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002 旧友は言う

 2人が店内に戻ると、そこにはシェーンが待ち構えていた。

 彼女の端正な顔は悲痛に歪んでおり、伴侶としての心配が在り在りと見えた。その様子にリーベは息を呑み、父の顔を覗き込んだ。


「……カンプフベアと戦ったんですか?」

「あ……ああ」


 エルガーが目線を下げると、視界の中に収まろうとシェーンが歩み寄る。自然、上目遣いに語りかけることになった。


「『人手が足りないから』と助っ人に出たんですよね?」


 静かな言葉には心配のみならず若干の憤りが感じられて、リーベは(はなは)だしく気まずい心地でいた。それはエルガーも同じであり、長い沈黙の後「……悪い」と答えるより他になかった。


「でもカンプフベアをやれるヤツなんて俺以外には――」

「いつまでもあなたが助けてるからでしょう!」


 頬を叩く代わりの一声は、水を打ったかのように静寂をもたらした。


「……あなたという英雄に縋ってばかりいるから、この街の冒険者は育たないんです! それに、エルガーさんだってもう若くないんですよ! これじゃあ……いつか……いつか破綻しますよ…………」


 激しく言葉を連ねる中でシェーンは涙を滲ませていった。その様子が一層の罪悪感を覚えたエルガーはただ一言、深く、心より謝った。


「……すまねえ…………」


 長いの沈黙の末、シェーンは声を絞り出す。


「約束してください……もう、絶対に冒険に出ないでください」

「それは……」


 夫が誰よりも強く、誰よりも責任感が強いことをシェーンはよく知っている。故に怒りながらも胸を痛めていた。だが、これも全ては愛する夫の為なのだ。彼女はそう自分に言い聞かせ、追求する。


「お願いします……私は、あなたが傷つくのが怖いんです……!」


 傍観するリーベは両者の気持ちを本人と同じように感じられた。想いの交錯するのを俯瞰しつつ、今回の冒険について考えていた。


 あの商人の感謝の程から察するに、今回はよほど逼迫していたのだろう。これが仮にエルガー以外の人物が任務に就いていたならば、あの商人は助からなかったに違いない……そう悟った。それだけに彼女は、どちらにとも付かないで、ただ見守っていた。


「……わかった」


 その声に妻子はハッとしてエルガーを見る。彼の(とび)色の瞳には確かな覚悟と誠意が滲んでいて、それが妻を喜ばせた。


「……本当、ですか?」


 その問い掛けに対し、彼は妻の目を見据え、強く頷いた。


「ああ。2度と冒険には出ない……約束する……!」


 そう言うと彼は2階へ駆け上がり、愛用の双剣を抱えて降りて来た。


「何をしてるの⁉」


 娘が問うと、彼は乱暴な口調で答える。


「そもそも武器があるからいけねえんだ! あとこれもだ!」


 入り口脇に掛かっていた絵画、『断罪の時』を剥がすと小脇に抱え、ドアに飛びついた。


 彼が自棄(やけ)になっているのは明らかで、痛ましいとさえ言える。そんな父を見かね、リーベは「そこまでしないでもいいでしょ!」と(なだ)めに掛かった。それから母からも何か言ってもらおうと振り向くも、彼女は固く口を噤んでいる。


「お母さん……」


 対応に(あぐ)ねている間にもエルガーは外へ飛び出し、何かから逃げるように駆けていった。その方角には冒険者ギルドがある事をリーベは知っている。


「……お父さん」


 娘としては喜ばしい出来事であったが、父が人生を賭けて取り組んできた活動をやめさせられてしまったのが可愛そうでならない。それは引退を訴えたシェーンも同様で、その場に座り込んですすり泣いていた。


 程なくしてエルガーが戻ってきた……大勢の人々を伴って。

 群衆を構成するのは冒険者だけでなく、濃紺色の制服を纏ったギルド職員や、関係のない一般人まで様々だ。彼らは揉み合いながら英雄の引退を引き留めようと、口々に叫んでいる。


