068 緊急要請
「そこまでだ」
ヴァールの声が響くや、リーベは熱くなった体を大地に投げた。決して冷たくない地面だが、今の彼女には氷のように冷ややかに感じられた。
「はあ、はあ……も、もう1歩も動けないよ」
「じゃあ置いてくぞ?」
冗談を言いながらもヴァールは水筒を差し出してくる。しかしそれは空っぽだったため、リーベはワンドで新しい水を注いだ。その際、魔力を氷魔法に寄せることで、キンキンに冷えた水にした。
それを呷ると、水が今、食道のどこを通っているのかがわかる。その不思議な心地を味わいながら立ち上がる。
「よっこいしょっと……」
ふと視線を向けると、フェアとフロイデがやって来るところだった。
「お疲れ様です。成果はどうでしたか?」
「上出来だ。あと何ヶ月か鍛えりゃ、一人前の剣士になるだろうよ」
ヴァールは素直に褒めるがフロイデの手前、気持ちよく受け止められなかった。
そっと彼を見ると案の定、不服そうな顔をしている。
「…………」
リーベが居心地の悪い思いをする中、ヴァールは上機嫌に言う。
「だがコイツは実戦経験が乏しいからな。訓練ばかりじゃなくて、場数を踏ませねえと」
「そうですね。道すがら、ギルドを覗いていきませんか」
「ああ、そうするか――つーことだから、ちょっくらギルドに行くぞ」
「あ、うん……わかった」
「…………」
フロイデは終始、無口であった。
冒険者ギルドには24時間、誰かしらが詰めているが、営業時間で言えば18時までだ。一行はそれに滑り込む形で入場したものだから大きなホールには人影がおらず、受付も1つしか開いていなかった。
「わあ、こんなに人がいないの初めて見た」
「もうすぐ閉まるからな。こんなもんだろ」
そんなやり取りを交わしながら目的を果たすべく、掲示板へ向かおうとしたその時、ヴァールを呼ぶ声がした。
「ヴァールさん。ちょうど良いところに」
振り返ると、そこにはカルムがいた。相変わらず目の下には濃い隈が出来ているが、彼のたたずまいは至って整然としたものだった。
「カルムか。なんかあったのか?」
「実は南東のヌクレール湿原で異変があって」
「異変?」
「はい。……ですので、差し支えなければ少しお時間をいただけないかと」
するとヴァールはメンバーを順繰りに見るが、拒否するものは1人もいなかった。
「みんな良いみたいだからな。付き合うぜ」
「ありがとうございます。ではこちらへ」
カルムは一行を案内する途中、受付で事務作業をしていたフィーリアに呼びかける。
「リア、ちょっといいかい?」
「ん? はい。なにかあったんですか――あ、リーベちゃん!」
友人の姿に目を留めると彼女は笑みを浮かべる。
リーベは愛犬ダンクのような溌剌とした彼女の振る舞いを微笑ましく思いながら手を振る。すると彼女は数瞬前のことを忘れて雑談を始めようとするが、兄であり上司であるカルムに呼ばれてハッとする。
「あ、そうでした。それで、なんですか、お兄ちゃん?」
「悪いけど、人数分のお茶を会議室までお願い」
「わかりました。すぐ用意しますね」
給湯室へ向かう彼女を見送ることなく、カルムは一行を会議室へと導く。
そこは広い空間であり、横長のデスク六台が輪を描くように並べられていた。壁際には天井に届くほどの書架があり、そこには分厚いフォルダで埋め尽くされていた。
それらが醸す小難しい雰囲気にリーベは圧倒された。
「うう……なんか緊張する」
「はは。そう難しい話をするわけじゃないから、気楽にしてていいよ」
「は、はい……」
カルムは彼女に気を遣って優しく言うがしかし、やはり緊張せずにはいられなかった。
ぎこちない所作で席に着くとリーベは向かい側の席に着くカルムを見守る。彼が何かを話し出そうと口を形作ったその時、コンコンとドアが鳴った。
「失礼しまーす。お茶をお持ちしました」
入ってきたのはフィーリアだった。
彼女は6人分のお茶をトレイに載せてやって来ると5人に配って回り、それか兄の隣の席に腰掛け、自分の分の茶をすする。
「ふう……」
「リア、君は自分の仕事に戻りなさい」
「お兄ちゃんのいけず!」
頭頂の跳ね毛をぷんすかと伸縮させながら彼女が退室すると、彼ははため息をついた。
「……さて。何があったのかを簡潔に説明させていただきます」
「おう」
ヴァールが真剣な声で答えると彼は喉を鳴らしてから語り始める。
「王都の南東に位置するヌクレール湿原において濃霧が観測されました。これは気温が上がり始める早朝に限らず、1日に渡って観測されているんです」
「ほう……それは妙ですね」
フェアが言うとカルムは頷く。
「異変はそれだけではありません。北東のクルトン森林にてドラゴスパロウと思われる魔物が観測されました。彼らは湿地帯に生息する臆病な魔物ですから、自ら住処を変えるというのは考えられず、湿原に現れた強力な存在によって追い出されたのだと推測されます」
「なるほどな」
ヴァールが腕を組む。
「つーことは誰かに……多分アイツだろうが、妙な魔物を湿原に持ち込まれたんだな?」
「その可能性が高いですね」
そこまで言うと彼は改まって言う。
「急な話で恐縮ですが、ここは是非、皆さんの力をお借りしたいのです。如何でしょう」
「ここまで聞いて行かないわけにはいかないからな」
「ありがとうございます」
彼はホッと息を吐き出した。
そうして話が一段落ついたところでリーベはヴァールに問う。
「ねえ。今度もわたしが戦うの?」
「相手次第だな。まあ、霧を出す魔物なんて、厄介なヤツばかりだがな」
「そ、そうなんだ……」
師匠の言葉にリーベは恐怖を募らせた。
彼女はそっと隣に掛けているフロイデの顔を覗くと、彼は淡然と話に耳を傾けていて、恐怖している風はなかった。その様子に経験の差を思い知らされる。
(わたしももっと場数を踏まないと……!)
