006 揺らめく心
ランチとディナーを凌いだリーベの耳には『どんな魔物だったの?』『怖くなかったかい?』『リーベちゃんが戦ったって本当かい?』『さすがエルガーさんの娘だ!』という言葉が焼き付いていた。目を瞑ればそれらが耳朶に蘇るほどに。
「はあ……」
(お父さんの引退騒動よりも凄かった……)
リーベはそう思いつつも、自分の生活が脅かされたのだからそれもそうだろうと、納得していた。しかし、そのお陰で疲れ切った彼女はため息が尽きないが、それではいけないと代わりに伸びをする。
「ん~~~っ!」
「リーベ。仕込みをやるからこっちに来てちょうだい」
脱力をしようとしたちょうどのタイミングで母シェーンに呼ばれる。
「はあ……あ、はーい!」
返事をしてから食器をまとめていた父エルガーを見やる。
彼は元冒険者なだけあって体力があり、疲れた様子は一切ない。娘の目にはまだ8割ほどは体力が残っているように映った。
「お掃除、お願いね」
「おう。リーベもケガすんなよ?」
「うん。ありがと」
がらんとしたホールに父を残し、彼女は厨房へ向かう。
閉店後の仕込みは川魚を切り身にしたり、ドレッシングやソースを作ったりする。そうすることで明日の仕事が減るのはもちろん、ドレッシングなどは一晩おくことで味が馴染むのだ。
リーベはこの作業を手伝いつつ、料理を学んでいた。
母の隣に立って指導を受けようとしたが、別の指示が飛んできた。
「あ、そうだ。冷蔵庫に魔力を籠めておいて」
「わかった」
ここは食堂であるため、大きな冷蔵庫がある。
冷蔵庫とは金属製の大きな箱で、天板の内側に取り付けられた刻印に、魔石から魔力を供給する事で冷気を発生させる仕組みを持っている。この冷気をもって食品の鮮度を保つのだ。
クローゼットのような冷蔵庫の扉の上には魔石がある。紫色のそれは内側から淡い輝きを放っているが、あと2~3時間もすれば消えてしまうだろう。熱を操る魔法は魔力の消費が激しい為、冷蔵庫の効力を維持するには一日一回、魔力を籠めねばならないのだ。
リーベはワンドを取り出すと、先端の珠を魔石にあてがい、魔力を籠める。
すると淡い輝きは白く煌々としたものへと変わっていく。
「これでよしっと――終わったよ?」
「そう。それじゃ、仕込みを始めましょうか」
仕込みを終え、一家はようやく夕食にありついた。
メニューは弱ってきた野菜を使ったラタトゥイユと余り物という、食堂を営んでいる家庭にありがちな組み合わせだった。
事実、質素なメニューだが、これらは全てシェーンが腕によりを掛けて作ったもので、味は保証されていた。だから誰も不満を抱かなかったが、しかし昨日の豪華さと、なにより食卓の賑やかさの落差が激しく、リーベには若干物寂しく感じられた。
「どうしたリーベ? 腹でも痛いんか?」
エルガーが心配して問い掛ける。
「う、ううん。なんでもないよ」
「そうか?」
夫が首を傾げる傍ら、シェーンが口を開く。
「具合が悪いのなら遠慮せずに言うのよ?」
両親優しい言葉を耳に、リーベは失礼な事を考えていた自分が恥ずかしくなった。
「ありがと。でもちょっと疲れただけだから――それより、お腹空いちゃった」
彼女の言葉を裏付けるように腹が鳴った。
「~~っ!」
「ははは! そうだな、さっさと食おうぜ」
「そうね。いただきますしましょうか」
それから3人は「いただきます」と唱和して食事を始めた。
食事は和気藹々と、会話を交えて進行していく。
その中で話題に上ったのはもちろん、今日の混雑具合だ。
「お店が賑わうのはいいんだけど、賑わいすぎるのも困りものね」
シェーンが贅沢な悩みを吐露すると、エルガーが小さく笑った。
「はは、そうだな。だが、ディアンの画が無くなったことだし、しばらくすりゃ、前よりも忙しくなくなるだろうさ」
「そうね。今が稼ぎ時なんだし、頑張りましょう」
二人が言うように、ディアンの描いた『断罪の時』はエーアステの集客に一役買っていた。だが、エーアステの魅力はそこだけではない。シェーンの料理と、エルガーの名声。それらがある限り全く以て安泰だった。
一家が風呂屋に向かう道中、すれ違った冒険者の姿に、リーベは昨夜の疑問を思い出した。
「そうだ。ねえ、お父さん。お父さんはどうして冒険者になったの?」
「藪から棒だな」
「ちょっとね、気になったの」
エルガーは訝しげに鼻を鳴らしつつも答える。
「俺には才能があったからだ」
「才能? お金とかじゃないの?」
「ああ。俺は東のオズソルト出身なんだが、冒険者になる前は剣闘士をしてたんだ」
オズソルトはこの国の東端にある港湾都市で、外国との通商で発展してきた。そんな歴史もあり、テルドル以上に人の出入りが多く、必然的に興行が盛んになったのだ。
そして剣闘とは、オズソルトで1番人気の競技だった。
「剣闘士⁉」
リーベは父の言葉に驚愕する。
剣闘とは鎧を纏った戦士が木剣で殴り合う非常に危険な競技で、時に死人が出ることもあるほどだ。父がそんな恐ろしい競技をしていただなんて、リーベはまったくの初耳だった。
(お母さんはこのことを知ってるのかな?)