「エルガーさん、辞めちまうってどういう事ですか!」

「辞めないでくれよ!」


 彼らは『辞めないで』と口々に言っているが、実のところ、エルガーは3年前に引退しているのだ。だが『人手が足りない』あるいは『強力な魔物が出た』時にだけ助っ人をしていたのだ。そうして冒険者業をやめられずズルズルと引き摺った結果が今だ。


『あなたという英雄に縋ってばかりいるから、この街の冒険者は育たないんです!』


 シェーンはそう言っていたが、現状を見て、それを否定できる要素は何処にもなかった。


「お前ら……」


 お父さんは自分を求める人々の声に胸が熱くなったが、ある一言によって一気に冷めた。


「アンタが辞めたら、誰がテルドルを護るんだよ!」


 その言葉に追随する声が多数上がり、引き留めるはずが責任を問うような空気になっていった。そんな不健全な空気の渦中にいて、エルガーは憤り、拳を握り込んで叫んだ。


「お前らだ!」


 叩き付けるような怒声に場は静まり返った。

 厳かな静寂の中、彼は幾分落ち着いた声で、自分も含めた全員に言い聞かせる。


「俺に頼れば済むって考えがあるから、誰もカンプフベアに立ち向かおうとしないんだ。そのせいで対処が遅れて、危険に晒される人間が出てくるんだ。今回は特にそうだ……」


 その言葉に冒険者は元より、集まった誰もが深く項垂れた。


 エルガーを引き留めようとする現状が、何よりそれを物語っているからだ。


「……助言くらいはしてやる。だが、2度と冒険には出ない。俺は引退したんだ」


 そう言い残してドアを閉じるとカウベルが虚しく鳴り響いた。


 店の外では群衆が静かに散っていく中、シェーンは夫に駆け寄った。


「あなたっ!」


 娘の前で(はばか)ることなく抱きつくと、大きな胸に顔を埋める。彼もまた、大きな腕で妻を抱きしめると頭頂に鼻先を埋める。


「…………」


 2人が出会ったのはあの絵画にもあったスタンピードの直前だったという。


 以来、交際を重ねて結婚して……それから現在に至るまで、シェーンはずっと不安で居続けたのだ。ましてや夫は誰よりも危険な仕事をしていたワケだから、それも一入である。


 母の繊細な心を思いやれば、今はそっとしておいてあげたいところだが、開店時間が迫っている。そんな中、リーベは提案する。


「……ねえ。今日くらい、お休みにしても良いんじゃない?」


 尋ねるとシェーンは胸板から顔を話し、泣き腫らした目を指先で擦りながら首を横に振る。


「いいえ。仕事はするわ」

「でも……」

「それとこれとは、別だもの……」


 彼女は夫の方へ向き直ると、高い位置にある顔に手を添え、つま先立ちになってキスをした。


 唇を離すといつもの整然とした表情に戻り、厨房へ向かう足取りも凛としたものになった。


 一方、エルガーは憑きものが落ちたような清々しい顔をしていた。







 エルガーの引退宣言(2度目)は瞬く間に街中を巡り、事の真相を探ろうと、ディナータイムには客が大挙して押し寄せてきた。


 狭い店内はすでに満員であり、店の外には長蛇の列ができている。普段はピークタイムでもこうはならないのにとリーベは「ひい~」と忙しい悲鳴を上げた。だが同時に、今回の出来事が如何に周囲の感心を集めているかを理解した。


 だが、感心ばかりしていられない。


 給仕として、少しでも回転率を上げて、客の待ち時間を減らさなくてはならないからだ。


「リーベちゃーん」


 注文を告げるべく、客の一人が彼女を呼んだ。


「あ、はい! ただいまー!」


 次の客の元へ急ごうとしたとき、ウワサ好きで有名なサラという中年女性に捕まる。


「リーベちゃん。エルガーさんが引退するってのは本当なんかい?」


 過去の恩を思い出してお礼を言いに来てくれる人もいたけれど、大半は彼女のように、好奇心を満たす目的でやって来ていた。この日何度目かの問い掛けに辟易しつつ、失礼のないよう、丁重に答える。


