022 冒険者の戦い
ライル村を出てから2時間ほどが経った。
辺りはテルドルからライル村までの道程と同様、森に囲まれていて距離感は掴みづらいが、リーベは体感にして10キロくらいは歩いたつもりでいた。
彼女は生まれてこの方、ずっとテルドルで暮らしてきた。だから長距離を歩く機会などなく、この道程に体力を根こそぎ持って行かれてしまった。途中休憩を挟んだものの、全回復には至らず、彼女は喘ぎながら歩いていた。
「ぜえ……ぜえ…………」
高まった体温によって曇るように霞んだ視界は絶えず地面を映していて、ザッザッと地面を擦りながら繰り出されるつま先には汗が弾ける。森中であるのに、まるで砂漠を彷徨っているような心地だ。
(ああ……ラクダに乗りたい…………)
「ね、ねえ……ちょっと休もうよ」
リーベは頑張って声を発し、前方を歩くヴァールに呼び掛ける。しかしイガグリ頭は微動だにせず、彼の視線は正面に向けられたままだった。無視か、聞こえていないのか、リーベが不満を胸に膨らませたその時、呆れたような声が返って来る。
「さっき休んだばっかだろ? あと10分は歩け」
「そんなあ~」
体から力が抜けそうになったその時、隣を歩いていたフェアが手を差し出す。
「これも体力を付けるためですから。頑張りましょう」
「は、はい……ありがとう、ございます。ぜえ……」
彼の手を取ると幾分か楽になった。お陰で10分間を凌ぐことが出来た。
苦悶の末、見事に休息を勝ち取ったリーベは手頃な倒木に腰を下ろして水を呷る。火照りに火照った体が水の冷たさに驚き、喜んでいるのがわかる。体がそうであるように、彼女の心もまた、水を喜んでいた。
「ふう……生き返る…………」
「たく、この程度で音をあげてんじゃねえぞ?」
ヴァールは冗談交じりにそう言った。
しかし己の体力の無さを痛感した今、その言葉は深刻な響きを持っているように感じられた。
「ご、ごめんなさい……」
「リーベさんは冒険者になったばかりなんですから体力がなくて当然です。焦らず、あなたのペースで頑張ってくださいね」
「あ、ありがとう、ございます」
「おいフェア。あんまりコイツを甘やかすなよ」
「ふふ、心得ています」
2人の会話を耳にしつつ、リーベはフロイデを見ていた。
彼女と同じくらい小柄なのに、体力は雲泥の差だ。いったい彼の何処にそんな力が眠っているのだろうかと、リーベは不思議でならなかった。
「じー……」
彼は両手で水筒を保持し、飲み口を唇に押しつけてグビグビと水を飲んでいる。
リーベは失礼だと承知しながらも、その様子が哺乳瓶を使う赤ちゃんみたいで可愛いと思っていた。
「ぷは……フェア、水ちょうだい」
そう言って水筒を差し出した時、彼女と目があった。
「……なに?」
フロイデは目を背け、首に巻いた真っ赤なスカーフを握り込む。
「ああ、いえ。フロイデさんは体力あるなーって」
「……冒険者学校、出てるから」
「あー、そうでしたね。……冒険者学校ってやっぱり怖い教官がいて、延々走らされるんですか?」
彼は水筒を満たしてもらうと一口飲んで、それから答える。
「そう、だよ? 吐くまで走らされるの」
「ひええ……」
ビクビクしていると、ヴァールが笑ってこう言った。
「良かったな? お前は優しい師匠につけて」
「うう……不束者ですが、今後ともよろしくお願いします……」
恭しく頭を下げると上機嫌に笑った。
「ははは! いつもこんくらい可愛げがあれば良いんだがな」
「ふふ、さあ休憩もほどほどにして、移動を再開しませんか?」
フェアが言うとヴァールは「ああ」と短く了解する。
「んじゃ、ぼちぼち行くか」
「う、うん……!」
リーベは水を口に含むと立ち上がった。相変わらず脚は痛いし、体は疲れているが、歩けないと言うほどではない。だが体力は心許ない。そんな切実な問題を前に、リーベはラソラナが早く見つかることを祈った。
