060 一期一会
アリサの指導に従い、リーベは親指と人差し指で輪っかを作って乳頭を摘まむ。残る指を根元か先端に掛けて順に握り込んでいくと、ぴゅーっと、勢いよく生乳が噴き出す。
「わ! 出た出た!」
「おお……!」
隣で一緒に乳搾り体験をしていたフロイデが感嘆の声をあげる。牛乳好きな彼としては、まさに夢のような光景であった。
「ふふ、こんなもんじゃないわよ。この子たちはまだまだ出るんだから」
そう言うとアリサは乳頭を2本掴んで効率よく搾乳した。ミルク缶にはじょぼぼぼと生乳が溜まっていき、大容量かに思われたそれを、たった一頭で半分まで満たしてしまった。
「へえ、こんなに出るんだ」
「これ、飲める?」
フロイデが期待を満面に浮かべて問いかけるも、アリサは顔を橫に振った。
「ううん。一度加熱しないと飲めないわよ?」
その答えに彼は肩を落とした。
「搾りたて……」
「ふふ、でも安全に飲めることが何より大事だからね。これも仕方ないことよ?」
「うん……」
彼が納得を見せたところで、彼女は腰に手を当てた。
「乳搾り体験はこんな感じで良かったかしら?」
「はい、お忙しい中、どうもありがとうございました」
「ありがと」
「若い子が興味もってくれて私も嬉しいわ。それじゃ、手を洗っていらっしゃい」
「はーい!」
乳搾りを終え、手を清めたリーベたちはパウロ宅に戻った。
入ってすぐの食堂ではヴァールとフェアが食卓に着いており、今後のことを語らっていた。弟子たちが入ってくるのに気付くと、対象的な2つの顔を彼らへ向ける。
「終わったみたいだな」
「その様子だと良い体験ができたようですね」
2人の言葉にリーベは力強く頷いた。
「うん! 知ってた? 牛乳って1頭からたくさん出るんだよ?」
「大量……!」
体験で得た知識を披露していると、厨房の方から家主であり村長でもあるパウロが、食事を手にやって来た。彼はリーベらの話を耳にしており、微笑ましげに笑みを浮かべている。
「はは! 楽しんで頂けたようで何よりだよ。さ、朝食をどうぞ」
朝食はオーソドックスに丸パンとベーコンエッグ、サラダ。そしてライル村自慢の牛乳だった。
「わ、美味しそう」
「牛乳……!」
そうして4人分が配膳されると朝食となった。
パウロはアリサが戻って来てから朝食を摂るようで、多少気が引けたものの、冒険者四人は先に食事を頂く事になった。
フロイデは真っ先に牛乳を飲み干し、白髭を作る。
「朝はこれに限る……!」
彼が水差しから牛乳を補充するのを眺めながら問い掛ける。
「フロイデさんは毎朝牛乳飲むんでしたっけ」
「うん。……ん? リーベちゃんは、飲んでない、の?」
彼は不満そうな目をしていた。
「どうかしましたか?」
「明日からやってみるって、言った」
何のことだろうと首を傾げるが、やがて思い出した。
彼にテルドルを案内していた時、彼が風邪をひいたことがないと聞いたリーベは、その秘訣を問うた。その答えが『毎日牛乳を飲む』というもので、彼女は『早速明日から実践してみますね』と答えたのだ。
「あ、ああ……すみません。あの後いろいろあって、忘れちゃってました。今度こそ、実践しますね?」
「約束……」
「はい」
そんなことを話し合っていると、フェアがパンを千切りながら口を挟む。
「お話も良いですが、食事を終えなければ出発できませんよ?」
「そうだ。さっさと村を出ねえと、テルドルを閉め出されちまうからな」
ヴァールの言葉に気付かされたリーベは、これから待ち受ける過酷な試練にげんなりさせられた。だがその分、目の前の食事に価値を見出し、一層丹念に咀嚼するようになった。
食事を終えるとすぐに出立することとなり、冒険者たちは村長夫妻に見送られることになった。
「ヴァールさんたちはしばらくテルドルにいるんですよね?」
「ああ。と言ってもあと1月くらいだがな」
その言葉にリーベは動揺したが、会話は流れていく。
「もしかしたらまたお世話になることもあると思いますが、その時はお願いしますね?」
「ああ。……まあ、そうならねえのが一番なんだがな」
「はは、確かに!」
2人が笑みを交わす中、アリサが弟子2人を見る。
「リーベちゃんもフロイデくんも。その時はまた村を護ってね?」
「うん、護る」
「……あ、はい。わたしも、頑張ります」
その時フェアがリーダーであるヴァールに耳打ちする。
「ヴァール、そろそろ」
「お、そうだな。そんじゃ、元気にな」
彼に続いて口々に別れを告げると、夫妻に「道中、お気を付けて」と笑顔で見送られた。
半日ほど歩き続けたがしかし、未だに視界の両端には鬱蒼とした森林が広がっており、正面には坂道が果てしなく続いている。この光景がリーベにどんな印象を抱かせたか。それは語るまでもないだろう。
「うへえ……」
緩やかな勾配にいじめ抜かれた彼女だが、それでも健気に脚を動かし続けている。
だが心の中では『馬車が通りかかれば乗せてもらえるのにな~』と、情けない事を考えているのだった。
「ぜえ……」
喘いでいると、前方で振り返った振り向いたヴァールと目が合った。
「休むか?」
「も、もうちょっとだけ歩かせて……」
(疲れたけど……いつまでも疲れていられないんだ。体力を付けないと……!)
ヴァールが「そうか」と呟く傍らで、フロイデは心配そうに彼女を一瞥した。
やがて2人が視線を前に戻すと、替わってフェアが手が差し伸べてくる。
「杖はご入り用ですか?」
「お願い、します……」
彼の手を借りると多少楽になった。そうして歩き続ける内、前方に広場が現れる。
広場と言ってもここは自然界。出店やベンチなどはなく、街道の幅が広がっていただけのものであるが、何者かが野営した痕跡があるため、そう感じたのは彼らだけではないようだ。
「ちょうどいい。ここらで休憩にするぞ」
その言葉を聞いた途端、リーベの脚の力が抜け、膝から崩れ落ちた。
「ああ~! もう動けない……!」
「じゃあ置いてくか」
「えー、酷い!」
(なんて残酷な!)
「だはは! そんだけ声が出せりゃ、大丈夫だ。それよか、今のうち飯食っちゃえ」
ヴァールがそう口にしたとき、フェアが待ったを掛ける。同時にリーベの背筋にぞわりと、冷たいものが這い上る。
「食前に回復薬をどうぞ」
「うげっ!」
「以前のものは魔力回復用ですが、こちらは体力を回復させるものです。さ、飲んでください」
説明台詞と共に小瓶を押しつけられたリーベは、救いを求めてヴァールとフロイデを見やる。しかし2人は非情にも彼女から目を背け、黙々と食事を取っていたのだ。
「そんな~……」