「お父さんももう若くありませんので――」

「おや! アタシの見立てはあと一五年はやれそうなのに!」

「はは……ありがとうございます。それでは――」

「引退は2度目だけど……そうさね。こうなったら2代目が必要なんじゃないかい?」


 サラ婦人は期待の眼差しをリーベに向ける。すると食堂は静まりかえり、いくつもの視線が彼女に集まった。


 リーベは周囲の期待には応えたいと思ったがしかし、戦いは男の領分だ。それに何より、彼女はこの食堂を継ぐ定めにあるのだ。間違ってもそんなことはないと、彼女は切に思った。


「まさか! お父さんには弟子が沢山いますので」


 会話を打ち切ると、今度は嗄れた声に呼び止められる。


「……リーベよ」

「はい?」


 振り返った先には陰気な顔をした初老の男性がいた。


 彼は右腕が無く、右の頬には深い裂傷痕があった。年齢を重ね、たるんだ目元は憂いを湛えているかのようで、深い眼孔に収まる瞳には生気が感じられない。


 そんな彼は数時間まえまで絵画の飾られていた場所へ目を向ける。


「ディアンさん……」

「……ワシの描いた画は、捨ててしまったのかの?」


 あの絵画『断罪の時』はこの老人――ディアンが描いたものだった。


「いえ。剣と一緒にギルドに預けてあるそうです」


 あの絵は複製画などではなく、原画なのだ。


 それ故、リーベもシェーンも、そしてエルガー自身もこの店よりも、ギルドに飾る方が相応しいと常々思っていた。だが、ディアンがエルガーにと描いたものであったため、ああして飾っていたのだ。


「……ええと…………」


 リーベが困り果てて言い淀む一方、ディアンは声を零した。


「ワシの分まで、死ぬまで戦うと言っておったのにな……」

「ディアンさん…………」


 彼は元々冒険者だったが、件の戦いで腕を失い、剣を捨てたのだという。


 そんな彼が、自分の見たものをありのままに描いたのが『断罪の時』だ。この1枚をもって画家として名を上げた彼であるが、彼の描くも画の端々からは冒険者業への未練を強く感じられると評判だ。リーベ自身、目にするたびに、そんな感想を抱いたものだ。


「……ごめんなさい」


 リーベは自然と、詫びを口にしていた。それでどうにかなるわけではないが、言わずにはいられなかった。


 するとディアンはハッとして視線を下ろした。


「いや……すまんな。こんなジジイの愚痴に付き合わせちまって。いつものアレを頼む」


 哀しげな声にその姿に、リーベの胸はチクリと痛んだのだった。







「ふう……」


 波乱のディナータイムを凌いだリーベは息も絶え絶えに店内の清掃を終える。


 彼女の華奢な体には疲労が募り、額に(にじ)む汗を拭うことさえ億劫でいた。


 そんな中、シェーンがリンゴジュースを出して娘を労う。


「お疲れ様。これ飲んだらお父さんを呼んできてちょうだい」


 彼女は彼女で、明日の仕込みをするところだった。


「あ、わたしも手伝うよ」

「いいのよ。今日はすごい大変だったでしょう?」

「うん、まあ……じゃあ、お言葉に甘えて……」


 リンゴジュースを口に含むと、その甘みが身に沁みた。


 疲れた時は甘いものに限るなと、彼女はつくづく思った。








 リンゴジュースを飲み終えたリーベは父を呼びに2階に上がる。 

 2階は住居になっていて、リーベの部屋と夫婦の部屋、そして今は亡き祖父の部屋と3部屋ある。だが、エルガーがいるのはこの更に上階の屋根裏部屋だ。


 廊下の奥にある階段を上っていくと、リーベは父の悩ましげな声を聞いた。


「これは……いる。これは……いらないな」


 開け放たれたドアの向こうには入り口に背を向け、魔物の素材を選別する父の姿があった。


あぐらを掻いて手元に集中する様は工作に励む子供のようで、リーベはなんだか可笑しく思えた。


 屋根裏部屋には窓があり、風通しは良いはずだが、むしむししている。これが父の体温によるものなのだとしたら、相当に頭を使っているのだろうとリーベは思った。とは言え放っておくことは出来ず、彼女は呼び掛ける。