同時に、ターゲットのことを思い出して緊張させられた。
「……リーベちゃん?」
フロイデに呼ばれてハッとする。
「あ、すみません。さ、早く行かないと日が暮れちゃいますよ!」
「どの口がいうんだか」
ヴァールは小さく笑うと号令を発する。
「まあいい。んじゃ、行くぞ!」
行軍を再開してから半時間ほど経過した時、フロイデが異物を発見した。
「アレ……!」
「ん、どうし――あ」
「え、なになに?」
リーベはヴァールの大きな背中ごしに前方を覗き込む。フロイデの短い指が示す先には、ギラリと陽光を閃かせる異物が横たわっていた。
「お前ら、ヤツがここらに潜んでるかも知んねえ。気ぃ付けてけよ」
ヴァールが警告すると、リーベに杖代わりに手を貸していたフェアは彼女の手を離した。
それから男3人は歩幅を狭め、ゆっくりと異物に歩み寄る。リーベまた、痛む脚に鞭を打ちながらそれに倣った。
1歩近づくごとにその全容が露わになっていく。
頭の潰れた円錐形の鉄くず……あちこちが腐蝕していて、内部が空洞になっているのが見える。まるで何年も放置されたかのようだが、ここは道のど真ん中だ。それはあり得ない。加えて、同じ物体がなんと四4つまとまって転がっており、それが一層、不気味な雰囲気を放っている。
「なに、これ?」
「ミルク缶……でしょうか?」
フェアが繁々と観察しながら言う。
「ミルク缶って、牛乳を溜めておくアレですか?」
「他に何がある」
ピシャリと言うと、ヴァールは確認する。
「ラソラナから逃げる時、牛乳が持ってかれたって言ってたが、これのことか」
「でもあの魔物は獲物を丸呑みにするんでしょ? それがどうしてここにあるの?」
「……吐き出した」
フロイデがぼそりと呟くと、それにフェアが頷く。
「ラソラナは獲物を生きたまま呑み込むため、時に体内で反撃される事があります。そうした場合、即座に胃液で溶かすか、それができなければ吐き出します。今回は後者だったのでしょう」
「なるほど……」
観察に知識を絡めて当時の状況を推察する様はまるで探偵のようだ。
これを実現するには観察力と魔物に対する広範な知識、その両方がないといけない。リーベは冒険者にとって体と技術が全てだと思っていたが、その認識は誤りだったと気付かされる。
(これからは暇な時間に魔物の勉強をしよう)
そう心に決めた時には既に話が進んでいた。
「足跡もここで引き返してるな」
ヴァールの言葉を受け、リーベはミルク缶の先を見やる。
そこには重量物が落ちたようなくぼみが点々と続いていた。時間が経過したせいか鮮明に見て取れるワケではないが、こんな跡を付けられるのは魔物以外にはいないだろう。
「お腹、痛かったのかな?」
フロイデの言葉にフェアが頷く。
「そうですね。ミルク缶が体内を傷つけたのを攻撃と勘違いして、ラソラナ引き返したのでしょう。パウロさんはご立腹でしたが、これは不幸中の幸いというものですね」
「ああ」
ヴァールは短く答えながら辺りを見回していた。
「木が倒れてねえあたり、街道を逸れてはいないみたいだな。ひとまずこのまま進んでみようぜ」
その言葉は提案ではなく指示だった。
彼らはミルク缶を道の脇に避けると街道をさらに北東へと進んでいった。
街道の両脇には樹木が林立し、大きな森林を形成している。
通行人であるリーベには、この森林が街道の果てにあるマルロの町まで延々続いているかと思われたがしかし、その予想は裏切られた。
「なに、これ……」
森の一部がなくなっていた。
樹木は派手になぎ倒されていて、倒木は魔物がのし掛かったのか、半分ほど地面に埋まっていた。この状況を見れば、ラソラナが何者かと戦闘したのが容易に想像がつく。
(……でも、誰と?)
