空に穴が開いた日
地球の上空に、穴が開いている。
そう表現した記者を、レスター・ハインズは内心で三流だと評したことがある。穴というものは、何かに開くものだ。壁に開く。地面に開く。金属板に開く。何もない空間そのものに開いたものを穴と呼ぶのは、あまりに雑だった。
だが、自分の目で見ると、ほかに適切な言葉が思いつかなかった。
調査船の正面窓。その向こう、地球の青い縁から少し離れた衛星軌道上に、夜より黒い裂け目が浮かんでいた。楕円形ですらない。輪郭は絶えず揺らぎ、星明かりを飲み込みながら、ときおり水面のような銀色の波紋を走らせている。
「門外縁部の再測定、完了しました」
天井のスピーカーから、感情の起伏に乏しい声が降ってきた。
船内統括AI、アルゴス9。乗員は長いのでナインと呼んでいる。
「前回観測比、直径換算で〇・七パーセント拡大しています」
レスターは手元の端末から顔を上げなかった。
「測定誤差だ」
「誤差範囲を超過しています」
「ならば基準点がずれた。あれの周辺では空間座標そのものが安定していない」
「その可能性は二一・四パーセントです」
「十分だ」
操縦席の下から、ごそごそと音がした。
「博士」
「なんだ」
「測るたび大きくなってません?」
レスターが眉を寄せると、床からエマの顔が出てきた。片手にレンチ、頬に黒い油汚れ。調査開始十分前だというのに、助手兼機関担当は操縦卓の下へ上半身を突っ込んで配線をいじっていたらしい。
「科学者が『なんとなくそう見える』で結論を出すな」
「まだ結論出してませんよ。気味悪いなって言っただけで」
「それも要らない。機関系統は」
「正常です。非常電源、姿勢制御、生命維持、帰還用推進剤、全部二重確認済み」
「三重に確認しろ」
「もうしました」
「なら最初からそう言え」
エマは床から這い出し、レンチを腰の工具帯へ差した。
「博士もさっき自分で確認してましたよね」
「責任者だからな」
「私の確認、信用してないんです?」
「信用と確認は別問題だ」
エマは少しだけ笑った。
そういう顔をされる理由が、レスターにはよく分からない。
彼はもう一度、前方の裂け目を見た。
人類がそれを初めて公式観測してから三年。無人探査機を七機送り込み、帰還したものは一機もない。ただし、すべてが破壊されたと確認されたわけでもなかった。通信が途絶える。観測できなくなる。ただ、それだけだ。
だからこそ、自分たちが行く。
「ナイン。突入後の帰還成功率を再計算」
「現時点の情報では算定幅が広すぎます。中央値は六二・八パーセント」
「悪くない」
「一般的な有人宇宙航行としては、極めて悪い数値です」
「知っている」
レスターは安全固定具を締めた。
「だから私が来た」
エマが横目で彼を見る。
「そういうこと、会見で言えば人気出ると思いますよ」
「人気を得るために研究しているわけじゃない」
「でしょうねえ」
ナインが割り込んだ。
「突入予定時刻まで三十秒」
軽口が消えた。
二人とも正面を見る。
裂け目が迫ってきたわけではない。船が近づいているのだ。分かっていても、黒い何かの方からこちらへ口を開いてくるように見えた。
「十秒」
レスターは呼吸を整えた。
「五、四、三、二、一。異界境界面へ進入」
視界から宇宙が消えた。
衝撃はなかった。
代わりに、左右の感覚がなくなった。
レスターは一瞬、自分の身体が座席から滑り落ちたと思った。しかし固定具は正常だった。身体も動いていない。にもかかわらず、正面にあるはずの計器盤が足元にあり、足元にあるはずの床が背後に感じられた。
エマが小さく息を呑む。
「姿勢制御」
「正常です」とナイン。「船体回転なし。角速度ゼロ」
「星図照合」
「不能。既知の恒星配置を検出できません」
「慣性航法」
「位置推定値が一・七秒ごとに不連続変化しています」
エマが前方窓を覗き込んだ。
そこには宇宙らしきものがあった。だが星は遠近を無視して配置され、ひとつの光点が船のすぐ横にあるように見えたかと思えば、瞬きの間に遥か彼方へ移る。
「……気持ち悪いですね」
「感想はいらない」
「博士、あそこ」
エマが指をさした。
レスターは目を凝らす。
何もない。
「何だ」
「今、人がいたような」
「船外に?」
「はい。立ってたような」
レスターは即座に計器を見る。
「ナイン」
「該当位置に物体反応なし。映像記録にも人型構造はありません」
「見間違いだ」
「ですよね」
エマはそう答えたが、まだ窓の外を見ていた。
レスターは気にしなかった。
ここでは既存の感覚器官の方を疑うべきだ。未知の環境で最初に捨てるべきなのは、直感である。
そう考えていた。
十二分後、ナインが告げた。
「前方に人工構造物を検出」
レスターは椅子から身を乗り出した。
「人工?」
「推定全長八六メートル。金属主体。動力反応なし。微弱な残留電磁場あり」
暗闇の中から、ゆっくりと船影が現れた。
新型船ではない。
むしろ古い。胴体は不格好に太く、外板のあちこちが継ぎ接ぎされている。左舷には大きな抉れ。主推進器のひとつは半分ほど潰れていた。それなのに、船体そのものは妙に原形を保っている。
「漂流船……?」
エマの声にも、さすがに冗談めいた響きはなかった。
「識別信号を照合」
「応答なし。外板表記を光学認識します」
船体側面に、掠れた白い文字が浮かんだ。
ARGOS。
エマがナインの端末表示を見て、それから廃船を見る。
「ナインと同じ名前ですね」