「お父さん、晩ご飯できてるよ?」

「あー、今行くー」


 予想通りの生返事だった。リーベが呆れてため息をついたその時、エルガーは一際大きな声を上げた。


「お、これは!」


 その声に好奇心を起こしたリーベは恐る恐ると屋根裏部屋に踏み込んだ。


 エルガーには魔物の素材を収拾し、保管する悪癖があり、部屋中に悍ましい物体が散らかっている。中でも彼女が嫌いなのは、壁に掛けられたカンプフベアの毛皮にだった。


「うひいっ⁉」


 昔、エルガーが斬り落としたこの右腕は、リーベの腹囲の2倍ほどの太さがあった。


 怖じ気づいた彼女は慌てて視線を逸らした。その先では、父親が何かを光に透かしていた。

 それはゴツゴツとした黄金色の物体であり、小市民であるリーベは声を上げずにはいられないかった。


「金っ!」


(金塊なんて初めて見た……!)


彼女の叫びに、エルガーはようやく娘の存在に気付く。


「リーベ⁉ ……見られちまったか」


 元英雄らしからぬ動揺を見せながらも彼は金塊を陰に隠すが、娘に見つめられては観念するより他になかった。彼は被害を最小にするべく、声を忍ばせて言う。


「……秘密にできるか?」


 神妙な問い掛けにリーベはゴクリと唾を飲み込んだ。


「う、うん……約束する」


 エルガーはしばしはしばし娘の目を見つめた後、信頼できると踏んでそれを差し出した。

 一方、ウキウキしながら受け取ったリーベは、その見かけ倒しな軽量さにため息をついた。


「金……じゃない。はあ……」


 がっかりしつつも、その物体を観察する。

 表面はゴツゴツとしていて、風を切るような形状をしている。裏側には剥離したような跡があり、これはまるで――


「うろこ……?」

「そうだ……俺がなんで英雄扱いされてるかは知ってるな?」


唐突な言葉に動揺しつつも答える。


「うん。20年前に冒険者たちの先頭に立って、魔物の軍勢を押し返したんだよね?」

「ああそうだ……その後、俺は師匠と、あと居合わせた魔法使いのジジイとの3人で事の真相を探りに行ったんだ」

「ごくり……」

「南のグラ・ジオール山の中腹に、何枚かの鱗と、あと……いや。とにかくそれはあった。あれから20年。ギルドが調査を進めているが、未だ何の魔物か知れないでいるんだ」

「ていう事はまだ……」


 血の気が引いていくのを覚えた。


「まだヤツは死んでねえ。この世の何処かで生きながらえてるはずだ」

「そんな……」


 恐ろしい事件を引き起こしたであろう魔物が生きている……いずれ、また何処かで誰かが危険に晒される日も来るのだろう。


 それを思えば……なるほど。存在が秘匿されるワケだ。


「俺は決戦に備えて次の世代を育てる任務を――これは関係ねえな。とにかくやべえ魔物の鱗なんだ。分かってることと言えば、やつがドラゴンってくらいだ」

「へえ……」


 冷や汗を拭っていると階下からシェーンの声が響いてくる。


「晩ご飯の用意ができてるから、下りていらっしゃい!」

「はーい!」


 入り口の方へ声を返すと鱗を返却する。


「片付けは明日にして、今日は休も?」

「そうだな――うぐうっ⁉」


 立ち上がり掛けたエルガーがその場に崩れた。


(まさか、ドラゴンの呪いが⁉)

