062 出立の時
天井の高いホールには男性たちの低く太い声が反響している。そんな騒々しい空間の中、少女の声はよく通った。
「あ、リーベちゃ~ん!」
フィーリアは友人を見つけるや、ぴょこぴょこしながら手と跳ね毛を振っている。そんな歓迎を受けるリーベは、その姿から愛しのアデライドを想起するも、それは愛犬への不義であるため、妄念を振り払った。
「リアちゃ~ん!」
手を振り返しながら彼女の待つ受付へ向かうと、その柔らかく温かい手を取る。
「冒険に行くんですか?」
「うん。最近剣術を習い始めてね。それを試しに行くんだ」
「剣術ですか⁉ わたしてっきり、魔法使いなんだと思ってました」
「いや、わたしは魔法使いだよ? でもわたしの武器が剣と魔法の杖を合体させた奴だからね。こうして剣術を学んでるんだ」
「へえ、そうなんですね」
「おいリーベ! こっち来い!」
掲示板の方からヴァールが呼んでいる。
「呼ばれちゃった。それじゃ、また後でね?」
「はい。待ってますね」
手を振って別れると仲間たちの下へ向かう。先んじて掲示板を見つめている3人にリーベは尋ねる。
「何かよさげなのありましたか?」
するとフェアが振り返ってある依頼書を剥がして手渡してくる。
「ええとなになに~『アリアン村近郊に出現したキックホッパーの討伐』。キックホッパー?」
「体長が3メートルくらいのバッタだな」
「うげっ⁉ バッタって……もっと他にないんですか?」
「リーベちゃんが勝てそうなの、虫しかいない」
フロイデに残酷な現実を突きつけられると、おじさんが「諦めろ」と肩に手を置いてきた。
「で、でも……」
「コイツにお前1人で勝てたら、約束通り人形を買ってやるから――」
「頑張る!」
「代わり身速えなおい……」
「ダンクにお友達を作って上げるためだもん!」
「もんってお前……まあいい。とにかく次はキックホッパーだからな」
「うん!」
そんなやりとりを経て一行は受付にやって来た。そこにはフィーリアが待ち構えていて、「承ります」と、元気で可愛らしい声を発した。
「キックホッパーの討伐ですね――て、キックホッパー⁉」
彼女の驚愕に頭頂で跳ね毛がピーンと伸び上がる。
「大きなバッタですけど、リーベちゃん、大丈夫ですか?」
リーベは怖気をダンクへの熱い想いで振り払う。
「う、うん……大丈夫……!」
「そうですか……じゃあ手続きに移りますね?」
そう言うとフィーリアは用紙に色々と記入し始める。用紙に踊る文字はどれも丸み帯びており、リーベは女の子らしいというよりも、彼女らしいと思った。
「ギルドカードの提示をお願いします」
言われるままに差し出すと、彼女は全員の情報を用紙に書き込み、「最後にこちらに記入をお願いします」とリーダーであるヴァールに別の用紙を差し出した。
「おうよ」
彼が署名すると、フィーリアは友呼びの笛を差し出した。
その様子にリーベは王都でもソキウスに会えるのだと気持ちが高ぶった。しかしその時、彼女の脳裏にはテルドルでソキウスの騎手をしていたスヴェンの言葉が蘇る。
『いつもみたいに燥いで飛びついたりとかはしないでね? みんなびっくりしちゃうから』
「はっそうだった! 気をつけないと……!」
リーベの独り言に他の4人は一様に首を傾げた。
ともあれ手続きはこれで終了である。フィーリアは受付上としての務めを果たすべく気を引き締める。
「手続きは以上になりますが、ご質問等ございますか」
「大丈夫だ」
「そうですか。それでは、無事の帰還をお待ちしております」
口上を言い終えるとフィーリアはリーベを心配する。
「リーベちゃん。無理だけはしないでくださいね?」
「……うん。約束するよ」
2人は別れを惜しむように数秒間、小指を絡めていた。
「手続きも終わったことだし帰るか」
ヴァールが頭の後ろで腕を組み合わせて言う。
「その前に晩の買い出しに行かないと」
そう言うとリーベは当クランの食事担当大臣であるフロイデに意見を問う。
「晩ご飯、何が食べたいですか」
「魚と牛乳……!」
彼は具体的なメニューではなく、食材でリクエストをしてくるのだ。そのたびに少し困らせられるが、魚と牛乳であればいくらでも作りようがある。
「じゃあ今日は川魚のクリームソース掛けにしますか」
中空を見上げながら提案すると彼は嬉しそうに頷いた。
「うん……!」
「おいおい、魚は昨日も食っただろ? 肉にしようぜ?」
ヴァールの言葉にフロイデがキッと反応する。
「魚……!」
「肉!」
大小2人は睨み合うと、各々拳を背後に隠して――
「ジャーンケーン――」
ポンッ! と2人はパーを出す。
「ジャーンケーン――」
ポン! と、フロイデはチョキを、ヴァールはパーを出した。
「ぼくの勝ち……!」
「ちくしょお……」
フロイデが得々と鼻を膨らませる一方で、ヴァールは悔しげに拳を見つめていた。
「はは……今度はお肉にしようね?」
「夕食が決まったことですし、買い出しに参りましょうか」
微笑を浮かべたフェアの言葉にリーベは頷くのだった。
「そうですね」
それから買い出しや夕食作り、入浴などの日課を消化したリーベは明日の冒険に備えて睡眠を取ることとなった。
例によってフロイデを廊下に待たせて、彼女はパジャマに着替えた。
「もういいですよ?」
ドアに向かって呼びかけると、フロイデがためらいがちに入室してくる。
「い、良いんだよ、ね?」
「はい。良いですよ?」
