052 いざ、未知の世界へ!
ガラガラゴロゴロ……
乾いた音を響かせながら車輪が石畳の上を転がっていく。
日常的に耳にしていたこの音が、今はドラムロールのようにリーベの心をはやし立てる。立場が変わるだけでこうも感じ方が変わるとは、実に不思議だ。そんな不思議しかし、景色と共にすぐさま流れ去って行く。代わって彼女の胸にこみ上げたのは東門の果てに広がる未知の世界のことだった。
御者の肩越しに前方を見ていると、東門が迫ってくる。
馬車が停車すると、体が引っ張られて右側の壁面に頭を打つかる。
「いでっ!」
「止まるときは体が持ってかれるから気を付けろ」
「そ、そうなんだ……」
ヴァールの言葉にそう答えると、彼は不思議そうに小さな目を丸くした。
「なんだ? 馬車は初めてか?」
「う、うん……今までテルドルから出たこともなかったから」
素直に答えるとヴァールだけでなく、フェアとフロイデも不思議そうな顔をした。
「これは意外ですね。エルガーさんのことですし、あちこち連れ回していそうですが」
「はは……お店があるので」
「ああ、そうでしたね」
フェアは若干の憐憫を滲ませて苦笑した。
その隣ではフロイデが首を傾げている。
「退屈じゃない、の?」
「テルドルは広いですし、お客さんとお話できるので退屈はしなかったですね」
「へえ……」
その時、幌を被っていない馬車の背面から門番のサイラスが顔を覗かせた。
「おはようございます――あれ、リーベちゃん? もしかしてこれから?」
「はい、初仕事なんです」
「そうなんだ。ヴァールさんたちと一緒なら大丈夫だろうけど、外は危ないから気を付けてね?」
「はい、ありがとうございます」
会話をしながらも彼は馬車の中を舐め回すように点検していた。リーベにはよくわからなかったが、誰が通行したかを検めるのは門番の務めなのだ。
「異常なしっと」
彼は駆け足で門に駆け寄ると、門扉を重たそうに押して開放した。
「どうぞ、お通りください」
その言葉を受け、御者が手綱を振るって馬を進ませる。
ガラゴロと一定のリズムを刻んでいた車輪が、不意にザリザリと砂を噛むような音を響かせる。リーベが街の外に出たんだという実感に囚われていると、ヴァールが彼女に「振り返してやれ」と後方を顎でしゃくる。
「え?」
振返った先ではサイラスともう1人、外側の門番をしていたアランが彼女らに手を振ってくれていた。
リーベは慌てて振り返しながら、声を張り上げる。
「いってきまーす!」
街の外に出てしばらくが経った。
当初は『速い速い!』『あ、練習場だ!』『見てみて! リスがいるよ!』と燥いでいたリーベだが、次第に感動は薄れ、今では地面の感触をダイレクトに伝えてくる座面ばかりを気にしていた。
「うう、お尻が痛い……」
クッションを持ってくるんだったと後悔していると、おじさんが言う。
「毛布でも敷いとけ」
「あ、その手があった!」
リュックから毛布を取出すと、幾重にも折りたたんで尻の下に敷く。座面の位置が高くなり、若干不安定になるものの、代わりに尻が痛みから解放された。
「ふう……」
一息つきつつも、余った部分をヴァールに差し出す。
「俺は大丈夫だ」
「え、痛くないの?」
「慣れてるからな」
(慣れるものなんだ……)
感嘆としていると、対面に掛ける2人も座面に直接腰掛けているのに気付いた。
「フェアさんたちも敷かないんですか?」
「ええ。慣れてますから」
「へー……」
その隣へ視線を向けると、フロイデは歯を食いしばっていた。
「な、慣れてる、から……」
声を震わせながらそう言うと、ヴァールが声を上げて笑った。
「だはは! やせ我慢したところで、却ってマヌケに見えるのがオチだぞ?」
「むう……」
彼は不服そうに唸りながらもそそくさと毛布を取出し尻の下に敷く。そんな姿がいじらしくて、リーベはつい笑ってしまった。
「ふふ!」
笑ったのも束の間、ジロリと睨まれた彼女は慌てて話題を転換する。
「あ、あはは……そうだ、これから行くライル村ってどんなところなの?」
問い掛けるとヴァールは淡然と「牛が沢山いるな」と答える。
テルドルでは家畜を飼うにしてもニワトリかウサギのいずれかだ。だから他の動物を見られるのだと思うと、彼女の胸は自然と高鳴った。
「へえ……牛がいるんだ。ねえ、乳搾りやらせてもらえるかな?」
期待を籠めて師匠を見やるも、「遠足じゃねえんだぞ」と一蹴される。
「むう……」
「ふふ、少しぐらい良いではありませんか?」
リーベが剥れているとフェアが口添えをした。
「あのな、俺たちは仕事をしに行くんだぞ?」
「では終わってからなら良いでしょう」
「……好きにしろ」
「やったあ! フェアさん、ありがとうございます」
「いえいえ」
彼が微笑む傍ら、フロイデが目を輝かせていた。
「搾りたて……!」
「飲めると良いですね」
「うん……!」
弟子2人が笑みを交わしていると、御者さんが声をあげた。
「楽しんでるところ悪いが、馬に水を飲ませたいんだ。少し止めても良いかい?」
「ああ、構わねえよ」
ヴァールが答えると、御者さんは「良かったな」と馬に呼び掛けた。
「んじゃ、止まるぞ」
その声を聞いた次の瞬間、リーベはコテッと右隣の壁面に頭を打つけてしまった。
「……止まるときは体が持ってかれるから気を付けろ」
それを言われるのは2回目だ。
「ご、ごめんなさい……」
『燥ぎすぎも良くないぞ』と、リーベは自分に言い聞かせた。