「うぐ……脚が痺れた」

「なあんだ……」


 彼女がホッと胸を撫で下ろしていると、父が恨みがましく言う。


「なんだとはなんだ! 俺はこんなに苦しんでるのに!」

「ふふ! つんつん!」


 ふくらはぎを突っつくとエルガー悶え始めた。


「ぬおおっ! や、やめろおお!」


 その反応にリーベは楽しくなり、何度も突っついた。しばらくそうしてじゃれ合っていると、シェーンが怒鳴るように呼び掛けてくる。


「冷めちゃうわよ! 早くいらっしゃい!」








 エーアステ一家は夕食を取った後、入浴を済ませてきた。


「はあ……疲れた」


 口に出た通り、リーベは疲れ切っていた。


 入浴後は普通、清々しい心地になれるはずだが、エルガーの件で質問攻めに遭ってしまい、一層疲れるハメになった。彼女がこんなげっそりとした気分で風呂屋から帰宅するのはこれが初めてだった。


「そうね。今日は夜更かししないで寝るのよ?」


 口には出さないが、シェーンも行動の節々に疲労が滲んでいた。それに加え悩ましげな目をしている……今回の騒動について責任を感じているのだ。


 娘が気を遣って心配の言葉を掛けようとした時、エルガーがリーベに尋ねる。


「リーベ。今日、ディアンの爺さんは来たか?」


 即答しかねたが、隠し立ては出来そうにないため、正直に答えた。


「……来たよ?」

「そうか……なんか言ってたか?」


 どう答えたものか悩んでいると、「そうか」と手拭いや着替えを娘に押しつけ、家の外に出る。


「悪いが、ちょっと出かけてくる」

「待って!」


 母と声が被ったので、リーベは引いた。


「ディアンさんを尋ねるにしても、こんな夜更けに行く必要は――」

「あの爺さんは昼夜逆転してんだ。それに、今日中に話を付けなきゃなんねえんだ。悪いが先に休んでいてくれ」


 そう言い残すとエルガーは家の前を去って行った。その後ろ姿が街頭の薄明かりを受けて白む中、シェーンは溜め息交じりに言う。


「仕方ないわね……わたしたちは先に休んでいましょうか」

「……うん」


 ドアを開け、屋内に踏み込みながらリーベは父の去って行った方角を一瞥(いちべつ)した。


 そこに人影はなく、靴音も聞こえてこなかった。


 仕方ないと2階へ上がろうとするが、母がホールに居座る様子を見せた。だからも自分も一緒にとリーベは思ったが、「いつもお寝坊なんだから、早くお休みなさい」と断られた。食い下がろうにも、日頃の行いのせいで致し方なかった。








 

 不承不承、魔法のランプ片手に引き上げてきたリーベを出迎えてくれたのはトイプードルのぬいぐるみだった。暗闇の中、主人の帰りを待っていてくれたこの忠犬はダンクと言う名で、彼女の1番の友達だった。


「ただいま、ダンク~」


 枕元にランプを置き、ダンクをギュッと抱きしめる。

 ダンクは王都有数の職人が縫い上げた名犬で、抱きしめると雲のように柔らかく、本物の犬であるかのようにもふもふだった。


「はあ~……」


(ダメだ。このままじゃ寝ちゃいそう……着替えなきゃ)


 ダンクは男の子という設定のため壁の方を向かせると、リーベは黄色いパジャマに着替える。それからベッドに潜り、ダンクを抱きしめると、抗い難い眠気に襲われ、程なくして夢の世界へと旅立っていった。







……20年前の出来事。

 エルガーたちは魔物の軍勢を迎え撃つべく、徒党を組んでテルドルの南方へと向かった。

 隊を構成するのは冒険者が20人と兵士が30人……これだけ聞けば結構な軍隊に思えるだろうが実際は違う。統率の取れた兵士たちに、クランごとに独立独行する冒険者たちが編成されるのだ。それはまさに烏合の衆で、実際、魔物と遭遇した時には深刻な混乱をきたしたものだ。


