせいだ。貧乏暮らしが長かったせいか妙に所帯染みている彼女は、何かを買おうとする度に必ず値段の交渉をする。癖になっているようだ。
それ自体は別に構わない。行商人というのは概ね、旅人が切羽詰まっているのをいい事に高値を吹っ掛けてくるものだ。良心も痛まない。少し粘れば大体相手が根負けして、安く売ってくれる。だが今日は少々、勝手が違った。
「まけないって言ってんだろ、しつこいねぇ」
不快そうにツリ目を細くした女錬金術師は、ジゼラに向かってどけとばかりに片手を振った。女の行商人というのも中々珍しいものだし、ここまで頑固なのもあまり見掛けない。
そう。どちらも頑固なのだ。ジゼラは引かないし、行商人も折れない。お陰でヴォルフはもう大分長いこと、ここで足止めを食らっていた。とんだ災難だ。
錬金術師を視線だけで見下ろしたまま無表情を保っていたジゼラの眉間に、細い皺が寄っている。あからさまに不機嫌を示す彼女に、ヴォルフは何も言えずにいた。女同士の闘いというのは、何故こうも恐ろしいのだろう。
「どうせ吹っ掛けているのだからいいだろう。まけろ」
「駄目だよ、こっちだって好きで吹っ掛けてるワケじゃないんだ」
女の返答に、ジゼラは怪訝な表情を浮かべて僅かに身を引いた。彼女も案外素直だ。
「何故だ?」
ふてくされたように顔を逸らしていた女は、その問い掛けに驚いたようにジゼラを見上げた。細いツリ目は元々のものだったようで、驚いてもその顔は先ほどまでと大差ない。
彼女の風貌は錬金術師というより、魔女のようだった。同じだと言う者もいるが、その二つは根本的に違う。錬金術師は形あるものを精製、調合して道具を作り出すが、魔術師は無から有を生み出すものだ。どちらも、一般人にとっては不可解なものではあるが。
ただ濃い薄いの差はあれど、錬金術師達は皆、魔術師か魔女の血を引いている。本人も知らない事が多いが、他ならぬ錬金術師だった両親がそう断言していたし、事実父はその通りだった。
「なんだ、知らなかったのかい」
「何かあったのか?」
言いながら、ジゼラは女の目の前にしゃがみこんで首を傾げる。白い髪が背中を滑って、体の前へ落ちた。
戸惑ったように視線を流し、女は長い前髪をかき上げた。ジゼラの態度が急変したから動揺したのだろう。疲れているのか、彼女の黒髪はやけに傷んでいる。
「私この先の村に住んでんだけど、二三ヶ月前から村の人たちおかしくなっちゃってさ。農作物とか分けてもらってたの、貰えなくなっちゃって」
「気が変わっただけでは?」
ジゼラが問い掛けると、女は困ったように眉根を寄せた。その仕草から考えるに、こちらも意地になっていただけで性根は悪い女ではないのだろう。真面目な話をしているのにこんな頓珍漢な意見を述べられたら、普通は呆れて黙るか怒る。
「こっちは代わりに、作物に合うように肥料調合してやってたんだよ。物々交換さ」
小さな村に住む錬金術師達は、村人と金銭のやり取りをしない。彼女のように物々交換をして生活する事が多く、ヴォルフの両親もそうだった。小さな村には旅人の恩恵がなく、生活必需品でないものを売る錬金術師達には稼ぎづらい面がある為だ。
また、村人との繋がりを深める目的もある。彼らが元々コミュニティに馴染みにくく自ら歩み寄らなければならないせいもあるが、そうする事で、何かあった時責められない為だ。
村にひと度何かあれば錬金術師達は魔女の子と呼ばれ、災厄を齎したとして疎まれる。これは魔女狩りが盛んだった頃の名残で、所詮は濡れ衣だ。中には確かに魔女の子もいるのだろうが、災害が起きるのは錬金術師のせいではない。しかし村に異変があると、人々は共同体の中でも異質なものに怒りの矛先を向けたがる。
