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第二章 Lovers Port 五

 五


 地面に蹲る少女は、頭を抱えたまま微動だにしなかった。ジゼラが意見を求めるようにヴォルフを見上げたが、彼は何も答えない。代わりに懐から砂時計を取り出し、目線の高さまで持ち上げた。

 杖を破壊した時点で動き出したのだろう砂時計の中身は、既に半分落ちている。砂が落ちる速度は、今までとは比べ物にならない程速かった。

 当然だろう。今ここにいるのは魔力に侵されただけの、ただの無力な少女なのだから。

「ヴォルフ、この娘は……」

 戸惑ったように、ジゼラの瞳が揺れる。ヴォルフは砂時計を見つめたまま、知らないとでも言いたげに首を左右に振った。

「霊体だ。カードの怨念が『女教皇』として具現化される際、媒体にされたものだと聞く」

「意味がよく分からぬ」

 自分で言っていて、ヴォルフも妙だと思う。体のない霊を媒体にしたところで、具現化する材料になるとは考えられない。しかし錬金術師だった母親が言うには、そういう事なのだ。

 それよりも、霊体だと言っても驚かないジゼラの方が不思議だった。彼女には一般常識が欠けている。

「私にもよく分からん」

 幼い頃に両親から聞いた以上の事は、ヴォルフにも分からない。その血を引いているとはいえ、魔術師でも錬金術師でもない彼が知り得る筈もないのだ。

 タロットは彼に一方的に問いかけるばかりで、何も語ろうとはしない。だから知らないままでいいと、ヴォルフは思っている。或いは知りたくないのかも知れなかった。

 少女が纏った黒いベールが、風もないのにはためいている。全ての「女教皇」は、少女の霊を媒体として出来たタロットだ。砂時計がなくとも杖を壊せば無力化出来るが、正位置に戻してやらなければ、媒体にされた霊体は永遠に地上を彷徨い続ける事となる。

 やがて曇りガラスの中で砂が落ちきると、少女が驚いたように顔を上げた。その驚愕の表情は、淡い金色に輝く砂時計を見て安堵したように緩む。

 少女はその細い両腕を、ゆっくりとヴォルフに向かって伸ばす。赤ん坊が親に抱っこをせがむように。しかし彼は救いを求める手から逃れるように一歩下がった。そしてジゼラを振り返り、横へ退く。

「手を貸してやれ。これは永遠の聖処女、男が手を触れては魂が汚れる」

「ダメなのか」

 送る者のいない霊体は、俗に言うあの世への道に迷う事があると言う。清らかな霊魂は真っ直ぐに行けるが、俗世で汚れてはこの世にとどまり続ける。本来は悪魔に汚されぬよう棺に入れるのが葬送銀貨で、それがない彼女達は迷いやすい。だから少しでも清らかな手で導いてやらなければならない。

 誰でも知っている事ではない。説明するのも憚られて少し逡巡した後、ヴォルフは首を横に振った。

「そういう事になっている」

 ジゼラは暫く少女を見つめていたが、やがて唐突に落ちていた鞘をヴォルフに渡し、剣を挿した。それを片手でベルトに収めながら、黙って少女に近付く。

 縋るような目で見つめる少女に微笑みかけ、ジゼラは小さな手を取った。少女は嬉しそうに顔を綻ばせて彼女の手を両手で掴み、引っ張られるまま起き上がる。

 ヴォルフに向き直った少女は、穏やかな笑みを浮かべていた。まだあどけなさの残るその表情に、ヴォルフの胸が詰まる。

「……『女教皇』よ。正位置へ直り、その魂を解放しろ」

 砂時計が一瞬眩く光ると同時、少女は呆気なく消え失せた。

 彼女達に生前何があったのか、ヴォルフには知る由もなかった。何故若くして命を落としたのか、口を利けない彼女達から聞く術はない。しかしその清らかな魂を魔に呑まれ、タロットとして人々を襲う事となった彼女達の不幸を思うと、嘆かずにはいられなかった。

「女教皇」というタロット達は皆、こういった人のあまり訪れない教会近くを徘徊している。そういう性質なのか、媒体とされた霊がなるべく人を襲わないで済むような場所を選んでいるのかは、定かではない。だが後者だとしたら、残酷な事だ。