彼女はちらりと母を見やる。自分と同じ反応を示しているかに思われたが、シェーンは至って平然としていた。
(夫婦なんだから、夫の経歴を知り尽くしていて当然か)
納得しつつ父に視線を戻した時、彼は苦笑気味に語る。
「親が事故で死んだ憂さ晴らしで剣闘士をやってたんだが……俺は負け無しだった。それで師匠に目を付けられた。『お前には才能があるんだから、こんなごっこ遊びは辞めて俺と来い』ってな」
(剣闘をごっこ扱いするなんて……)
そう思いつつも、命が掛かっているワケではないのだから、と納得させられたリーベだった。
「だ、大胆な人なんだね……お母さんは会ったことあるの?」
「ええ。と言っても、もうずっと会っていないけどね」
「そうなんだ……」
(お父さんの師匠……きっと凄い人なんだろうな)
そう思うと同時に、そんな大人物から冒険者になるべきだと豪語されるほどの才能を持っていた父もまた凄いのだと、彼女は思った。
「……才能、か…………」
(わたしにも遺伝してたりして)
そんなことを考えていると、エルガーが深刻な顔をして娘に問い掛ける。
「お前……まさか、冒険者になりたいとか考えてるんじゃないよな?」
「え……?」
夫婦は真剣な眼差しを娘に向けていた。
「そ、そんなことないよ……!」
慌てて否定すると「ほんとうに?」とシェーンが哀願するように問い掛けてくる。
その悲愴さに気圧され、リーベは些細な疑問を口にしただけなのに、重大な過失を犯しているような気になった。
「……う、うん」
どうにか返事をすると、母は感情を抑え込んだ。
「……そう、なら、いいわ…………」
そう言い残すと彼女は娘から目を離し、コツコツと歩き出した。
リーベが母の儚げな背中を追いかけようとした時、エルガーが小さく言う。
「……リーベ。シェーンの前じゃ、2度と冒険者の話をするな」
いいな? と念を押されると頷かずにはいられなかった。
エルガーは風呂屋の入り口で妻子と別れ、1人寂しく男湯に浸かっていた。
夜更けのこの時間でも男湯は賑わっていて、仕事を終えた労働者や暇な冒険者が広い浴槽を埋め尽くしている。彼らは各々語らっていて、その大音量がふやけて反響し、ドラゴンの胃の中を彷彿とさせる怪しい雰囲気を醸していた。
「はあ……」
彼の胸に蟠のはリーベのことだ。
(思い過ごしだったら良いんだが、俺にはどうも、アイツが冒険者業に関心を示しているように思えちまう)
複雑な感情を溶かすように肩まで浸かると、湯気の立ち籠める天井を見つめる。
(原因は何だ? 俺の引退? 金色の鱗? それとも魔物に襲われたことか?)
