第二章 Lovers Port 三
三
ヴォルフは研師の首根っこを掴んだまま、急かすように歩いていた。早足で歩く事を余儀なくされた研師は、既に疲れた顔をしている。砂と直射日光から身を守る為に外套を着込んだジゼラは、相も変わらずヴォルフの左袖を掴んでいた。
「人のいないオアシスがあるとはな」
頭に被った砂色のストールが風に煽られてはためき、頬を叩く。鬱陶しそうに目を細めて、ヴォルフは遠方を見つめた。研師が言った通り、確かに緑が見える。
「あれは水脈を掘って作った人工のオアシスだ。大昔に、旅人の為に作られたって聞いてる」
研師はふてくされたように渋い顔をしつつも、そう説明した。いい加減諦めたようだが、ヴォルフは彼の態度が気に食わない。被害者はこちらだというのに。
砂漠の真ん中にあるオアシスの周囲には、必ず町が出来る。最近はタロットに占拠された町から逃げて来た人々が荒野に居住地を求める事が多く、大なり小なり町が増えているとも聞く。周囲に町のないオアシスの存在など期待していなかったから、意外だった。
「タロットがひと所に留まっている事が、あるのか?」
ジゼラが問い掛けると、ヴォルフは下を向いてああと返す。前を向いたまま喋ると砂が口に入りそうで嫌なのだ。どんなに腹が減っていても、流石に砂は食べたくない。
「人が多く訪れる場所で待ち伏せる者もあれば、密かに町を住処とし、気付かれんよう心を吸い上げる者もいる。放浪して町を襲撃するタロットは実際そういない」
「そういう知恵はあるのだな」
よく目にするアルカナ達には知性の欠片もないから、意外に思うのは分かる。しかしタロットはあちらとは根本的に違うし、そもそもアルカナは単純に脳が腐っているだけだ。同列に見る者が多いが、実際は全くの別物と言っていい。
タロットは滅多に口を利かないものの概ね人の言葉を解し、喋る事が出来る。故に、知性は人間と同程度だろう。中には遥かに上を行く知能を持つ者もいるが、ごく少数だ。
質は違えど、数々の災厄を齎すタロット達が魔力をばら撒くからアルカナが生まれるのだとも言われている。タロット自体も魔力が具現化したものだと伝えられているから、諸悪の根元は遠い昔にカードを魔に変えた魔術師だと言って間違いない。
「ヴォルフ、変に臭い」
「意味が分からん」
ジゼラの訴えに、ヴォルフはすげなく返した。臭いと言われても、昨日風呂屋へ行ったばかりだから彼が臭いのではない。
そもそも砂漠のど真ん中で臭うという事自体が変な事ではないのだろうか。アルカナがいれば風に乗って臭ってくる事はあるが、見る限り近くにはいない。
「なんだ……アルカナではないが、生臭い。魚の臭いか?」
ぼやくジゼラは、しきりに鼻を鳴らしながら周囲を窺っていた。気になるのだろうが、相変わらず犬のようだ。
「ハングドマンの臭いだろう。あれは内臓の臭いがする」
「内臓の臭いというのがよく分からぬ」
賞金稼ぎだったのに分からないのだろうかと、ヴォルフは怪訝に思う。新鮮なアルカナに会った事がないのかも知れない。
研屋は行く手に見えてきたオアシスに近付くにつれ、表情を硬くして行った。あそこで何があったのか聞く気もないが、よくぞ生きて帰れたものだ。単身タロットと鉢合わせて逃げ帰れた者など、そうそう見ない。
余程運がいいか、逃げ足が早いかのどちらかだろう。町へ戻った途端ヴォルフに捕まったから、後者かも知れない。寧ろ運が良かったのはこちらだ。
「……あんたら、何しに行くんだ」
黙り込んでいた研屋が、唸るように言った。ヴォルフは彼の頭に視線を落とし、何、と呟く。頭上から落ちてきた重低音に一瞬肩を竦め、研屋はヴォルフを見上げた。
「相手はタロットだぞ、化け物だ。あんなもんから剣一本取り返せると思うのかよ」