知識の浅い田舎の人々は、錬金術師達の手によって医術の発達した今でも、飢饉や伝染病の流行を魔術的なもののせいだと考える傾向にある。目に見える原因をでっち上げてでも排除する事で、安心を得ようとするのだ。一時の心の安寧を手に入れる為の、生け贄のようなものだろう。それにうってつけなのが、人々の理解の及ばない研究で生計を立てる錬金術師達だった。
ヴォルフの両親が村人の手によって私刑に遭った事には、そういう理由もあったのだろう。あの惨劇の少し前、故郷は初めてタロットに襲われた。両親が直接的に何かした訳ではないが、「魔術師」のカードを倒し損ねたのは、確かに彼らのミスだった。
だからといって、許せる訳ではない。倒せなかった理由もある。けれど今更どうする事も出来ないから、ヴォルフは表情を硬くする。ここで彼が憤ったところで何が変わるわけでもない。
「お陰でこっちはわざわざこうして夜遅くまで行商の真似事してさ、金稼がなきゃなんないんだ。やンなっちゃうよ」
「村はどちらだ?」
黙り込んでいたヴォルフが問い掛けると、女は驚いたように目を丸くした。まじまじと彼を見て、アレェと呟く。
「動かないから岩だと思ってた。人だったんだ」
怖がられるのは日常茶飯事だが、岩と間違えられたのは初めてだった。心外は心外だ。口を利かないのが悪いと自覚もあるから、敢えて何か言う事もしない。
代わりに視線を逸らすと、真顔のまま大きく瞬きをするジゼラが視界に入った。彼女には目を見開く癖がある。
「岩のような人だが岩ではないぞ。しかも無口だが、一応たまに喋る」
「喧しい」
ジゼラは大きな目でヴォルフを見上げ、微かに笑った。相変わらず何が嬉しいのだかよく分からない。
すぐに笑みを消した彼女はおもむろに腰のポーチを探り、中から布の財布を取り出す。膝に挟んで器用に紐をほどき、取り出したのは一枚の金貨。ヴォルフも驚いたが、錬金術師はそれ以上に驚愕して目を見張る。
「マッチを」
「なんだい、やめなよ同情なんて」
「そう思うなら受け取っておけ。私もマッチが必要なのだ」
マッチなどすぐに必要という訳でもないが、ヴォルフは黙っていた。彼女も我が儘なばかりではないし、苦労していた事を思い出してしまったのだろう。ジゼラのこういう素直なところは好ましく思うものの、如何せん普段の発言が迷惑すぎて褒める気にもならない。
女は暫くの間、顔をしかめて金貨を見つめていた。やがて陳列された品の中から一番大きなマッチの箱を取り、ジゼラの膝に置く。自分の膝を見て首を傾げた彼女を少し笑い、ようやく金貨を受け取った。
「いいのか、こんなに」
「湿気てるかも知れないけどね」
冗談めかして笑う女に、ジゼラはありがとうと返した。財布をしまってからマッチ箱を拾い、麻袋に入れる。錬金術師は荷物を担ぎ直した彼女を見上げ、人差し指を背後へ向けて見せた。
「村はあっち。まっすぐ行けば、すぐ見えるよ」
「分かった、ありがとう」
膝に手を着いて立ち上がり、ジゼラはその手でヴォルフの左袖を握った。そのまま歩き出すと、錬金術師は小さく手を振って見送ってくれる。ジゼラがヴォルフの袖を持ち上げて振ると、彼女は噴き出した。
ヴォルフは嫌そうに顔をしかめながら、二人から視線を逸らす。森に囲まれた街道は曲がりくねっており、行く手には木々しか見えない。
「タロットだろうか」
問い掛けるジゼラはヴォルフを見上げていたが、彼は前を向いたまま唸った。
人心を操るタロットは少なくない。というより、比率としてはかなり多い。絶大な力を持つものもあれば弱いが故に人を操るものもあり、その全てが厄介である事は確かだ。
「あの話だけでは分からんな。村中の人間の気が、たまたま同時期に変わるとは思えんが」
「というか、有り得ないと思うぞ」
全くだと頷きかけて、先にそう言ったのはジゼラの方だと思い直した。不安にさせたくなかったが故に言ったのかも知れないが、複雑だ。
錬金術師の女と話し込んでしまったせいで、空はもう橙色に染まっていた。両手に広がる森は奥の方から影に侵食され、闇から微かに狼の遠吠えが聞こえる。容赦なく迫り来る日暮れの気配に、ヴォルフは自然と足早になった。