 ジゼラは悲しげに眉尻を下げたまま黙って少女がいた場所を見つめていたが、ふと顔を上げてヴォルフを見た。そしておもむろに、彼に手を差し出す。ヴォルフは怪訝な表情を浮かべながらも、とりあえずその手を取った。ジゼラは心外そうに眉をひそめる。

「私も処女なのだが」

「お前は霊体ではないだろうが」

 ああ、と納得した風に呟く彼女に、ヴォルフは呆れ果てて何も言えなかった。深い溜息を吐き、メイスを担いで再び教会へ近付く。しかし元の色に戻った砂時計をしまおうとした所で、ふと足を止めた。

「……何だ」

 砂時計が、熱を帯びていた。ノブに手をかけていたジゼラが彼を振り返り、弾かれたように扉を見る。何かに気付いたのだろう彼女は、慌てた様子でその場から離れた。ヴォルフも体ごと扉を向いたまま、じりじりと後退する。

 扉の向こうから、何かを引きずるような音が聞こえる。徐々に近付いてくる奇妙な音に耳を澄ましながら、ヴォルフは担いでいたメイスを構えた。ジゼラもまた剣を抜き、身構える。

 瞬間、轟音が木霊した。

「気持ちが悪い!」

 扉を突き破って出てきた異形を目にして、ジゼラが反射的に叫んだ。ヴォルフにも気持ちは分かるが、寧ろ旨そうだと思う。

 漆黒の牛のように見えるそのタロットは首を振って木片を振り払い、太い前肢で地を掻く。隆起した肩の筋肉も引き締まった腹も、過ぎるほどに逞しい雄牛のものだ。仕草といい体格といい一見すれば闘牛のようだったが、その体には尾も角もなく、代わりに赤黒い蛸の足が生えている。

 頭部に二本、臀部に六本。合計八本の足は軟体動物特有の動きでのたうっており、それぞれが成人男性の腕ほどはあろうかという程に太い。黒光りする毛皮に覆われた体は筋肉で張りつめ、とても牛とは思えなかった。

 当然だろう、牛ではないのだから。勿論食えない。

「なんだこれは!」

「『司祭長ヒエロファント』だ。嫌なものがいたな」

 ジゼラは悲鳴じみた声を上げたが、ヴォルフの返答は冷静だった。「司祭長」の爬虫類を思わせる金色の目が向くのと同時、ヴォルフは砂時計をひっくり返す。

 途端に大きく開いた鼻腔から荒い鼻息を吐き、「司祭」は黒い蹄で地面を掻いた。張りつめた筋肉の束が明確に見て取れる太い四肢が、力強く地を蹴る。

 勢いよく突進してきた「司祭」をかわし、ヴォルフは翻ったコートを肘で退かしながらメイスを振る。鉄球が引き締まった黒い尻に当たり、タロットは牛そのものの雄叫びを上げた。ぐねぐねと六本の尾が蠢き、メイスを捕らえようと鉄球に吸盤を向ける。

 しかし如何に強力な吸盤であろうとも、ヴォルフの豪腕には敵わない。吸い付いたそばから力任せに引き剥がされ、「司祭」は鼻面に皺を寄せながら方向転換する。その巨体が再び突進してきた頃には、ヴォルフも横へ退避していた。

 ヴォルフは「司祭」の進路を塞ぐようにメイスを振ったが、太い蛸の足に跳ね除けられた。そのまま足に絡み付こうとする蛸に、跳ね除けられて空中へ飛んだ鉄球を降り下ろして押し潰す。「司祭」が鼻にかかったような牛の声で咆哮し、蛸の足が一本、動かなくなった。

「司祭」と距離を取りながらふとジゼラを見ると、彼女は青ざめて硬直していた。ヴォルフは怪訝に眉根を寄せる。

「ジゼラ、どうした」

 普段なら薄紅色に染まっている筈の唇までも真っ白に変え、ジゼラはぎこちなく首を横に振った。縋るような目がヴォルフを見るのと同時、「司祭」が再び突っ込んでくる。

「ダメだ、私には出来ぬ」

「は?」

 思わず間の抜けた声で問い返したが迫りくる「司祭」に気付き、慌ててメイスを振り上げた。「戦車」ほどの速度はないが、まともにぶつかったらただではすまない。向こうになかった腕がある分戦いにくいとはいえ蛸の足に傷つけられる心配はないから、炎を纏っている「戦車」よりマシだろうか。