当然の疑問だろう。腕に覚えのある者なら抵抗する事は出来るが、タロットに取られたものは戻ってこない。彼らは物を拾うと、即座に同化してしまうからだ。
「阿呆か」
ジゼラにしては冷たい声だった。フードの下から研屋を睨む彼女の目は、出会った日のそれのように冷えている。
「出来ぬ事なら、最初から貴様など連れては行かぬ。黙っていろ」
彼女でも怒る事があるのかと、ヴォルフは場違いにも驚く。能天気な女だとばかり思っていたから、意外だった。剣を取られたと気付いた時も落胆はしていたが、怒ってはいなかった。
或いは犯人と顔を突き合わせて、怒りが込み上げてしまったのか。どちらともつかないしどちらでも構わない。要は、あの剣はジゼラにとってそれほど大事なものだったという事だろう。平気そうに見えたのは、動揺していたせいだったのかも知れない。
何にせよオアシスが見えた時点で、研師を町に帰してしまえば良かった。今更ながらにそう思うが、ここまで来て自由にするのも妙な案配だ。ここに置き去りにして単身の彼が狙われても寝覚めが悪い。
砂漠地帯の風景は、砂と岩ばかりではなくなってきていた。乾いた地面にも地中の水脈に沿って草地が見られ、やっとここまで来たのだと感動すら覚える。感動している場合ではないのだが、ヴォルフは元々暑いのが苦手だ。灼熱の荒野は正に地獄だった。
乾いたぬるい空気に乗って、ヴォルフの鼻にも魚のような臭いが届いた。最近肉ばかり食っていたから、そろそろ魚が食べたいと思う。
「臭い。なんだこれは」
「お前は鼻が良すぎるな」
オアシスの方向から吹く風は少し湿気を帯びて冷えていたが、やはり生臭かった。しかし臭いが濃くなると、魚とは違う事が分かる。流石のヴォルフもこれは食いたくない。
「こんな生臭いものと戦わねばならぬのか」
「お前は今丸腰だろうが、手を出すな。嫌ならここで待っていろ」
「嫌だ。あなたといる」
子供かと呟いて視線を落とすと、研屋が驚愕に目を見開いていた。驚きもするだろう。うら若い美女が、十以上は年の離れた強面に惜し気もなく求愛するのだから。
さっさと帰してしまえば良かった。嘆きたくなるのを堪え、ヴォルフは草地に足を踏み入れる。「吊るされた男」は戦い方が戦い方だから、概ね旅人がよく通るような広い場所に身を潜めている。突然出てこない事を祈るばかりだ。
研師の襟首を離して懐から砂時計を取り出すと、淡く発光していた。黒いままの砂の、その内側から滲み出てくるような光だ。近くにいるのだろう。
「……なんだあれは」
木々の陰を見詰め、ジゼラが硬い声で呟く。砂時計に気を取られていたヴォルフは弾かれたように顔を上げ、そこにいた異形を見て砂時計を左手に持ち替えた。右手でメイスの柄を握ると、ジゼラがやっと袖を離す。
「吊るされた男」の体は人の形をしていたが、生きている人間のものとは到底思えなかった。破れてぼろきれのようになったズボンしか身に付けておらず、骨と皮ばかりの体は下腹だけが奇妙に丸く張り出している。
紙のように白く張りのない皮膚のすぐ下に、肋骨がくっきりと浮いて見える。それだけならアルカナとそう変わらないが、真に異形と呼ぶべきはその頭部だった。
灰褐色の体毛に覆われた頭の形は、明らかに狼のものだ。しかしこちらも、見る限り生きてはいない。
狼の口は僅かに開かれ、そこから紫色に変色して肥大した舌がだらしなく垂れ下がっている。牙に引っ掛かって歪な形になった舌の先からは絶え間なく粘性の唾液が零れ、点々と草地に落ちる。ぎょろりとした目は瞼から飛び出したように大きく、瞳孔が開ききっていた。
その異形を目にして、研師が悲鳴を上げた。「吊るされた男」の尖った耳が僅かに動き、その目が三人を向く。よくよく見てみれば、その眼球だけは人間のものと酷似していた。大きな口が更に開かれ、鋭い歯列が覗く。笑ったようにも見えるその顔に、研師が震え上がった。