すぐだと言われた割に、村に着いた頃には夕陽が沈みかけていた。この時間では、宿があっても部屋に空きがあるか怪しいところだ。ここまで来て野宿は御免こうむりたい。
「なんだ、酒場臭い村だな」
ジゼラは不快そうに顔をしかめ、小声で呟いた。確かに入口から続く通り沿いには、酒場や賭場が多く見受けられる。ヴォルフには酒の臭いなど感じられなかったが、そこここに酒の瓶が落ちているから、鼻が悪いせいで嗅ぎ取れないだけだろう。
村の周囲が畑で囲まれていた上、その外側は森だから、ここは農耕と狩猟で生計を立てる人々が発展させた村だと思われる。そう考えると、村の様子には違和感があった。
「妙に賭場が多いな。どこも新しい」
軒を連ねる酒場や賭場の隙間、その細い路地にも、地べたに座り込んで賭博に興じる人々が見えた。楽しげに笑いながらカードを切るのは男達ばかりではない。歓声を上げる輪の中には、普通ならあんな場で見かける事のない若い女の姿もある。
この有り様を見れば、ヴォルフには何が起きたのか分かる。食事を終えたらタロットを探しに出なければならないだろう。
「私は賭博は嫌いだぞ、酒は好きだが。どこかで飲もう、勿論あなたが酔いつぶれたら私が介抱するから安心するといい。酔い潰れてくれ」
そんな事は聞いていない。ヴォルフも酒は嫌いではないが、故郷の地酒が好きなのだ。無駄金を使う気もない。
ジゼラを無視して小さな飯屋へ入ろうとした所で、彼はふと足を止めた。
懐が、妙に温かい。僅かに熱を持った砂時計を取り出すと、ジゼラが手の中を覗き込んで大きく瞬きした。
「光っているな。いるのか」
砂時計はぼんやりと光っているものの、その温度は人肌より少し温かい程度だった。通常はタロットにかなり近付かないと光らないし、光る程近くにいれば、発する熱はこの程度では済まない。読み通り、この村のタロットはどこかに潜んでいるのだろう。
タロット達は時に、町に潜んで密かに人の心を喰らう。溢れる邪念を糧とするからそれ自体は害とはならないが、貪欲な彼らは人心を操り、善き人の心をも邪に変える。結果町中に犯罪が蔓延し、諍いの絶えない混沌の地に変わり果ててしまう。
タロットもアルカナと同様に、夜間に活動を活発化させる。探せば見つかる事もあるが、今はそれより飯が食いたかった。急いでものんびりしていても、今日中に済ませれば同じ事だ。
「潜んでいるようだな。夜まで待たねば出て来ん、飯にするぞ」
言いながら飯屋へ入りかけたヴォルフのコートの背を、ジゼラが掴んだ。コートの留め具が喉に食い込み、ヴォルフの呼吸が一瞬止まる。
「豚臭い」
ヴォルフは勢い良く振り返って叱ろうとしたが、言いかけた言葉を呑み込まざるを得なかった。見る限りこの村に養豚場のような大きな厩舎はなかったから、そんな臭いがする筈がないのだ。豚肉の匂いなら、いくら喧しいジゼラでもわざわざ言ったりはしない。
暫く考えた後、ヴォルフは渋々飯屋の入口から離れた。旨そうな匂いが後ろ髪を引く。いっそ煮豆でもいいから、腹いっぱい食べたかった。
ジゼラはヴォルフの袖を掴み、引っ張るように歩いて行く。どこから臭いがするのか分かるのだろう。
それにしても、彼女は妙だ。いくら鼻がいいとはいえ、誰も気付かないようなタロットの臭いまで嗅ぎ取れるものだろうか。
普通、気配などというものはただの人間には分からない。にも関わらず、「力」の時も「吊るされた男」の時も、彼女はヴォルフより先にその姿を見つけていた。偶然にしては出来すぎている。
とはいえ剣士として修行した者は、ある程度ものの気配を感じられるようになるとも聞く。彼女の剣の腕は確かだ。そのせいなのか、或いは。
「倒したら食事にしよう。それまでお預けだ」
「私は犬か」
