059 娘のいない夜
あれから恙なく食事を終えたリーベらは片付けを夫妻に任せ、一足先に休むことになった。
客間に引き上げてくると、そこにはベッドが待ち構えていた。その四角いフォルムが彼女の眠気を喚起する。
しかしこれから歯磨きをしなければならない。それがなんと歯痒いことか。
リュックから歯磨きセットを取出し、シャコシャコシャコ……
スッキリしたところでようやく橫になった。
「ああ~……ベッドだ……」
疲れが滲み出るような心地に陶然とした声が零れ、それにヴァールが反応する。
「明日も早いんだから、さっさと寝ろよ?」
「うん、お休みなさい」
「良い夢見ろよ」
まぶたを閉じて毛布を頭まで被る。
「ふう……」
そうして夢の世界へ飛び立とうとするも、中々寝付けなかった。
「…………」
眠いのは確かだ。なのに眠れなかった。このもどかしさに、自然、呻り声が出る。
「うーん……」
「寝ろ」
暗闇の中、ヴァールの声が低く響く。
「眠れないよ」
「それでも寝るんだ」
「だってゴワゴワするんだもん」
冒険にパジャマなんて洒落たものを持ち込めるはずもなく、リーベは活動時と同じ服装(もちろん着替えて、新しいのを纏っている)で横になっていたのだ。
「それに、ダンクもいないし」
「ダンク? ああ、あの人形か」
「ワンちゃんだよ! ……あの子といつも一緒に寝てたから」
思えばこの10年。彼女はいつもダンクと一緒に眠っていた。だから彼のいないこの夜に孤独を感じ、眠りにつけないでいたのだ。そう悟るも、彼女は自信のことより友人のことを心配した。
(ダンク、1人で大丈夫かな? 泣いてないと良いんだけど……)
悶々としていると、ヴァールが無情にも言う。
「お前ももうガキじゃねえんだ。いい加減、アイツに頼らねえでも寝れるようになれって事だ」
「そんなあ……」
その言葉を理解しつつも、やはりリーベは寂しくて、ダンクの代わりになるものを探し求めていた。枕に毛布などを抱きしめて見るも、これらからは体で感じられる以上の温もりは得られなかった。
どうしたものか闇の中を見回していると、ヴァールの大きな体が陰として見えた。
「ねえおじさん」
「寝ろ」
「うん。寝るからさ、手、繋いで?」
「冒険者のクセにそんなガキ見てえなこと言うなよ」
そう言いつつも、彼は手を差し出してくれた。それを両手で握る。それはクマの手のように大きくて、岩から削り出したかのように固くて、それでいた温かくて。とても安心できた。
「これで良いだろ?」
「うん、ありがと……お休みなさい」
心の中で、両親にもお休みなさいを言った。
ヴァールが『良い夢見ろよ』と言うも、その声は急速に遠のいていって、よく聞こえなかった。
暗闇の中、エルガーは沸き立つ不安を宥めることを諦め、無視しようと寝返りを繰り返していた。しかし不安は執拗なまでに彼の心を苛むため、無視なんて到底できそうになかった。その事実に神経が逆撫でされ、体温が上がって行く。
「くそ……っ!」
夜風に当たろうと身を起こすと、隣から声がした。
「エルガーさん?」
振り返ると、シェーンが心配そうに彼を見つめていた。
「悪い、起こしちまったか?」
「ええ、まあ。それより、どちらへ?」
「風に当たりたかっただけさ」
とは言ったものの、シェーンと話している内に心は幾分、安らいでいた。この分なら寝られそうだと安堵した彼は再び身を横たえた。
「風はいいんですか?」
「ああ、気が変わったんだ」
「そうですか」
会話が終わると、代わって静寂が訪れる。
音がないはずなのにツーッと響く耳鳴りを鬱陶しく思いつつ、固く目を閉じる。食堂は明日も営業日であるため、エルガーは早く眠りに就きたかったのだが、どうしても娘のことが気になってしまう。
(リーベは大丈夫なのか?)
彼の一番弟子であるヴァールは『擦り傷1つ許さねえから安心しな』と言っていたが、それでも心配してしまうのが親心というものだ。
「はあ……」
「リーベのことが心配なんですか?」
「……ああ」
溜め息をついたとき、ふと思った。
(俺が冒険に出ているとき、シェーンとリーベはこんな思いをして過ごしてたんかな……)
すると不安はどこへやら、罪悪感とも後悔ともつかない、とにかく苦い感情で胸がいっぱいになる。そのまま悶々としていると、心配そうな声が聞こえてくる。
「どうかしましたか?」
その声にエルガーは姿勢を変え、横臥すると妻を見つめる。その若葉のように澄んだ緑色が、なぜか闇の中にはっきりと見えた。それを前に愛おしさがこみ上げてきて、もう抑えようがなかった。だから彼はその心の内を明かした。
「……俺が冒険に出てるとき、お前たちはこんな苦しい思いをしてたのか?」
数瞬の沈黙を経て、シェーンは肯定した。
「そうか……」
自然と手が伸びて、気付いた時には妻を抱きしめていた。
「すまなかった……」
「エルガーさん……」
妻は小さな手を夫の背中に回すと、その腕に収まるように顔を寄せた。結果、エルガーはシェーンの小さな頭に鼻先を埋める形になり、その日だまりのように温かく、花のように甘い匂いを胸いっぱいに取り込むこととなった。
すると胸に蟠っていた苦い感情は次第に薄れていく。
「謝らないでください。無事でいてくれたのですから、それで良いんですよ」
「シェーン……」
エルガーは妻の愛を手離すまいと、抱きしめる手に力を込めた。




