第二章 Lovers Port 一
一
荒野の風は、今日も灼熱を保っている。前の町を出て早四日。自生する植物や草地が多く見られるようにはなってきたものの、未だ目的地に辿り着くには至らなかった。
この地を旅する二人は、連日アルカナの襲撃に遭って閉口していた。このところ死体がアルカナ化するペースが早まっていると町で噂程度に聞いていたが、確かにその通りなのだろう。この調子では目的の港町に辿り着くまで何ヶ月かかるか分からない。
十歳前後の子供の背丈とそう変わらない巨大なメイスを、ヴォルフ・カーティスは片手で軽々と振り回す。得物の大きさに見あった大柄な男で、精悍な顔付きだが身形に気を遣わないので、粗野な印象を受ける。巨漢ではあるが、大振りな立て襟から覗く太い首には同じく太い筋肉の束が浮き、擦りきれたコートの袖をきつそうに見せるものが贅肉でない事を窺わせた。
そんな男が大人の一抱え程はある鉄球を振り回すのだから、アルカナもたまったものではないだろう。しかし彼らにそんな事を考えるような知性はおろか、思考する脳もありはしない。頭の中に詰まっているのは、顔中の穴から入り込んだ蛆虫だけだ。
アルカナと呼ばれる生ける屍は、人を見つければ襲い掛かるように出来ている。彼らから死という安息を奪い蘇らせたのは、「皇帝」に仕える「死神」だと言われているが、真偽の程は定かではない。確かなのは「皇帝」も「死神」も、タロットであるという事。
ごうと重たい風切り音を立て、放射状にスパイクを埋め込まれた鉄球が亡者の群れを薙ぎ払う。灰褐色の頭を一撃で潰した鉄球に、ちぎれた髪と腐った脳が絡み付く。アルカナの穴という穴から腐汁と共に飛び散る白いものは、彼らの体中に巣食う蛆虫だった。
アルカナの内彼らのように剣を手にしたものは、特にソードと呼ばれる。この大陸では宗教的な理由により生前の持ち物を同葬する慣習があり、生前の彼らは旅人か兵士であったのだろう。或いは、町の自警団に所属する者か。
時折甲冑を着たアルカナがいるのは、そんな風習がある為だ。どちらにせよ町を守る立場だったのだから無念であろうとは思うが、アルカナに心はない。ヴォルフはそれを、悲しくも思う。
背後から彼に迫ったアルカナの乾いた首へ、横一直線に白銀の閃光が走る。星のようにも見えたその光は、長剣の細い刃だった。
見事な剣を握るのは、黒いロングコートの女だった。小さな顔は抜けるように白く、長い睫毛に縁取られた大きな目も青みがかった灰色で、バラの花弁のような唇の薄紅色だけが浮いて見える。若い女だったが、その長い髪は老人のように白い。薄いタートルネックに包まれた胸はビスチェからはみ出さんばかりに豊かだったが、腰は柳のように細く、手足もしなやかだった。
ジゼラ・マレスコッティはアルカナが振った剣を避け、その場でくるりと身を翻す。中身のない左袖が薄い背を追い、風で舞い上がったコートの下から剣の柄を握った白い手が現れる。アルカナが再び剣を振り上げた時にはもう、ジゼラの剣がその首を跳ねていた。
軽やかな舞を踊るように次々とアルカナの首を跳ねて行く彼女とは対照的に、ヴォルフの動きは猛々しいものだった。鉄球と剣がぶつかっても、競り合うまでもなく力任せにメイスを振り抜いて、亡者ごと吹っ飛ばす。
脳のリミッターが効いていないのと魔力で補強されている分、アルカナの力は生前より強くなっている。しかし腐りかけの屍如き、彼らの敵となりうる筈もなかった。
辺りに漂うむせかえるような腐臭が、風に攫われて行く。立っているアルカナが一体もなくなった頃、ヴォルフはようやくメイスを振って絡み付いた腐肉を飛ばした。
「毎日これでは、鼻が利かなくもなろうな」
鈴の鳴るような声が、溜め息混じりに呟く。剣を一振りしてこびりついた腐汁を飛ばしたジゼラは、ふと自分の得物を見て眉を寄せた。髪は白いが、彼女の眉は白金色をしている。
「どうした」
短く問い掛けながら、ヴォルフは地面に倒れ伏した死体をブーツの爪先で転がした。ミイラ化した遺体は衝撃で崩れたが、彼は構わない。
ヴォルフは死体の腹の下に落ちていた剣を拾って、品定めするように眺める。クズに近い剣を拾っても売れないし、道中で邪魔になるだけだから、いつもこうして選ぶようにしている。それでも町に着く頃には麻袋がいっぱいになってしまうのだが。