のんきなジゼラの声に、考えるのも嫌になった。力なく吐き捨て、ヴォルフはゆっくりと左右を見回す。相変わらず浮かれた足取りの村人達が歩いているだけで、変わった様子はなかった。しかしうんざりと空を仰いだ瞬間、彼は表情を硬くする。
すっかり暮れた空に、ぼんやりと光るものがある。光っているのが分かるだけで姿形までは肉眼で確認出来ないが、月でも太陽でもないその光には見覚えがあった。ヴォルフは足早にジゼラを追い越し、光の下へと急ぐ。
「なんだ、腹が空きすぎて元気になったか?」
「『節制』だ。あれはまずいぞ、よく荒廃しなかったなこの村は」
「節制」というタロットは、人の金遣いを荒くする。言ってしまえばそれまでだが、「節制」に汚染された町の人々は何故だか皆、ギャンブルに走るようになるのだ。一箇所に金が集まり町の中で回らなくなると、今度は犯罪に走る。結果、町は混沌と化す。
錬金術師の女は、村人達が変わったのは二三ヶ月前だと言っていた。手遅れになっていてもおかしくない時間が経っているはずなのだが、この村はまだ保っている。
元々娯楽の少ない村だったのだろう。入り口付近にあった賭場はまだ新しく、最近出来たものと思われる。賭場そのものがなかったから、長く保っていたのだ。
不思議そうに首を傾げ、ジゼラは空を見上げた。そして驚いたように目を丸くし、今度はヴォルフを見る。
「なんだあれは、天使か?」
淡い光を纏ったあれは、確かに天使のように見えるだろう。しかし実際はそんな可愛いものではないし、そもそも天使など存在しない。この世に災厄をもたらす、タロットだ。
「だからテンパランスだと言っただろう」
「早く行こう、あなたの心を射止めてもらねば」
「人の話を聞け」
言っても無駄なのは分かっていたが、言わずにいられなかった。
やがて二人は、ベンチの置かれた広場に出た。道は未舗装だったが、ここだけは石畳が敷かれている。
祝祭の時に使うのみなのだろう。好都合にも、今は猫の子一匹見当たらなかった。燐光を纏うタロットが真上にいるから、人々も知らず知らずの内に避けているのかもしれない。
ヴォルフは広場の真ん中に立ち、熱を帯びた砂時計を真上に掲げた。空中で微動もしなかった光が揺らぎ、ゆっくりと落ちてくる。
白い光に包まれたその姿は、羽の生えた赤ん坊のように見えた。ふっくらとした手足と白パンのような腹は絵画の中の天使そのものだが、背中に生えた鳥類のものと似た羽が薄いグレーに染まっている。
徐々に近付いて来た「節制」の頭部は、羽と同じく鳥のようだった。顔の半分が巨大な黒い嘴で隠れ、丸い目は眼窩から飛び出したようにぎょろりとしている。眼球の大きさの割に黒目は小さいが、そこだけは人間のものと酷似していた。つるりとした頭は体と同じ肌色をしており、禿鷹のようにも見える。
「なんだ鳥か、つまらぬ。しかも臭い」
「お前にはあれが鳥に見えるのか」
ヴォルフの声には答えず、ジゼラはコートの下から剣を抜いた。月光に照らされたその白銀の刃も、青白い燐光を放っている。
異形が羽ばたくと、風に乗って獣の臭いが漂ってくる。確かにジゼラの言った通り、豚の臭いに似ていた。
「節制」の全身がはっきりと目視出来る距離まで近付くと、ヴォルフは掲げた砂時計をひっくり返した。タロットの嘴が大きく開き、不気味に甲高い鳴き声を上げる。聞く者を不安にさせるような、嫌な声だった。
暗い広場に、ガラスを引っ掻いたような鳴き声が響き渡る。日は完全に落ちていたが、ガス灯がぽつぽつと立っているお陰で視界は確保されていた。
ゆっくりと地面へ向かってきていた「節制」が、突然一気に降下した。同時に、ヴォルフの手がメイスを握って大きく振り抜く。タロットは鉄球がぶつかる寸前で急停止したが、横から迫るジゼラの剣先が見えたか、更に突っ込んだ。
大きな嘴が剣を挟み、がちんと硬い音がした。そのまま頭を振って剣を離した「節制」の力が見た目より強かったようで、ジゼラは腕を後方へ流されてよろめく。