その要因は判然としないが、親として、娘が良くない傾向にあるのだという認識は変わらなかった。
このままではいずれ『わたしも冒険者になりたい』とか言い出しかねないと、彼は危惧した。
娘が例えば、『料理人じゃなくて作家になりたい』とか言い出したとしても、彼は父としてその背中を押すつもりだった。だが冒険者だけはいけない。危ないからだ。
「あ、エルガーさんじゃないっすか」
冒険者の青年が湯に浸かりながらエルガーに親しく話し掛ける。
「そんなしみったれてどうしたんすか? らしくねえっすよ」
「はは。俺も父親だからな。神妙になる事もあるさ」
「父親ねー……そういや、リーベちゃんはどうなんすか?」
「どうって?」
「ははは! とぼけないでくださいよ。冒険者になるって、みんなウワサしてますよ?」
「は?」
(そんなウワサ誰が……いや、リーベが魔物を倒すのに貢献した事実が、尾ひれを付けて回ったんだろう。だったらここで一つ、ビシッと正しておかねえとな)
そう思った時、エルガーはふと誰かの言葉を思い出した。
『アンタが辞めたら、誰がテルドルを護るんだ』
彼はその問い掛けに対し、次の世代へ託すことを宣言した。その上でこのようなウワサが出回るということは即ち、リーベが冒険者になることをこの街が望んでいるということだ。
だがエルガーは知っている。一個人に縋ることでしか安息できないというのは、その実、平和とは言えない。テルドルはついこないだ、その状態を脱却したはずなのだ。
「ううむ……」
『英雄に求められるのは腕だけじゃない。その意味をよく考えることだ』
ディアンの言葉がいよいよ現実に顕われてきたのだと、エルガーは悟った。
「エルガーさん?」
その声にハッとすると、彼は自分が周囲の視線を集めていることに気付いた。
「どうしたんすか、そんな唸って?」
「あ、ああ……悪い。考え事をしてただけだ」
「そうすか……それで、リーベちゃんはどうなんすか?」
「話に尾ひれが付いてるだけだ。気にすんな」
彼はそう言い残して湯を上がった。
『どうして冒険者になろうと思ったんだい?』
リーベが知り合いの老婦人にそう聞かれた時、シェーンは明らかな狼狽を見せた。その時の『否定して』と懇願するような瞳の湿気た緑色が、今も彼女の目に焼き付いて離れない。
『……リーベ。シェーンの前じゃ、2度と冒険者の話をするな』
彼女は父の言葉の意味をようやく悟った。
夫がこの職に就いていたが為に、シェーンは長年不安に苛まれていた。そして心配の果てにようやく巡ってきた安息の時を失いたくなかったのだ。ほんの些細な関心のためにシェーンの繊細な心を揺さぶるのは残酷だ――エルガーはそう伝えたかったのだ。
「…………」
リーベはチラリと母を見やる。一見すると平静な態度であるが、いつもと違ってむっつりと口を閉ざしている。そんな有様が痛々しく感じていると、シェーンは娘の視線に気付いた。
「どうかしたの?」
「う、ううん。なんでもないよ」
「そう?」
そんな短い会話の末、一家は再び歩き始める。
夜も更け、静まり返った通りにはコツコツと3人分の靴音だけが響いていた。
リーベは毛布の温もりに深いため息をつきながら横臥する。視界は真っ暗で何も見えないが、そこにはもふもふの彼がいる。彼女は閉ざされた視界を補うように、彼の頬に手を添える。
「ねえダンク。わたし、みんなに冒険者になると思われちゃってるよ。どうしよう」
「…………」
ぬいぐるみは喋らない。当たり前だ。しかし彼女の心には愛犬の心配そうな声が響いていた。
「わたしが冒険者になっても、ロクに戦えないよ」
エルガーの娘だからと言っても、その才能を引き継いでいるとは限らない。それにリーベはどこにでもいるような小娘だ。戦うための力が絶対的に足りていないのは考えるまでもない。
『リーベちゃんも冒険者になるんかい?』
以前、スーザンが言っていたを思い出す。あの言葉を口にした時、彼女の瞳は期待感に満ちていた。
リーベは思う。自分が誰かなど関係無い。英雄の娘という、たったそれだけの事実が自分が冒険者になることを望ませていたのだろうと。
それはスーザンに限らず、街の人間すべてに言えることだ。だからあのようなウワサが出回ったのだ。そう思うと、リーベ自分にとって、冒険者になる事が使命のように思えてきた。
「……冒険者」
自分より強大な存在を打ち倒し、人の生活を護る仕事。
そんな大層なことが自分に務まるとは到底思えなかった。
それになにより、両親を悲しませるようなことなんて絶対にしたくない。
でも周りの期待には応えたい。
リーベの心は混沌が渦巻いていった。
「はあ……なんだかな」
深く溜め息をつくとダンクを強く抱きしめた。