「何れにせよ、異変を調査しないことには始まりません」
フェアの言葉に「そうだな」ヴァールが頷く。すると彼は、弟子たちに決定を告げる。
「そう言うことだから、明日の早朝には出るぞ」
「うん」
「わ、わかったよ……!」
弟子たちが口々に了解を表すとヴァールは立ち上がる。それにフェアとフロイデ、そしてカルムと続く。整然たる3人とは対照的に、リーベは慌てて立ち上がった。
「んじゃ、ちょっくら行ってくるわ」
「はい。現地で何が待ち構えているかわからないので、どうかお気をつけて」
一礼するとカルムはリーベに向けて微笑む。
「リアと一緒に無事の帰りを待ってるからね」
「お兄さん……はい! 必ず元気に帰ってきます!」
夕食や入浴などの日課を終えたリーベは、明日の冒険に備えて休む必要に迫られた。だからダンクとお話しする時間もほどほどに早々に目を瞑る。
しかし胸がモヤモヤしていることに加え、ダンクが構って欲しそうにしていたため彼女は結局、話し始めた。
「もお、仕方ないな。ちょっとだけだよ?」
リーベがそう口にするとダンクは嬉しそうに目を煌めかせる。
「ふふ、ダンクは甘えん坊さんだね?」
「…………」
背中を撫でると彼は嬉しそうに身を震わせる。そんな愛犬を愛おしく思いながらも、リーベは言葉を続ける。
「あのね、南東にある湿原で、1日中霧が濛々と立ちこめてるんだって。不思議でしょう?」
「…………」
「わたしたちは明日、それの原因を調べに行くの。ダンクだってお家が霧まみれだったら嫌でしょう?」
「…………」
彼は霧の中の我が身を想像し、湿気によりモフリティが低下するのを悟り、ブルリと震える。
「そうでしょう? わたしたちは明日、そんな霧を出す魔物を倒しに行くんだよ?」
すると彼はぶるりと震わせる。
「ふふ。まあダンクはお家にいるんだから心配はいらないよ? だけどわたしは明日、その霧を出す魔物のところに行かなきゃならないの。だからダンクには無事を祈ってて欲しいんだ。お願いできる?」
「…………」
彼が頷くのを見ると、リーベは安心できた――とその時、フロイデの声が響く。
「まだ、起きてる?」
「あ、すみません。起こしちゃいましたか?」
「うん」
「ああ、ごめんなさい。もう寝ますから」
彼にそう言うと、リーベは小声でダンクに呼びかける。
「そう言うことだから、また今度ね?」
「…………」
残念そうにするが、彼は道理のわかる子だ。だからダンクはさておき、フロイデの眠りを妨げてしまったことを気にする。
せめて口これ以上彼の眠気を妨げないようにと口を噤んでいると、彼の方から話しかけてきた。
「ねえ、リーベちゃん」
「ん? なんですか?」
少々驚きながらも答える。
「リーベちゃんは怖くないの?」
「?」
彼の意図が読めず沈黙していると、彼は続ける。
「次から本当に剣士として、戦うんだ、よ?」
「あ、ああ……そうですね」
キックホッパーとの戦いは謂わばお試しだった。しかし、これからは1人の剣士――魔法剣士として戦場に立つのだ。前衛なのだから当然危険だし、1つのミスが命に直結する。それを思えば恐れずにはいられない。
「……もちろん怖いです。でも、わたし1人の戦いじゃありませんから。いざとなればおじさんにフェアさんが護ってくれますから。それに――」
「才能がある、から?」
「……フロイデさん…………」
「……おやすみ」
彼は逃げるように寝返りを打った。
その言葉は妬心の発露であり、それによってリーベの胸には悲しい気持ちと僅かな憤りとが生ずる。
だが彼とて悪気はないのだ。
そう理解しているが故に余計にモヤモヤする。
「…………」
リーベは10を数えて心を宥めると、「おやすみなさい」と返してまぶたを下ろした。