頭を横に向けたまま、異形はジゼラの腹へ突っ込んで行く。ヴォルフが腕を伸ばしかけたが、「節制」は避けようとその場で一回転した彼女の、広がった髪の中を通り過ぎる。嘴に挟まれてちぎれた白い髪が、煌きながらはらはらと落ちた。
痛そうに顔をしかめ、ジゼラはターンした勢いのまま足を踏み出して「節制」へ追い縋る。横薙ぎに一振りされた剣は灰色の羽を僅かに切ったが、タロットの動きが鈍る事はない。ぎょろりとした目がジゼラを見た後、膜のような薄い瞼がそれを半ばまで隠した。目を細めると同時に、タロットは再び上空へ舞い上がる。
身構えたジゼラに向かって凄まじい速度で降下した「節制」は、彼女が避けるとそれを追って直角に曲がった。目を見開いた彼女のその目の前に、突然刺だらけの鉄球が現れる。
「節制」が鉄球に激突する寸前で急停止したその瞬間、ヴォルフがメイスを振った。腕を伸ばしたまま巨大なメイスを振り切った彼の腕には、コートの上からでも分かる程の太い筋肉が浮き上がっている。
流石に避けきらず鉄球に激突したタロットは、木の葉のように宙を舞う。弾かれたように飛び出したジゼラは、その軌道を追いながら腕を引く。
ガス灯に衝突して跳ね返った異形の羽を、鋼の刃が切り裂いた。羽ばたこうとしていた「節制」は、しかし飛び上がる事も出来ずに地面へ叩き付けられる。
真っ黒な体液に濡れ、それでも「節制」は両の足で立ち上がった。そして、気味の悪い鳴き声を上げる。
「終わりだ、『節制』よ」
胃を震わすような低い声が、タロットの声を掻き消した。ヴォルフが手にした砂時計の中身は、もう全て落ちている。
ジゼラは鞘に剣を収め、「節制」を向いたまま後ずさりしてヴォルフの隣へ立った。真っ白な長い髪が月光とガス灯の光を浴び、彼女の得物と同じ色に輝いている。
「愚者よ」
しわがれた、老婆のような声だった。ヴォルフは刃物で切ったような鋭い双眸を細くし、タロットを睨む。しかし異形は動揺する事もなく、その漆黒の瞳で彼を見つめていた。
「希望など捨てろ。『星』は過去を取り戻してはくれまい」
「黙れ化け物」
そんな事を、望んでいる訳ではない。過去は幸せだったが、戻りたいと思っている訳ではない。過ぎたものは戻らないと分かっているから、こうして旅をしているのだ。
いつか、「星」に出会うだろう。希望をその手に握るだろう。それが、両親の死後ヴォルフの後見人となった女の予言だった。忘れていた訳ではないが、信じてはいない。「星」というタロットカードは、この砂時計の中にあるのだから。
希望などなかったとしても。それでも、ここで立ち止まる事はできない。進み続けなければならない。この害悪の大元を断ち切り、たった一人残った肉親を取り戻すために。
たとえ失ったものが、二度と戻らなかったとしても。
「『節制』よ。正位置へ直り、その意を示せ」
けだものの叫び声が、静かな夜を引き裂いて行く。異形はいつものように影となったが、その体は弾けた後、光の粒となって霧散した。後には砂金さえ残らず、薄闇だけが揺蕩う。
元々見開き気味の目を更に大きくして、ジゼラは忙しなく瞬きを繰り返した。それからゆっくりと首を傾げ、ヴォルフを見上げる。
「……タロットの中には、命令すれば正の意味を現すものもある。この村の人間は、タロットを無力化するだけでは元に戻らんだろうからな」
一度贅沢を覚えてしまったら、人は元には戻れない。タロットに襲われた町の人々は、元のようには暮らせなくなる。災厄を祓うだけでは足りない。タロットが壊した町は、タロットにしか戻せないのだ。
ぼんやりと立ち尽くすヴォルフの手を、唐突に華奢な手が握った。虚を突かれて見下ろすと、ジゼラが微笑んでいる。
色を失くしたような、白い美貌だった。一瞬それに奪われたヴォルフの目には、そこだけが色づいた薄紅色の唇の動きが、ひどく緩慢に見える。
「さあ、ご飯にしよう」
ヴォルフは一気に脱力し、肩を落としてジゼラから視線を逸らした。