 ヴォルフは間合いに入った「司祭」の頭にメイスを降り下ろしたが、鉄球が再び蛸の吸盤に捕まった。慌てて片足を上げ、突っ込んできた「司祭」の顔に足の裏を着く。反対側の蛸足が伸びてくるのを視界の端に捉え、吸盤に触れないように外側から掴んだ。素肌に吸い付かれたら皮膚が無事では済まないだろう。

 硬いブーツの底に踏みつけられた「司祭」の顔が、憎々しげに歪む。それぞれが蛸の足のような尾が蠢くが、頭までは届かないようだった。異形はそのまま跳ね飛ばしてしまおうと力を込め、ヴォルフも同じく、押し返そうと足を突っ張る。

 膠着状態の両者を見てジゼラが足を踏み出そうとしたが、「司祭」を見て再び硬直する。その表情が泣き出しそうなものに変わった。眉根を寄せたジゼラはおずおずとヴォルフを見上げて、力なく左右に首を振る。

「ヴォルフ駄目だ、すまぬ……私はタコだけは駄目なのだ」

 今にも泣き出しそうな声だった。彼女だけでなく、悪魔の遣いと言われる蛸という生き物が嫌いな人は多い。本当に苦手なのだろうが、好き嫌いを言っていられる状況ではない。

「タコなどただの海産物だろうが……く」

 じりじりと押し返されて呻くヴォルフを見て、ジゼラが身を乗り出した。しかしそれだけで、彼女は動かない。動けない。大きな目に涙が浮かび、濡れて揺らいだ。

 どうしてこう言う時ばかり、役に立てないのだろう。足が竦んで動けないジゼラの胸を、絶望がよぎる。ヴォルフが力負けする筈はないと信じていても、拮抗状態が解ける気配はない。苦しげに歪められた彼の表情を見て、ジゼラは焦る。

「ジゼラ!」

 苦しげな声が、鋭く叫んだ。鋭い双眸がジゼラを見ている。その目に奮い立たされ、彼女はきつく剣を握り締めた。

 初めてあの人に必要とされた。その淡い喜びが、彼女の華奢な双肩に力を籠らせる。こんな状況で、ばかげていると自分でも分かっていた。

 蠢く蛸の足が、ジゼラへ伸びる。彼女はぬめりを帯びたその皮膚に臆しそうになる自分を心中叱咤し、膝が笑うのを抑えるように大きく踏み出す。足を掬おうとする蛸の足を二本まとめて踏み越え、反対側から迫る一本を身を翻して避ける。

 中身のない袖が軟体動物の腕に当たると、「司祭」は身を硬くした。本体に比べて柔らかいせいだろう。

 この筋肉では、本体をジゼラの腕力で貫く事は難しい。ヴォルフも元々彼女に斬り捨てられると思ってはいまい。だからせめて気を逸らす事が出来ればと、ジゼラはそう願う。

 ジゼラは片手で構えた剣を大きく振り上げ、「司祭」の肩に向かって打ち下ろした。白銀の刃が真っ黒な体を斬りつけると同時、ヴォルフの足が異形の顔面を蹴り飛ばす。かなりの衝撃があったように見えたが、力が拮抗していた為か、大した距離は飛ばなかった。

 ヴォルフから僅かに離れたところへ倒れ込んだ「司祭」の傷口から、タールのような粘性の体液が零れる。ヴォルフは好機とばかり異形に追い縋ったが、その巨体はすぐに起き上がった。傷つけられた怒りからか鼻息が荒くなっているものの、その目は一切の感情を見せない。

「ヴォルフ、大丈夫か?」

「問題ない。離れていろ」

 しかしジゼラは、しっかりと首を横に振った。ヴォルフはその仕草を見て驚いたが、地を掻く蹄に気付くと即座に「司祭」へ向き直る。

「もう怖くない。あなたと戦う」

 どこかへ置いてきてしまえば良かった。置いてきてしまえば、彼女が危ない目に遭う事はなかっただろう。ヴォルフも、こんなに気を張って戦う必要はなかった。

 しかし後悔しても、もうヴォルフ自身離れ難くなっている。決して恋愛感情が故ではなく、情が移ったと言うべきだろうか。だから連れは欲しくなかったのに。

「司祭」の足が、地を蹴った。鋼鉄の如く鈍く光る蹄が地面を抉り、土くれを跳ね上げる。ヴォルフは身構えたが、向かってくるかと思われた異形は、蛸の足をジゼラへ伸ばした。