「珍しい名称ではない」
「そうですか?」
「神話由来の船名だ。宇宙船にはありがちだろう」
ナインが続ける。
「船体設計規格を照合中。地球圏の旧式民間輸送船を基礎とした改造型と推定」
「年代は」
「暫定解析中です」
レスターは黙り込んだ。
民間船がここにいる。
それ自体がおかしい。
この領域へ有人船が入った公式記録は、今日の自分たちが初めてなのだから。
「接舷します?」とエマが訊いた。
「しない」
即答した。
「未知環境で由来不明の船に接触する理由がない」
「でも、あれを無視して先に行く理由もなくないです?」
「安全性を確認してからだ」
「その確認、外からだけでできます?」
レスターは彼女を見る。
エマも見返した。
五秒ほど沈黙した。
「……ナイン。周辺の空間異常を監視。異常増大時は即時離脱」
「了解」
エマが笑った。
「接舷ですね」
「学術上、無視できないからだ」
「はいはい」
「返事は一度でいい」
廃船アルゴス号の気密区画には、まだ空気が残っていた。
濃度は人間が活動できる範囲。毒性物質も検出されない。レスターとエマは簡易宇宙服を着たまま、接続チューブから船内へ入った。
中は、研究船というより作業場だった。
壁のパネルは色の違う部材で何度も補修されている。床には工具箱。ケーブルは規格品と手製らしきものが混在し、一部は布テープのようなものでまとめられていた。
「これで宇宙飛んでたんですかね」
「外見で性能を判断するな」
「いや、そういう意味じゃなくて」
エマが足元から何かを拾い上げた。
大きなハンマーだった。
工具用にしても、やたら使い込まれている。
「主工具だったりして」
「冗談は後にしろ」
「冗談かなあ」
さらに奥へ進むと、小さな食堂らしい区画があった。壁面収納が半開きになっており、中には乾燥した容器が何本か転がっている。
エマが一本を手に取った。
「ソース?」
「置け」
「ラベル消えてますけど、匂いが完全に肉用のタレです」
「置けと言っている」
「はい」
二人は操舵室へたどり着いた。
主電源は死んでいる。だが中央コンソールの奥、独立電源につながれた黒い箱だけが弱い光を保っていた。
エマの目つきが変わる。
「ブラックボックスです」
「触るな」
「まだ触ってません」
「顔が触っていた」
「顔では触れませんよ」
レスターは携帯端末を接続し、絶縁状態を確認した。電圧、記録媒体、外部信号。危険性は低い。
「起動する」
「博士が触るんじゃないですか」
「確認したからな」
「信用と確認は別でしたっけ」
「黙っていろ」
スイッチを入れた。
最初に聞こえたのは、ノイズだった。
次に、誰かの声。
そして、操舵室の中央に人影が立った。
レスターは反射的に一歩下がった。
輪郭しか見えない。
細かな砂嵐を人の形に押し込めたような、半透明の像だ。二人、いや三つ。ひとつは人間というより、光の柱に近い。
「立体記録か?」
「博士」
エマの声が妙だった。
「何だ」
「見えないんですか?」
「見えている。映像ノイズが酷い」
「ノイズ?」
エマは首を傾げた。
「普通に顔まで見えますけど」
レスターが彼女を見る。
その瞬間、記録の中の男が言った。
『面白そうだな』
別の男が答える。
『入る?』
『入る』
『じゃ、行くか』
レスターは沈黙した。
エマも沈黙した。
第三の声だけが、ひどく真面目だった。
『推奨できません。現在得られている情報では、生還確率は極めて低い値です』
最初の男が肩をすくめたように見えた。
『低いってことは、あるんだろ?』
『ゼロではありません』
『じゃあ大丈夫だ』
『その論理は成立していません』
『行けば分かる』
『行った結果を懸念しています』
もう一人の男が笑った。
『ナナ、心配性だな』
『私は正常です』
像が途切れた。
操舵室に静寂が戻る。
エマが最初に口を開いた。
「……この人たち、本当に入ったんですかね」
「記録の欠損だ」
「会話はずいぶん自然でしたけど」
「再構成処理の可能性がある」
「ブラックボックスが勝手に漫才を?」
「漫才ではない」
「そこですか」
レスターは携帯端末を操作した。
「ナイン。この記録媒体の年代を解析しろ」
船内通信越しに返事が来る。
「解析開始。推定に約四十秒」
その四十秒が、妙に長かった。
レスターは砂嵐の消えた空間を見つめる。
見えなかった。
いや、正確には、エマが見たと言うものほどには見えなかった。
それが気に入らない。
説明できないこと以上に、自分と他人で観測結果が違うという事実が気に入らなかった。
「解析完了」
ナインの声が響く。
「記録媒体および周辺部材の製造年代を照合。複数の不確定要素がありますが、中央値を報告します」
「言え」
「この船は、異界の門が地球側で公式観測された時期より、少なくとも十二年前に建造されています」
エマが瞬いた。
レスターは即座に答えた。
「建造年代と侵入年代は別だ」
「続報があります」
「何だ」
「航行ログの最終更新日時も、門の公式観測以前です」
レスターの口が止まった。
その瞬間だった。
耳を刺す警報が鳴った。
《アルゴス9》からの緊急通信が入る。
「外部空間変動を検出。異界境界面に有意な変化」
「内容を言え」
ほんのわずかな間を置いて、ナインが答えた。
「異界の門、前回観測比――〇・七パーセント拡大」
レスターは、何も言わなかった。
さっきまで人影が立っていた空間を、ただ見つめた。