戦利品の剣を選ぶヴォルフの目の前に、白銀の長剣が突き出された。彼は思わず身を引いて、その剣身に視線を落とす。鋼の表面には、ぼんやりと自分の顔が写り込んでいた。我ながら怖い顔だ。
「風を切る手応えがおかしい。脂で曇ったのかも知れぬ」
よく分かるものだと思うが、確かに剣身は曇っているようにも見える。ヴォルフの得物は錆びようが欠けようが柄が折れさえしなければ問題なく使えるので、気にした事もなかった。
「次の町で研ぎに出すか」
「これを研げる研師がいれば良いのだがな」
言いながら、ジゼラは剣を鞘に収めて腰に巻いていた外套を着込む。常にコートに隠れているから、ヴォルフはあの剣の鞘を見た事がなかった。
戦利品を三本だけ選び取って担いだ大きな麻袋に突っ込み、ヴォルフは立ち上がる。ジゼラが袖を掴むのを待って、ようやく歩き出した。彼女は待っていないと駆けてきて引っ張るから、倒れそうで危ないのだ。
「そろそろ湯が浴びたいな。頭皮がざらざらする」
外套のフードの下で、ジゼラは不満そうにぼやいた。ヴォルフはベルトに紐を巻き付けた小袋を開け、中から干し肉を取り出す。
「私は腹が空いたな」
「あなたの腹はいつでも空いているだろう」
そうでもないが、言い返さなかった。代わりに濃い眉を寄せ、ヴォルフは干し肉を噛みちぎる。乾いた空気のせいか炎天下を歩いていたせいか、大分硬くなってしまっていた。
ジゼラが強引に着いてくるようになって、一ヶ月は経っただろうか。相変わらず喧しい上に人の話を聞かないが、ヴォルフは慣れてしまった。それも考え物だとは思うが、今更どこかに置いて行く訳には行かないのも確かだ。
何より彼女との道中が、楽しくなってきてしまっている。ずっと一人だったし彼は寡黙な方で、雑談するのは得意ではない。それでもジゼラは勝手に何かと喋っているから、聞いているだけで暑さも少しは紛れる。
「そろそろこの灼熱地獄ともお別れだな」
群生するサボテンを横目に、ジゼラが呟く。ヴォルフは黙ったまま頷き、遠方を注視した。陽炎で揺らぐ視界に城壁が映る。
町まであと少し。そう思うと、塩辛いばかりで物足りない干し肉も美味く感じる。腹が減ったとは言うものの、今は無性に冷たい水が飲みたかった。水筒の中身は既にぬるくなっている。
「あなたはずっと一人で旅していたのか?」
今更な問い掛けだったが、彼女はいつもそうだ。何を今更と思うような事ばかり聞きたがり、合間合間に求愛する。質問するのはいいが、求愛はやめて欲しかった。
この旅に同行者と呼べる者はいなかった。助けた者をもののついでに送ってやった事はあったが、それだけだ。だから首を縦に振ると、ジゼラはそうかと呟いた。これだけ喋って、よく腹が減らないものだ。
「寂しくなかったのか?」
是と答えるのも否と答えるのも、違う気がした。意地ではないし、寂しいと思った事もない。ただ結局彼女の同行を許しているのは、やっぱり寂しかったからなのだろうと思う。
「考えた事がなかった」
それを言えばまた煩いから、肯定も否定もしなかった。曖昧な返答に、ジゼラは何故か頷く。
「そうか。なら今は寂しくないな」
人の話をまるで聞かないのも、いつもの事だ。しかし反射的に顔をしかめて見下ろすと、ジゼラは笑っていた。砂漠の花と言うには白すぎるが、綺麗な笑顔だった。
喋りさえしなければ、こんな女はふたとお目にはかかれないと思っただろう。しかし残念ながらジゼラは口を利く。いっそ黙っていてもらえた方が、ヴォルフも無駄に疲れることはないだろうに。
四日間歩き続けて五日目にやっと着いた町は、規模の割に人が多かった。先に寄った町がタロットの襲撃に遭って廃れてしまっていたから、そのせいだろう。人が多ければ比例して商人も増えるから便利ではあるが、人混みに紛れてスリを働く者も増える。一長一短だ。
「人は多いが、研屋はあるのか?」
ヴォルフの背にぴったりとくっついて、ジゼラは周囲を見回す。鬱陶しくはあるものの、そうでもしないと彼女は人にぶつかる。余計な面倒を起こされる方が困るのだ。
「分からんな。露店商がいれば一番だが」
研屋は剣を預かるものだが、店を構えない研師はその場で研いでくれる。前者は高いが仕事が確実で、後者は安くてあまり腕が良くない事が多い。
ヴォルフはナイフの切れ味が悪くなると、よく露店の研師に頼む。研屋に預けると高くつくし、時間を取られるから嫌なのだ。