 彼女は一瞬、怯えたような表情を浮かべる。しかしすぐに眉をつり上げ、剣を構えたまま身を屈めて上体を内側に捻る。

「寄るな!」

 目前まで迫った蛸の足を払うように、ジゼラは両刃の剣を外側へ振る。右腕の動きを追うようにコートの裾が広がり、白い髪が舞った。正確に足を捉えた刃を見て、ヴォルフが目を見開く。

「馬鹿者斬るな!」

 何故先に言っておかなかったのだろう。後悔しても、もう遅い。

 五本まとめて切断された蛸の足はその場に落ちたが、切断面からは、すぐさま体液に塗れた新たな足が生えてきた。それも単純に再生されるだけではなく、同じ面から二三本が伸びる。最初のものより細いものの、数は倍以上に増えてしまった。

 ジゼラは驚愕の表情を浮かべ、その場で凍り付く。硬直した彼女へ蛸の足が伸び、腕と剣を巻き込んで胴を締め上げた。内何本かは両足に巻き付き、その動きを戒める。瞬く間に高々と掲げ上げられた彼女は、身動ぎ一つ出来ずに唇を噛んだ。

 一瞬にして絡め取られた彼女を見て、ヴォルフが苦い顔をした。彼の注意が逸れたその隙を突いて、「司祭」が突進する。慌てて視線を戻した時にはもう、異形の巨体は逃げられない距離まで迫っていた。

 咄嗟に構えようとしたが重たい得物は間に合わないと判断し、ヴォルフは腹筋に力を込めた。黒岩のような異形が、その腹へ激突する。

 ジゼラの悲鳴が微かに聞こえた。足を踏ん張ってはみたものの到底止めるには至らず、ヴォルフは鈍い激突音とともに後方へ弾き飛ばされる。

 背骨の軋む音が聞こえた気がした。ブーツの踵で地面を抉って失速はしたが、教会の壁に激突した衝撃はかなりのものだった。背を強かに打った反動で咳き込みつつも、ヴォルフは更に向かってくる「司祭」へ、メイスを力任せに振る。

「司祭」は咄嗟に飛び上がったが、スパイクの並んだ鉄球がその足を削って行った。前肢の蹄ごと足先をごっそりと持って行かれ、異形は雄叫びを上げる。ヴォルフはタロットの追撃が止んでようやく腹を押さえ、目眩を堪えて首を振った。

 その間にも、ジゼラは徐々に締め上げられて行く。白い足にぬめる蛸の腕が這い、彼女は背筋を走る嫌悪感に身を硬くする。これだから、蛸は嫌いなのだ。

 肌に吸い付いた吸盤が離れると、丸く痣が残った。細い腰に巻き付いた蛸の足が、更に腹を締め付ける。一緒に巻き込まれた剣身の平面が押し付けられ、腕に食い込んだ。

 苦しげに呻き、ジゼラは腕に力を込めて押し返そうとする。しかし蛸の腕はびくともせず、益々全身に巻き付いた。足の一本が押さえ込むように胸元へ伸び、二の腕まで這う。吸盤が引っ掛かってインナーの薄い生地が裂け、白い胸の谷間が覗いた。ジゼラの表情が、憎々しげに歪む。

 不意に、蛸の足が彼女の足の内腿を撫でた。滑る皮膚の感触に、ジゼラは呻く。逐一吸い付く吸盤が痛いのだろう、彼女は僅かに身を竦めていた。

 ヴォルフは腹の痛みを堪え、視界で散る火花をきつく瞬きして押さえ込む。横目で見た砂時計には、まだ黒い砂が残っていた。蹄を割られた「司祭」は地を掻く事も出来ず、彼を睨んでいる。同じくヴォルフの方も、強烈な吐き気と痛みで動けずにいた。

 このまま待てば、砂はじきに落ちきるだろう。しかし悠長に構えていられるような状況では、なかった。

「やっ……やめろこのタコ、触るな!」

 驚いて顔を上げると、捕らえられたジゼラの足に蛸の脚が這っていた。その先端がショートパンツの裾から潜り込もうとするのを見て、ヴォルフは慌てて身を乗り出す。蛸の習性だろうか。あれは狭く暗い場所を好む。

 しかし「司祭」の硬い頭に激突された腹が痛み、一歩踏み出すだけで目眩がした。腹に力を入れたから内臓は無事だろうが、激突の衝撃が和らいだわけでもない。暫く治まりそうになかった。

