021 ライル村にて
テルドルの外に広がる森は馬車で半日の場所まで続いており、リーベは自然の雄大さを思い知らされた。だがこの森さえも、世界のほんの一部分の、さらに一部分に過ぎないのだ。それを思えば、自分がどれだけ狭い世界で生きてきたか、認めざるを得なかった。
「……世界って広いんだね…………」
半ば独り言だったが、ヴァールは「そうだな」と共感した。
「だが感心ばかりしてちゃだめだ。ここは街中と違ってそこかしこに魔物が潜んでるんだからな」
「う、うん……気を付けるよ」
そんなやり取りをする間に馬車は森を抜けた。悠々と広がる平原の向こうには集落があるが、リーベは気付かないでいた。だから「ブモオ~~~~……」と、トランペットの音色を低くしたようなその響きに甚だしく驚かされ、ヴァールの腕にしがみ付くのだった。
「ま、魔物⁉」
彼女の悲鳴に車内の誰もが笑った。大小様々な笑い声にリーベは羞恥を抱いた。
「な、なんで笑うの!」
「なんでって、こりゃ牛の鳴き声だからさ!」
ヴァールがクツクツと笑いをかみ殺しながら言う。
「え? 牛ってもっと可愛いな声で鳴くんじゃないの? 『モ~』って」
リーベの疑問に対し、フェアが「実際はこのように重く深い声で鳴くんですよ」と微笑を湛えて答える。
「もう、紛らわしいですね!」
ふんすと鼻を鳴らしていると、フロイデが忍び笑いをしながら車の後方を指し示した。
「くぷぷ……アレ、見て」
「あれ? ……わ、牛だ!」
幌で縁取られた視界の大部分は草原の緑と街道の砂色が占める。そして街道を挟むように柵が施されていて、その中を数頭の牛が歩き回っていた。
牛は白い体に黒縁の入った模様をしており、絵本でよく見る姿のそれだった。
大きな乳を揺らしながらのそのそと歩き回っては、手頃なところに生えていた牧草を食んでいる。その安穏とした様子から、この平和な牧場で育ち、害敵なんてものを知らないのが窺い知れる。
だがしかし、リーベたち冒険者がやって来た以上、付近に害敵が潜んでいるのは確実だ。この平和の陰に潜む脅威に彼女は畏怖の念をいだいた。
「…………」
(牛たちが怖い思いをしないで済むように頑張らないと)
気持ちを新たにしていると、御者が到着を告げる。
冒険者たちを降ろすと、御者は1人何処かへ車を進ませていった。
「ありがとうございました~!」
手を振って見送ると、リーベはリーダーであるヴァールに問う。
「これからどうするの?」
「まずは村の人間に話を聞くところからだな」
「でも、依頼書には場所が書いてあったよね?」
「あれは簡易的なものだからな。無駄足を踏まないためにも、まずは事情を知ってるヤツに話を聞くのが基本だ」
「へえ……」
「んじゃ、行くぞ」
ライル村は広大な土地を持っているが、その大半は放牧に利用しており、実際に人が住んでいるのはごく狭い区域だった。しかしテルドルのように隔壁で囲われてはおらず、周囲に視界を遮る建物が無いため、リーベにはテルドル以上に広く感じられた。
建物は木造の家屋が数軒あるほか、物見櫓が1棟、それと厩舎が2棟建っていた。
その規模からして人数が少ないことが察せられる。
そんな少人数で生活できるのだろうかと、食堂で日々多くの人と接してきたリーベは懐疑的だった。
「あ、冒険者だ」
通りかかった幼い少年がヴァールを指差す。オーバーオールを纏っているあたり、村の手伝いをしていたのだろうとリーベは感心する。
「そうだ。なあ坊主。ここいらに出た魔物の話を聞きてえんだが、村長はいるか?」
「いるよ、ついてきて!」
そう言うと少年は全速力で駆け出した。
「別に走らなくても――行っちゃった」
リーベが差し伸べかけた手を下ろしながら言うと、フェアがくすりと笑った。
「元気で良いじゃないですか」
「追わなくて、いいの?」
フロイデの言葉に「あ」と前方を見ると、少年が「遅いよ~!」と手を振っていた。その隣ではいつの間に移動したのか、ヴァールがいて「早く来いよ!」と無邪気な口調で呼び掛けてくる。
「ふふ、私たちも急ぎましょうか」
「そ、そうですね」
「駆けっこなら、負けない……!」
口々に言い終ると彼女たちは一斉に駆け出した。結果、リーベはびりっけつだった。
少年に案内されてやって来た建物は他の家屋より一回り大きく、立派なものだった。
「わあ……」
板材を組み合わせた壁とくすんだ色の瓦の組み合わせはテルドルでは見られないものであり、リーベはとても新鮮な気持ちでそれを見上げていた。
「おっちゃん、冒険者が来たよ!」
少年はドアを開けながら呼び掛けると、「じゃ、おれは仕事に戻るから」と踵を返していった。