そうして彼を迎え入れると、彼女は机の前に掛け、ダンクと共に図鑑を読み込んだ。
厳めしい装丁の図鑑にはこのように記されていた。
『キックホッパー……第五級危険種
体長は3メートルほどのバッタ。体格故に高い跳躍力を持ち、1度の跳躍で最大、1キロメートルほどを移動できることが確認されている。
ススキやアシなどのイネ科の植物を好むため、川沿いや湖畔などに生息している。
非常に温厚な魔物で、害を加えなければ触れることさえできる。
しかし、ひとたび怒らせるとその強靱な脚力を以て蹴り飛ばされるため、気をつけるべし。
天敵としてラソラナやギガマンティスが挙げられる。
天敵が揃って森に住んでいるため、キックホッパー自身は森中には入ってはこれない。そのため、不用意に怒らせてしまった場合は森に逃げ込むと良い……無論、他の魔物には十分の注意を払うことを忘れぬように』
「ふむふむ……」
「勉強?」
その声に振り返ると、そこにはフロイデがいて、横から図鑑を覗き込んでいた。
「あ、はい。何か参考になることはないかな~って」
「そうなんだ」
「フロイデさんはキックホッパーを倒したことってありますか?」
すると彼は得意そうな顔をして「ある……!」と答えた。
「へえ……フロイデさんから見てどうです? 強かったですか」
「強くはなかった」
『弱かった』ではなく、『強くはなかった』と答えた。
それが魔物に対する畏怖の表れなのだとリーベは直感した。
「前と後ろにしか攻撃できない、から、横に回れば、勝てる」
「横ですか?」
「うん。体当たりと、キックしか使えない」
「なるほど……ハイベックスみたいに小回りが利いたりは?」
「しない。けど、一気に距離を取ってから飛び掛かってくる、から、気をつけて」
「わかりました」
フロイデのお陰で具体的なイメージが出来そうだと、彼女は早速、頭の中に大きなバッタを思い描き、イメージの中で戦うことを試みた。しかし、相手はバッタということもあって強烈な不快感を催し、結局戦えなかった。
「はあ……バッタか」
「まだ虫、だめな、の?」
リーベは以前、虫嫌いを克服するべくカエルの魔物と戦ったのだ(カエルは両生類だが、気持ち悪いから昆虫と同じようなものだと彼女は思っている)。
「はい……まだダメで…………」
「女の子は大変、だね」
そう言うと彼はリーベに背を向け、自分のベッドへと向かう。
「明日も早い、から、もう寝た方が、いい、よ?」
「そうですね。手紙を書いたらすぐに寝ます。お休みなさい」
「うん、お休み」
彼がベッドに潜るのを見届けると、リーベは図鑑を閉じ、両親への手紙を認めてからランプの明かりを消し、ダンクと共に横になった。そうして毛布を頭から被ると、フロイデの眠りを妨げないように声を潜め、秘密のおしゃべり会を催した。
「ねえダンク。わたし、明日からまた冒険に行かなきゃならないの。だからまた1人でお留守番してもらうことになるけれど、大丈夫?」
「…………」
ダンクは肯定するでも否定するでもなく、ただ沈黙していた。それは、飼い主を応援する気持ちと、孤独を嫌う気持ちの表れであり、リーベはただただ申し訳なかった。
「ごめんね。でも、寂しいのは今回までだから」
「…………」
ダンクは不思議そうに首を傾げた。だから彼女は説明して上げる。
「ぬいぐるみ屋さんであったあの子。あの子が今度うちにくるんだよ?」
するとダンクは驚愕に言葉を失った。
「ふふ。だから寂しいのも今回まで。もうダンクは1人ぼっちじゃないんだから」
「…………」
ダンクが歓喜に打ち震えたのも束の間、今度は男の子らしい恥じらいに口を噤む。
「ふふ、先輩として、いろいろ教えてあげてね?」
そう呼びかけるも、彼は突然訪れた春の気配に取り憑かれ、さしたる反応も示さなかった。そんな彼を愛おしく思い、撫でていると眠気が到来する。
「ふぁ……ダンク。わたし、もう寝ないと」
すると彼は不服そうな目で飼い主を見る。
「ごめんね? でも、明日も早いんだ。だからお休みなさい」
彼のぽっこりとした腹を撫でながらリーベは目を瞑った。
すると瞬く間に眠気が広がり、彼女の意識に甘いしびれをもたらした――
明くる早朝。リーベはフロイデに体を揺すられて目を覚ました。
「ふぁ……もう朝ですか?」
「う、うん。準備、して」
「わかりました――ふぁ……」
欠伸をしながら彼が退室するのを見送ると、彼女はいつもの冒険服に着替えた。
それからダンクを抱きかかえるとその広い額にキスをする。
「必ず帰ってくるから、お留守番、お願いね?」
そう呼びかけるとダンクは瞳を逞しく煌めかせた。その様子に一安心した彼女は荷物を手に1階に下りる。するとそこには仲間が待っていた。
「遅いぞリーベ」
言いながらヴァールがソードロッドを差し出してくる。
「ご、ごめんなさい……」
「健康そうでなによりじゃありませんか」
フェアはくすりと笑うと「さて」と切り出す。
「全員揃ったことですし、馬車乗り場まで参りましょうか」
彼の言葉にフロイデが素早く反応する。
「そこでご飯、買う……!」
馬車乗り場には旅人へ向けて、早朝から出店が開かれており、彼はそのことを言っているのだ。
「食うもん食わねえと力が出ねえからな」
ヴァールは言うとリーベの緑色の目を見据える。
「今回はお前の活躍に掛かってるからな。気張って行けよ」
「うん! 任せて!」
力強く返すとヴァールは師匠としては満足し、口元に笑みを浮かべながらドアの方を見る。
「うっし。行くぞ!」