 抜けるように白い肌の上を、赤黒い蛸の足が這って行く。ジゼラの表情が一瞬怯えたように歪んだが、徐々にしかめられて行く。

「やめろ触るな、そこは駄目だと……」

 ヴォルフはまずいと思ったが、体が動かなかった。蛸の足が少しずつ、生地の下へ潜り込んで行く。怯えていてもおかしくはないのだが、ジゼラの目は、何故か段々と冷めて行った。

 灰色の目が、真冬の湖面のように凍てついている。彼女の中で何かが切れてしまったのだろう。そう確信させるほど、冷たい眼光だった。

 ジゼラの右腕に力がこもり、白玉の歯が剣の束を噛んだ。そのまま顎と腕へ同時に渾身の力を込め、剣の束を押し返す。剣身が前のめりに傾き、その鋭い刃が、体に巻き付いていた蛸の足を裂いた。

 ジゼラは戒めが緩んだのを見計らい、力任せに剣を引き抜いて、足に絡み付いていた蛸の足を斬る。解放されて落ちる前に大きく腕を引き、再生しかけた蛸の腕を再び切り払った。

「私の処女は貴様になどやらぬ、ヴォルフに捧げると決めたのだこのタコ!」

 ヴォルフの全身から力が抜けた。あの娘は常軌を逸している。

 脱力してふと砂時計を見ると、砂は既に落ちきっていた。「司祭」は金色に変化した砂時計を睨んだまま、微動だにしない。

 タロット達はみな砂が落ちている内は抵抗するのだが、砂が全て金色に変わると途端に動かなくなる。諦めているのかも知れないとヴォルフは思っているが、実際の所、何故なのかは知らなかった。タロットというのはそういうもので、特に理由などないのだろうが。

 いや。あってもらっては困るのだ。

 疼くような腹の痛みを堪え、ヴォルフは両足をしっかりと地面につけて真っ直ぐに立つ。発声する事も辛いが、呼ばなければ砂時計は効果を示さない。

「『司祭長』よ」

 異形の目が、すうと細められた。牛の瞼が蛸の目に被さったと言った方が正しいだろうか。

「司祭」は何も言わなかった。押し黙ったまま微動もせず、睨むような目で砂時計を見詰めている。ただ相変わらず蛸の足だけは、不気味に蠢いていた。

「正位置へ直り、その意を取り戻せ」

 艶を帯びていた「司祭」の体が、影に呑まれて行く。牛の雄叫びと共に弾けた後には、いつものように積もった砂金に埋もれて、真っ白な神の彫像が残された。

「ヴォルフ……」

 ジゼラは既に剣を納めていた。珍しく気落ちした様子の彼女は破れた胸元を握りしめ、重い足取りでヴォルフに歩み寄る。彼は痛みを吐き出すようにゆっくりと呼吸して、ジゼラを見下ろした。

「平気か」

「平気ではない。あなたが食費を減らしてまで買ってくれたのに、破かれてしまった」

 そっちかと、ヴォルフは呆れた。しかしジゼラの表情が悲しそうだったので、何も言わない。そんなに食費を重要視していると思っているのだろうか。あながち間違ってもいないが。

 ジゼラはふと視線を上げ、腹を押さえるヴォルフの手を見て更に眉尻を下げた。その手にそっと重ねられた手の甲には、赤い痣が残っている。

「すまぬ、私が不甲斐ないばかりに……まさかタコが出るとは思わなんだ。タコだけは昔から駄目でな、小さい頃は見ただけで失神する程で」

「タコ云々の問題ではないだろう」

 顔を上げて首を傾げる彼女が、ヴォルフには異次元の生き物のように思えた。

 疲れた溜息を吐きながら肩を落とし、ヴォルフは足を引きずるようにして教会の入り口へ向かう。今にも腹の虫が鳴き出しそうだった。ジゼラはそんな彼の背を追いかけ、左の袖を掴んで軽く引っ張る。

 大破した扉を開けながらジゼラを見下ろすと、当たり前だが破れた胸元が大きく開いていた。白い胸の深い谷間を見て、ヴォルフは思わず顔をしかめる。

「ヴォルフ、この通り寒いので今日は一緒に寝」

「断る」

 腹が減った。ぼんやりとそう考えながら、ヴォルフは教会の中へ入って行った。


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