「お利口な少年でしたね」
フェアが微笑ましげにする傍らで、フロイデが対抗意識を燃やす。
「ぼくもあれくらいできる……!」
「ふふ、そうでしたね」
そのやり取りをリーベが不思議に思っていると、建物の奥から彼女の父と同年代の男性が、ぽっこりとした腹を揺らしながらやって来た。丸い顎はカミソリ負けしたのか、赤いブツブツができており、それを気にする素振りを見せつつ、来客を親しげな笑みで出迎える。
「ようこそいらっしゃいました――て、あれ? ヴァールさんにフェアさんじゃないですか! お久しぶりです!」
主人の気さくな対応に、ヴァールとフェアが口々に無沙汰を詫びる。
2人は顔が広いなと思いつつ、ここはテルドルの近郊だからと、自身を納得させられた。
「ところで、後ろの2人は?」
「ああ、弟子を取ったんだよ――ほら」
ヴァールが2人に挨拶するよう促す。
「はじめまして、リーベ・エーアステです。よろしくお願いします」
「……フロイデ」
「これはご丁寧に。僕はパウロ。ここの村長だよ」
パウロの挨拶を聞いてると、ヴァールがリーベの肩を叩いた。
「こいつは師匠の娘なんだ」
「というと、エルガーさんの?」
「ああ」
するとパウロは目を丸くした。
「あの、お父さんを知ってるんですか?」
「もちろんだよ。ここはテルドルの近所だからね、君のお父さんにはよく助けられたものさ」
「そ、そうなんですか……」
エルガーの娘として、ちょっと照れくさかった。
「冒険者を引退したって聞いたけど、元気にされてるのかな?」
「はい。むしろ元気が有り余ってるくらいで」
「ははは! それはそうだろうね!」
快活に笑う彼と「おっといけない」と手を鳴らす。
「立ち話もアレですし、どうぞ掛けてください」
食卓の方を勧められると、彼女らは荷物や武器を邪魔にならないところに置いてから腰掛ける。
「今、茶をお持ちしますね」
「いや、すぐ出るからいいぞ」
ヴァールが淡然と言うとパウロは笑った。
「はは、相変わらずせっかちですね。まあ、そういうことなら」
咳払いをすると改まって話し始める。
「先日、村の若いのが牛乳を売りにマルロの町へ向おうとしたんですがね、大きいカエルを見たって引き返してきたんですよ。それでその時、カエルの舌が伸びてきて、荷台に積んでいた牛乳をひったくられちゃったみたいで。販路は断たれるわ、大事な牛乳も持ってかれてるわで、全く大損ですよ。はは」
後半は愚痴っぽくなっていたが、そんな災難が続けば愚痴の一つも言いたくなるだろうと、リーベはパウロの気持ちを酌み取り、苦笑した。
「そのカエルって随分と器用なんですね」
「そいつが言うには、投げ縄みたいだったって」
パウロは半信半疑な口振りだったが、ヴァールとフェア、そしてフロイデは確信して頷く。
「ラソラナだな」
「らそらな……?」
魔物の名前をぼんやりと繰り返すパウロに、知識人のフェアが応じる。
「はい。ラソラナは舌先が輪っか状に広がっていて、これによって獲物を捕らえ、口内まで引きずり込むんですよ」
「力、つよい」
フロイデの補足によってラソラナの生態が、現実的な脅威として感じられた。
「ひええ……」
自然、怯えた声を発してしまうも、誰も気に留めなかった。
彼らの関心は今、その魔物が何処にいるかに集約されていたからだ。
「そんで、具体的に何処にいたんだ?」
「ああ。それはですね――」
パウロは窓辺に向うと村の北東へ延びる道を指し示した。
「あそこを馬車で1時間くらい行った場所で襲われたと聞いています」
「近いな」
(近いのかな……?)
リーベが師匠の率直な感想に疑問を感じている一方、自身が不安に思っていたことに共感を得られたパウロは早口で言う。
「そうでしょう! うちは牛をたくさん飼ってるんで、狙われないか心配で心配で」
彼の言うとおり、この村はラソラナにとっては絶好の狩り場になるだろう。そしてラソラナはすぐそこに潜んでいる。こうなっては事情聴取している時間すらももったいないとリーベは想った。
それは他の面々も同じであり、示し合わせたワケでもなく同時に立ち上がった。
「いつまでも呑気してらんねえな」
「そうですね。一刻も早く退治してしまいましょう」
「それから牛乳を飲む……!」
フロイデの言葉にリーベはガクッとなるが、彼は至って真剣だった。
「おお、早速向ってくださるのですね!」
「ああ。夕方にはヤツの面を拝ませてやるぜ」
そう言うとヴァールは仲間たちを見回す。
「残り半日の内に仕留めるんだ。気張っていくぞ!」
「はい!」
「おお……!」
「う、うん!」