「見てください」
フェアが地面を指し示す。
見やると『!』を横に2つ並べたような足跡があった。
「ラソラナは恐らく、イノシシを捕食したのでしょう」
イノシシといえば誰しも厄介な害獣というイメージを抱くだろう。リーベもそうだった。故にそれを捕食――しかも丸呑みにしてしまうラソラナに対し、畏怖を募る。
リーベが怖々としていると、森の奥からガサガサと音が響く。
「ん? なに――」
振り返った直後、テラテラと怪しく光る粘液を帯びた紐のようなものが飛んできた。それは先端が投げ縄状になっており、見事にリーベを捕らえた。
「え――」
『ラソラナは舌先が輪っか状に広がっていて、これによって獲物を捕らえ、口内まで引きずり込むんですよ』
フェアの言葉が脳裏を過り、リーベは血の気が引いていく。
「……っ!」
目を固く閉じたが、衝撃は来ない。恐る恐る目を開けると、驚きの光景が広がっていた。
なんとヴァールがラソラナの舌を握り絞め、引っ張ることで彼女の捕食を阻止していたのだ。
(なんて怪力……)
呆気に囚われている一方、ヴァールが弟子に向けて叫ぶ。
「フロイデっ!」
「にゃあっ!」
フロイデは素速く抜剣し、舌を断ち切った。
お陰でリーベは束縛から解放されたが、恐怖と安堵とで胸の中で混沌としており、礼も何も言えなかった。
「さ、こちらへ」
フェアに手を引かれて距離を取る。
直後、樹冠が揺れ、何かが森の上空に飛び出した。それは飛翔するかのように迫り、まるで砲弾を撃ち込まれているような、そんな恐ろしい心地にさせられた。
ドサッ!
それは彼女らの10メートルほど前に着地すると、派手に砂埃をあげた。
「ごほっ! ごほっ!」
リーベが咳払いをしながら前方を見やると、そこには大きなカエルがいた。
地面から口先まで優に3メートルはあり、顔や背中は苔色で、下顎から腹に掛けては淡黄色だった。出張った瞳はカエルらしい眠たげなものだが、先の攻撃もあり、リーベには明確な殺意を感じられた。
だが彼女が感じたのは恐怖ではなく、巨大な両生類に対する不快感だった。
「ひっ――」
リーベが悲鳴を漏らした瞬間、カエルは――ラソラナは喉元を膨らませて威嚇する。
「ヴウウウウ……!」
「フェア! リーベを頼む!」
「はい!」
返事をするとフェアは彼女の前へ踊り出た。
「リーベさん。心中穏やかではないでしょうが、今はひとまず、私たちの戦いをよく見ていてください」
「……は、はい…………」
リーベはお守り代わりにスタッフを握り絞め、前方を注視する。
ラソラナの前に立ち塞がる3人の男性――この絵面にかつてエーアステに飾られていた絵画『断罪の時』を彷彿とさせられた。
「気張ってけよ!」
「うん……!」
剣士2人はリュックを放り捨てると、得物を抜き放ち、駆け出した。左右に展開し、揺さぶりを掛けるようにラソラナに迫る。
リーベは魔物の正面に立っており、こちらに攻撃が飛んでくるんじゃないかと恐れたが、杞憂に終わった。ラソラナが迫る2人の内、大きい方に狙いを定めたからだ。
「ゲエゴッ!」
ラソラナは上体を伸ばし、ヴァールを踏みつぶそうとする。しかし――
「ふっ!」
彼は体格の割りに軽快なフットワークでのしかかりを躱すと、回避の動作をそのまま攻撃の構えにつなげた。2メートルはあろうかと言う大長剣を振りかぶると、後ろ脚の付け根へ斬撃を叩き込む。
「ダアアアッ!」
空を抉るかのような強烈な斬撃は魔物の肉厚な脚をいとも容易く斬り落とした。
「……すご――」
「ゲエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッッッッッ⁉」
ラソラナの絶叫が森を揺らす。その大音量に絶えかねたリーベはスタッフを手放し、耳を押さえて蹲ってしまった。
恐る恐ると視線をあげると、ラソラナと目が合った。眠たげなその瞳には怨嗟が宿っていて、『せめて道連れにしてやる』と彼女を脅迫しているかのようだ。
そう思ったのも束の間、ラソラナは宣言通りに彼女目掛けて舌を伸ばす。
「きゃあああ!」
「ガイアっ!」