大していいナイフでもないが、預けると勝手に売られて返ってこない事もある。目の前で砥がせるに越した事はない。住人にものを盗まれても、概ね預けた方が悪いとなって泣き寝入りするしかない。
旅をしていて煩わしいのは、そういった町人の横の繋がりだ。大金を落として行く旅人は歓迎されるが、一方で、住人に騙されても弁護してもらえない事がままある。加害者側が店を構え、町に根を張っていると尚更だ。
「あまりぞんざいに扱われたくないのだ。研屋がいい」
肩越しに振り返ると、ジゼラは何かを訴えかけるような目でヴォルフを見上げていた。そんな目をされても、彼女の事情は知らない。
「そんなに大事なものだったのか? 大分装飾が外れているようだが」
細身のコートから覗く剣の柄には、白金の箔が張られた上から金で瀟洒な紋様が描かれている。その割に、宝石の類は一切ついていなかった。所々に窪みがあるから、元は何か嵌まっていたのだろう。
ジゼラは一瞬目を丸くした後、困ったように眉根を寄せた。気付かれたくなかったのだろう。言ってはいけない事だったかと、ヴォルフは後悔する。
「見ていたのか」
「目がいいからな」
ジゼラはヴォルフのコートを握ったまま、顔を伏せた。髪の事を言っても気にしないくせに剣の事は話したくないのだろうかと、ヴォルフは怪訝に思う。
彼女の事は、未だによく分からないでいる。何を聞かれたくなくて何を聞いていいのか、判断出来ないのだ。だからヴォルフは滅多に彼女に質問しないし、そもそも自分からは話し掛けない。話を振ろうにも、ジゼラは常に喋っているから口を挟む余地がない。
面倒事にはよく首を突っ込むくせに、他人の過去は聞きたくないのだ。下手に聞いて傷付けたくなかった。寡黙なのは、そういった臆病な面が一因とも言える。
「装飾は殆ど売った。振るのには、必要ないのでな」
その言葉は、自分に言い聞かせているように聞こえた。
ヴォルフは俯くジゼラから視線を外し、通りを見回す。周りから頭一つ飛び出た彼の視界に、小さな店から出てくる剣を抱えた男が入った。看板は見えないが武器屋か研屋だろうと踏んで、そちらへ足を向ける。
近付いて看板を見ると、砥石の上で剣と槍が交差したような図案が描かれていた。武器屋では刃物を研いでくれないが研屋では簡単な剣やナイフを売っており、後者の看板は概ねこのようなものだ。営業時間と定休日しか書いていないが、ここが研屋で間違いないだろう。
扉を開けると軽やかな鈴の音がして、いらっしゃいと威勢の良い声が聞こえた。研屋の店内は狭く、樽に無造作に入った長物と壁に掛けられた高価そうな斧ぐらいしか、めぼしい武器は置いていない。
代わりに、カウンターの奥に広い作業場があった。ここの主は研屋の方で生計を立てているのだろう。作業場が広いのは結構な事だが、そのせいで店内が暑かった。
「剣を一本、研いで頂きたいのだが」
腰のベルトから剣を抜きながらジゼラが言うと、痩せた店主は怪訝な表情を浮かべた。ジプシーの女なら話は別だが、剣を持って旅する女などそうそういない。当然の反応だろう。そもそも彼らが剣を持ち始めたのも、歴史的に見れば最近の事のようだが。
カウンターに置かれた長剣をまじまじと見て、店主は首を捻った。ヴォルフも初めて鞘を見て、些か驚く。
真っ赤な鞘の先端近くには金で装飾が施されており、丸い窪みがあった。何かが収まっていたのだろうと思われるが、大きさが尋常ではない。元は見事な宝剣だったのだろう。しかし今はぽっかりと穴が空いているだけで、その面影もなかった。
「姉さん、こりゃ……」
「研げるか」
「いや……見ますよ」
恐る恐る剣を手に取り、店主はそっと鞘を外す。その下から現れた真っ直ぐな両刃の剣身を見て、彼は顔をしかめた。そしてまじまじとジゼラを見て、ゆっくりと頷く。
「珍しい剣だが、研げます。仕上がりは明日になりますが」
「では頼んだ」
それだけ言って、ジゼラはカウンターに背を向けた。ヴォルフは彼女の薄い背と剣を見比べて、渋面を作る。
あれは、儀式用の剣ではないのだろうか。剣身ばかり見ていたから気付かなかったが、実際戦う為に作られた剣の装飾ではない。
恐らく元は儀式用の切れない剣だったものを、剣身だけ作り替えたのだろう。生半可な技術では出来ない事だが、東方の技術者に作らせたと言うからそれも考えうる。
「ヴォルフ、行こう」
相変わらず、訳の分からない女だ。しかしヴォルフは質問せずに頷いて、彼女が開けた扉から外へ出た。