出来れば、気付かれずに至近距離まで近付きたかった。ヴォルフは小さく舌打ちを漏らし、砂時計を持った左手で待てとばかりにジゼラを制する。彼女はそれで察したのか、ヴォルフが異形へ近付いて行っても動かない。剣を持たない今は、加勢しても邪魔になるだけだと自覚しているのだろう。
歩み寄りながら砂時計を目の前に掲げてひっくり返すと、「吊るされた男」の紫色の舌がゆっくりと口元を舐めた。鋭い牙はまだらに黄色く変色しており、歯列に絡んだ唾液が糸を引いている。オアシスの方から吹いてくる風に、魚のそれにも似た生臭い血臭が濃く混じった。
舌なめずりでもするようなその仕草を見て、ヴォルフはメイスをきつく握り直す。背中で太陽の光に晒されていた鉄の柄は、分厚い手袋越しにも熱く感じられた。
砂の落ちる速度はそう遅くない。しかしこれが相手では、怪我は免れないだろう。今は自分以外に二人いるから尚更だ。近くに町がある事が唯一の救いだろうか。
木々の間から、「吊るされた男」がゆっくりと草地へ出てくる。人の首と狼の頭との境目は、しっかりと巻き付いた太い縄に隠れて見えない。それでも縄から下の皮膚がどす黒く鬱血しているのは明確に見て取れる。タロットへ近付くにつれて辺りに漂う不快な臭気が一層濃くなり、ヴォルフの顔をしかめさせた。
力なく垂れ下がっていた長い舌の先が、空気を掬うように跳ね上がる。それと同時に駆け出したヴォルフの足下から麻縄が飛び出し、生き物のように彼の足を追う。ブーツに巻き付こうとした縄はその厚い底に踏みつけられ、草に絡まって動きを止めた。
巨大なメイスを掲げ、ヴォルフは「吊るされた男」へ向かって鉄球を降り下ろす。タロットに当たる寸前、それを守るように地面から突き出た木の杭に鉄球が阻まれた。先を丸くした、串刺し刑に使われる太い杭だ。
しかしヴォルフは構わずメイスを振り切る。勢いよく振り抜かれた鉄球は軽々と杭を打ち壊したが、「吊るされた男」は後ろへ飛び退いて逃れた。標的をとらえ損ねて遠心力で飛んで行きそうになるメイスを、ヴォルフは手に力を込めて止める。彼が一瞬硬直した隙に、異形は口を大きく開いて飛び掛かる。
それを易々と許すほど、ヴォルフの腕は柔ではない。反対向きに柄を持ち変え、彼は食らい付かんとするタロットに向かってメイスを振る。当たるものと思われたが、鉄球は咄嗟に背中を丸めて屈んだ異形の頭上を通り過ぎた。擦れ違う間際、「吊るされた男」の手がヴォルフの左腕に伸びる。
「ヴォルフ!」
ジゼラが悲鳴じみた声を上げ、駆け出そうとした。しかし身を乗り出した彼女は、制すように向けられたヴォルフの鋭い視線に止められる。
「吊るされた男」がいつの間にか手にしていたペンチには、ちぎれた布が挟まっていた。その下の皮膚も一緒にちぎり取って行ったのか、分厚い布地の端は黒く濡れている。
肩を引いて再び正面からタロットと向き合ったヴォルフの左腕に、血が滲んでいる。焼けつくような痛みはあるが、腕が動かなくなるほど深い傷ではない。
刑死した罪人の恨みがカードの怨念と混ざり合って魔力に固められ、生まれたのが「吊るされた男」というタロットだと言われている。襲われた人間は一度捕まればありとあらゆる拷問にかけられ、死ぬまで苦痛を味わう事となる。これと出会ったら、逃げ足に自信のない者は即座に自殺しろとまで言われる災厄だ。一筋縄で行かないのは分かっているが、ヴォルフは焦る。
これが二人に標的を変えたら、ひとたまりもない。なんとか先に頭を潰してしまいたいのだが、タロットの力によって具現化された刑具に邪魔をされ、近付いても攻撃する事さえままならないのが常だ。砂時計が早く落ちきるのを祈る他はない。
