046 おじさんとして
火照った体を夜風が撫でる。その心地よさにうっとりとしていられたのも束の間。リーベは周囲の人々がせかせかと家路を急いでいるのに気付いてしまった。
彼らが何を恐れているのか、それは間違いなく魔物である。
行き交う衛兵が投光器で空を見てはいるものの、その間隙を突かれることもあるだろう。そんな偏執的とも言える恐怖感が人々を苛んでいるのだ。
その様子を目に焼き付けている内、徐々にリーベにも恐怖が伝播していく。
「うう……早く帰ろ」
幸いにして人通りは多い。それに交じっていけば多少、恐怖が和らぐことだろう。
そういう訳で家路を急ぐ者の一人となった彼女だが、この目に人波の中、孤島のように佇む大きな人影を捕らえて脚を止めた。
「あ、おじさん」
その背後にはフェアとフロイデもいた。フェアは彼女と同様に自前の入浴セットを持っていたが、あとの2人は着替えと手拭いだけしか持っておらず、彼らの入浴に対するスタンスの違いを如実に表わしていた。
「おう、リーベじゃねえか」
ヴァールは大きな顔で辺りを見回しながら問う。
「お前1人か?」
「うん。お店はディナーだから」
「そうか」
ボリボリとイガグリ頭を搔き回しながらこう言った。
「しゃあね。送ってってやるよ」
「え、いいの?」
渡りに船とはこのことだ。頼もしく思っていると、ヴァールはニヤリと笑む。
「『くらいよ~、こわいよ~』なんて泣かれちゃ、俺らのメンツに関わるからな」
「なにそれ!」
リーベが憤慨する中、ヴァールはケタケタ笑いながら相棒に言う。
「そういうことだから、お前らは先に入ってろ」
「わかりました。道中、お気を付けて」
「ああ。んじゃ、行くぞ」
「う、うん……」
失礼な言葉はこうして有耶無耶にされてしまうのだ。
いじられ役であるリーベは釈然としないながらも、ここで別れる2人に挨拶をしようとした。
しかしフロイデが青い顔をしているのに気付き、口から出るはずの挨拶は問い掛けに変わってしまう。
「大丈夫ですか? 何処か具合でも悪いんじゃ……」
すると彼は深い溜め息と共に悩みを吐露した。
「……お風呂、きらい」
その言葉を聞いて、リーベはますます彼が猫っぽく見えてしまうのだった。
「そうなんですか……あんなに気持ちいいのに」
損な性格だなと哀れに思っていると、フェアが苦笑する。
「ふふ、大人でも入浴を嫌う人は一定数いますからね」
「子供じゃない……!」
「おや、失礼致しました」
2人のやり取りにくすくす笑っていると、ヴァールが急かす。
「ほら、駄弁ってねえでさっさと行くぞ」
「あ、そうだった」
フロイデとフェアに挨拶する。
「それじゃあ、また明日。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
フェアは微笑むと「今日はゆっくり休み、明日に備えてくださいね」と言い添えた。
「はい。それじゃ、お休みなさい」
挨拶を終えるとヴァールと一緒にエーアステを目指す。
その道中、リーベは自分のよりも遙かに高い位置にある顔を見上げて問い掛ける。
「ねえおじさん。わたしの初任務って、何を倒しに行くの?」
「ん? そうだな……お前を護りながらでもやれる相手ってなると限られてくるからなあ……何とも言えねえが、まあ、そこまで強いやつじゃねえよ」
そうだろうなと納得していると、ヴァールは意外なことを口にする。
「どの道、初めはついてくるだけなんだ。お前が相手を気にしたって仕方ねえさ」
「え? わたしは戦わないの?」
脚を止めた彼は『何を言ってんだ』とばかりに苦笑した。
「そりゃそうさ。冒険者学校も出てないし、体力もない。そんなヤツにいきなり戦わせるなんて、鬼畜もいいとこだ」
「で、でも! わたしは魔法が使えるんだよ?」
「それでもだ。仮にお前に戦わせたところで、緊張して棒立ちするのがオチさ。だからお前はまず、冒険に慣れることが仕事だ」
「じゃあ、わたしは今、どうして魔法を教わってるの? 戦わないなら後からでもいいんじゃないの?」
思ったことを素直に伝えると、ヴァールは呆れて溜め息をついた。
「お前は街中で魔物に襲われたばかりだろ?」
その言葉に心に焼き付いた恐怖が思い起こされ、彼女は喉を鳴らした。
「街中でさえ魔物に襲われる危険があるんだ。それが自然の中だとどうなる?」
「……もっと危険。だよね?」
「そうだ。そんなことが起こらないように最善は尽くすが、それでも運が向かないこともある。そうなりゃ、お前は自分で自分を護らなきゃなんねえんだ。フェアがお前に教えてやってるのも、全てはその為だ」
そこまで言うと彼は一息つく。
「やる気は買うが、お前はもっと現実を見ろ。そうでなきゃ、冒険者は務まんねえぞ?」
師匠の言葉がじわじわと心に浸透していく。その中で自分の未熟さを思い知り、まるで傷口に薬が沁みるような疼痛を味わった。
「…………ごめんなさい。わたし、そこまで考えてなかった」
「気を付けることだ。死にたくなかったらな」
それよか、と気持ちを切り替えるように伸びをしながら言う。
「さっさと帰らねえと師匠が心配するぜ?」
「……そうだね。帰ろ」
2人で家路を辿る中、ヴァールは忠告した。
「いくらテルドルの治安が良いからって、お前みたいな小娘が夜中に1人で出歩こうとすんなよ?」
「でも、お母さんが汗を流してきなさいって」
「それとこれとは別だ。明日からは俺が送ってってやるから、1人で出歩くな。いいな?」
「う、うん……わかったよ。でも、迷惑じゃない?」
「俺がやるって言ってんだ。迷惑もクソもあるか」
ヴァールらしい物言いにリーベは思わず頬が緩む。同時に『心配してくれてるんだな』と温かい気持ちがこみ上げてきた。
(もう少しおじさんとしゃべっていたいな)
そう思ったのも束の間、前方からは賑やかに談笑する声が聞こえて来た。見ると、そこには彼女の家であり、人々の憩いの場である食堂エーアステがあった。
客の動線を断たないよう、裏口から入ろうとする。ごそごそと鍵を探っていると、ヴァールは「んじゃ、また明日な」と別れを告げた。
「お父さんには会っていかないの?」
「仕事中に行ったら邪魔だろ?」
その気遣いを裏付けるように、背後からは父エルガーの「へいお待ち!」というセリフが小さく聞こえて来た。
「ふふ、そうだね。じゃあ、また明日」
「ああ、良い夢見ろよ」
「うん。お休みなさい」
挨拶を交わすとリーベは裏口の戸を開けて暗闇の中に潜り込む。ドアを閉めようとしたその時、ふと外を覗いてみると、ヴァールがジッと彼女を見守っていた。
(……まったく、心配性なんだから)
「ふふ……!」
リーベはヴァールに軽く手を振ってから戸を閉めた。