フェアがロッドの穂先を地面に突き立てると、前方に土の柱がせり出す。それはビタンと、先程フロイデによって切断された舌先をかち上げ、軌道を大きく逸らした。
役目を果たした土柱が崩れ落ちる中、土砂の向こうでヴァールが弟子に指示をする。
「フロイデ!」
「にゃあっ!」
師匠の指示を事前に知っていたかのように素早く剣を構えると、袈裟に振り下ろす。
素人目にもわかる素晴らしい構えからくり出される斬撃は、空中で弛んでいた長い舌を斬り落とした。
「ゴゲエエエエ!」
ラソラナは口内と脚の付け根から真っ赤な鮮血を散らしながら、ガラガラの悲鳴を響かせる。
ボロボロになったその姿に、リーベが哀れみを抱き始めた一方、フェアが容赦なく追撃を加える。
「アイスフィスト!」
目にも留まらぬ速さで撃ち出された氷塊は、眼球を潰す未来があらかじめ確定していたと思えるほど、見事に命中した。
その痛みによってラソラナは聞くに堪えない程に痛ましく絶叫するが、冒険者たちが手を緩めることはない。
残された右後ろ脚をも切断し、動きを完全に封じた上でトドメを刺した。
その徹底ぶりにリーベは、仲間であるにも関わらず恐怖を感じてしまい、腰を抜かしてしまった。
「あ、ああ……」
ズルリとへたり込むと、ラソラナの絶命を確かめたヴァールが振り返って言う。
「これが冒険者の戦いだ」
「これが……」
リーベは呆然とラソラナの死骸を見た。
片目を、舌を、両脚を……そして命を奪われたその姿は惨たらしいなんてものじゃなかった。
彼らほどの精鋭であれば、もっと綺麗な形で殺してあげられただろうに。そんな非難がましい感情を抱きつつも、リーベは理解していた。
魔物と比べれば人間はか弱い存在だ。絶対的な弱者が強者に勝つには、強者の力を削ぐしかないのだ。それが最も確実で、且つ安全な方策だろう。冒険者は命を賭けてるのだから、その実力に拘わらず、この最上策を取るのだ。
「……これが、冒険者の」
「そうだ。残酷だろう?」
「……うん」
「嫌になったか?」
その問い掛けにリーベはゆるりと首を橫に振った。
思い出すのは数年前のことだ。
彼女は食育の一環として母にウサギとニワトリの屠殺をやらされた。
当時は丸一日泣きっぱなしで、以来一月に渡って肉が食べられなくなった。その中で小動物に対する罪悪感で押しつぶされそうになった彼女に母は言った。
『食材は全て、誰かの命だったの。私たちはね、誰かの命をもらって生きているのよ?』
その言葉は今回のことにも当てはまるだろう。
人の生活を護るために魔物の命を奪った……食という過程を経ないだけで、生活の糧にしていることに変わりはないのだ
「……そうか」
リーベの答えにヴァールはただ、そう言った。
「それなら、さっさと後始末をしようぜ」
ヴァールは哀れにも放り捨てられたリュックを漁り、小さな革張りの箱を取出す。
「あ」
それが何か察すると共に、リーベは事前に交わした約束を思い出した。
「友呼びの笛だ。お前に吹かせてやるって約束だったろ?」
「う、うん……!」
それを手渡されると、先程までの暗い気持ちは薄れ、代わりに高揚感が湧き上がってくる。
「あ、開けてもいい?」
「落とすなよ?」
「大丈夫だって」
彼女はグローブを外すとそっと箱を開け、牙型の笛を取出す。
アイボリーで、サラサラしていて、持っているだけでも心地よかった。だがこれは愛玩するためのものではない。
「吹いて良いんだよね?」
師匠の許可を得て吹き口を咥えようとすると、フロイデと目が合った。彼は羨ましそうな顔をしていたが、今日は彼女が吹かせてもらう約束なのだ。
リーベは姑息にも、彼の視線に気付かなかったことにして笛を吹いた。
「プィ――――!」
甲高い音が森林に響く。
彼女の耳にはうるさく感じられるが、果たしてこれがテルドルまで聞こえるのか、半信半疑でいると、フェアがにこやかに言う。
「彼らは特別耳が良いので、ちゃんと聞こえていますよ」
その言葉を受け、リーベは期待に胸を高鳴らせながら南西の空を――テルドルの方を見上げた。
「ああ……早く来ないかな…………」