すれ違った後ヴォルフから距離を置いて着地したタロットは、再び舌を動かして笑った。ヴォルフの頭上に巨大なギロチンの刃が現れ、凄まじい速さで落下する。慌てて横へ退くと、左足のすぐ横に巨大な刃が突き刺さった。
安心している間もなく、今度は地面が深く抉れる。ヴォルフは足下に空いた穴を避け、前へ大きく踏み出した足で地を蹴った。前方へ向かって跳びながら、間合いに入ったところで、「吊るされた男」に向かってメイスを振るう。
高く飛び上がったタロットの足を、咄嗟に上へ方向転換した鉄球のスパイクが削った。裸足の皮膚が破れ、コールタールのような黒い体液が滴り落ちる。傷付けられても尚、異形の大きな口は笑うように開いていた。反面、灰褐色の顔は表情というものを浮かべない。尚の事気味が悪かった。
ぎょろりとした目玉が、不意にヴォルフの左手の砂時計を見る。半分ほど中身の落ちたそれに向かって、狼の顔が唸り声を上げた。それでもその口は、笑っている。
着地した異形に向かって更にメイスが迫るが、また木の杭に阻まれて失速し、当たる前に避けられる。瞬時に方向転換して反対側へ振り直したが、その時にはもう、「吊るされた男」はヴォルフの間合いの外へ逃げていた。
得物を一旦手元に引き戻し、ヴォルフは「吊るされた男」を追う。メイスの間合いに入った瞬間、目の前に鉄の箱が現れた。ヴォルフより一回りほど大きなそれは、立てて置かれた柩だ。
驚いて背後を見るとそこにも鉄の壁が立ちはだかり、退路をも塞いでいる。否、壁ではない。
「馬鹿な……っぐ」
呟いた瞬間、背中に鉄の板が激突した。衝撃に呻きつつも、咄嗟に足を柩の底へ着き、押し返す。視界を塞ぐ柩の向こうからは、潰れろと呟く声が聞こえた。何度も何度も、抑揚のない奇妙な音程の声が、呪詛の如く囁き続ける。
鉄製の蓋が、凄まじい力で背を押す。突っ張っていた足の膝が徐々に曲がって行き、地面に着いた方の足が地面を削りながら棺へと近づいていく。何故箱が現れた時点でメイスをねじ込まなかったのかと、ヴォルフは後悔した。
一度これに入れられてしまえば、蓋をネジで止められた後徐々に下がって行く蓋と柩に挟まれ、圧死するしかない。刺がついていないだけマシかとも思ったが、悠長にそんな事を考えている場合ではなかった。
ヴォルフの表情が、苦々しく歪んだ。力のこもった首に太い血管が浮き、噛み締められた歯が軋る。体を丸めた彼は柩の底に左手を着き、砂時計を握りこんだままありったけの力をこめて押し返す。
ほんの少し柩が離れたが、僅かな距離でしかなかった。元より筋力でどうにかなる類のものでない事は分かっている。これ以上仕掛けて来ない事を祈りながら耐えるしかない。
左腕に力を込めた拍子に傷口から血が噴き出し、手袋を赤黒く染めた。ちらりと見た砂時計の上部には、まだ黒い砂が残っている。じりじりとした焦りのためか焼けた額に脂汗が滲み、頬を伝い落ちた。背中を押す鉄板と眼前に迫る底、鼻を突く鉄錆の臭いに、焦燥ばかりが募る。
「ヴォルフを傷付けるな」
「吊るされた男」が上げる呪詛の声をかき消すように、背後の蓋越しに涼やかな声が聞こえた。ヴォルフの頭に上っていた血がすうと引き、背中を押していた蓋の力が緩む。拮抗状態が解けたところで足に渾身の力を込め、彼は柩を蹴り飛ばした。
鉄柩が吹っ飛ぶと同時、「吊るされた男」の呟きが聞こえなくなった。開けたヴォルフの視界に、飛び上がるその姿が映る。飛び出したようなタロットの目は、蓋から手を離したジゼラを見ていた。
全身にのし掛かる重い疲労感を振り払うように、ヴォルフはメイスをきつく握り直す。大きく口を開けたまま降下する異形から守るようにジゼラの前へ立ち、タイミングを見計らってメイスを振った。空中では流石に避けられないのか、「吊るされた男」の頭に鉄球が激突する。
鉄板がひしゃげたような、鈍い音がした。頭から吹っ飛ばされた異形は地面へと強かに叩き付けられたが、よろめきながらもすぐに立ち上がる。その片目は破裂して潰れ、顔の左半分が歪んでいた。流石の化け物も、頭に衝撃を受ければ動きが鈍る。
「諦めろ、終いだ」
かざした左手に掴まれた砂時計は、金色に光っていた。それを見たタロットの右目が、大きく見開かれる。
「『吊るされた男』よ、正位置へ直れ」
ヴォルフが言いきるのと同時に、タロットの全身が黒く変色して行く。狼の遠吠えが微かに聞こえた後、その体が弾けて砂金と変わり、地面に降り積もる。金の砂山には、ジゼラの剣が埋もれていた。
安堵の息を吐いたジゼラを、睨むような鋭い双眸が振り返る。彼女はヴォルフの険しい表情を見て目を見張った後、フードで顔を隠すように下を向いた。
「……怒っているのか?」
おずおずと問い掛ける彼女に応えず、ヴォルフは砂金を集めてから剣を拾い上げる。ジゼラは返答を急かさず、俯いたまま下唇を噛んだ。
「手を出すなと言われたのに飛び出した事は、謝る。でも私は、あなたが……」
黙ったまま目の前に剣を差し出すと、ジゼラは言葉を止めて大きく瞬きをした。顔を上げた彼女の手に、ヴォルフは剣を握らせる。
「お前が私の為にとした事なら、咎めはせん。だが、二度と危ない事はするな」
ジゼラは安堵したように表情を緩めて、大きく頷いた。怒られると思っていたのだろうが、助けられたのは事実だ。礼は言っても咎める気はなかった。
ふと見ると、研師は地面に座り込んで呆然としていた。腰が抜けてしまったのかも知れない。
剣をコートの下の吊りベルトに収め、ジゼラは研師に歩み寄る。唖然と口を開けていた彼は、近付くジゼラを見て慌てて後退りした。彼女は僅かに目を細める。
「叩き斬ってやりたい所だが……」
「ただで砥がせればいい。剣は戻って来たのだからな」
罪人にも、罪を犯すだけの理由がある。生きる為に剣を盗るのが罪ならば、ヴォルフはとうに裁かれていて然るべきだろう。彼が許されているのは、盗るのが化物の持ち物であるからに他ならない。
腰を抜かした研師の腕を掴んで立たせ、ヴォルフは町へと足を向けた。遠慮がちに左袖を握るジゼラの頭が、そっとその腕に寄せられる。不安げな目で見上げてくる彼女に頷いて見せ、ヴォルフは研師の背を押した。そこで研師は、やっと我に返る。
「あ……あんた、何なんだ。タロットはどうなった?」
暗い灰色の双眸が見下ろすと、研屋は慌てて歩き出した。しかし足に力が入らないようで、少々よろめいている。
「消滅した」
「あんたがやったのか? タロットは倒せないんじゃなかったのかよ」
「黙って歩け。今見た事は誰にも言うな」
短く咎められると、研師は腑に落ちないような表情で下を向いた。その手がかすかに震えている。
後悔しているだろうか。そうであって欲しいと、ヴォルフは思う。未遂に終わったとはいえ、共に脅威と戦う女の牙を奪おうとしたのだから。
「あんなモンと戦える人間が、この世にいたのか」
ジゼラは無表情のまま研師を見ていた。苦しげに歪む彼の表情を暫く見つめた後、ヴォルフを見上げる。無言で何かを訴えようとする大きな目に、もう怒りの色はなかった。
「お前が奪おうとしたのは、あんな化け物と戦う者の剣だ」
弾かれたように顔を上げ、研師はまじまじとジゼラを見た。ジゼラは何も言わず、行く手に向き直る。凛と美しい横顔は、とてもタロットと戦える人間のものとは思えないだろう。
彼女は、生きる為に戦わなければならない。ヴォルフと出会う前からそうだった。両親から貰った大事な剣を、あんなみすぼらしい姿にしてまで。その剣身を、斬る為のものにすげ替えてまで。
「研がせてくれるのか、俺に」
どちらにともなく、研師はそう聞いた。ジゼラは彼に微笑んで見せ、ちいさく頷いた。