『誰が戦うんだ』『アイツらがやるだろう』と、言った具合に役割を押し付け合い、そのせいで大小の怪我を負う者もいた。そんな彼らがどうして魔物の大軍を退けられたのか。


 それはある人物が身を挺して結束を訴えたからだ。


 魔物との緒戦を凌いだ時、彼らはいがみ合っていた。それを仲裁しようとエルガーが無防備に背中を晒したその時、魔物が飛び掛かってきたのだ。


 その窮地から彼を救い出したのは隻腕の画家――ディアンだった。エルガーを庇い右腕が失ったにも関わらず、彼は強靱な精神力をもって、自らの不幸を利用して隊を統一したのだ。


『お前らもこうなりたくなかったら、コイツの指示に従え!』


 ディアンのその言葉は、20年経った今でもエルガーの耳に――そして胸に残っていた。


 彼のお陰でテルドルは守られ、エルガーは愛する人を守ることが出来た。


 故にエルガーは、ディアンこそが真の英雄だと。賞賛を受けるべき人間だと心の底から思っていた。


「……あ」


 夜道を行くエルガーはふと酒場が目に付いた。あの戦いの後でディアンと酒を交わしたあの酒場だった。


 ディアンは利き腕を無くした為に残った左手でジョッキを保持していたが、慣れないせいで何度も零すハメになった。その痛ましい姿を前にエルガーは、罪悪感に押しつぶされそうになった。だからせめてもの慰めになればと、ある誓いを立てた。


『俺がおまえの分まで、死ぬまで戦ってやる』と。


 エルガーは思う。


 ディアンはきっと、自分が戦果を立てることで冒険者としての尊厳を保ってきたのだと……にも拘わらず、エルガーは誓いを反故にした。


 これがどれ程に罪深いことか。


「…………ふっ」


【断罪】と呼ばれた自分が、今まさに断罪されようとしている。


 皮肉な現実を自嘲すると、彼は再び歩き出した。







 程なくして街角にあるディアンの家についた。

 ディアンは画家として成功しているものの、欲が無く、幽霊が出そうな古めかしい家に召し使いと2人で住んでいる。エルガーはその質朴(しつぼく)とした生き方が彼らしいと思いつつも、せめてもう少し上等な家に住めば良いのにと思わずにはいられなかった。


 ドンドン! 


 エルガーがドアを叩くも反応がない。ここの召し使いは無能で有名だった。今頃は夢の中なのだろうと思いつつ、彼は呼び掛ける。


「ディアン! いねえのか?」


 再度叩くとドアが開き、暗がりから魔女みたいな顔が現われる。


「ディアン……」

「まったく、お前はノッカーも使えんのか」

「あ?」


 ドアを見ると、シカモチーフのノッカーがあった。


「ホントだ……あはは!」

「……これでよく冒険者をやってこられたものだな」


 陰気な目が彼を睨み上げる。すると心を見透かされるかのようで、エルガーは居心地の悪い思いをした。


「そんなところに突っ立っておらんで、入ったらどうなんだ?」

「あ、ああ……そうする」


 それから2人はカビ臭い廊下を歩き、アトリエへと向かった。その道中、エルガーはディアンの失われた右腕ばかりを見つめていた。幻肢痛って実在するのだろうか、と些細でありながら、重大な疑問が彼の胸を圧していく。


 ディアンのアトリエは厨房から設備を抜き出したような造りで、代わり画材が所狭しと置かれている。そして部屋の中央には描き掛けのカンバスがあった。


「…………」


 描かれているのはワイバーンという魔物で、青空を背にこちらを睥睨(へいげい)している。背後には太陽があるのか、顔や腹には逆光で影が差している。その一方で翼膜は透けており、それがリアリティを超越した迫力を生み出していた。


 エルガーはワイバーンと戦った事が何度もあった。それ故にこの画が、まるで自分の記憶の一部を抜き出しているように思えてならなかった。


「すげえな……」

「ワシは見たまんましか描けない……だからそろそろ、ネタ切れだ」


 ディアンは色褪せた目をカンバスに向けて言う。その言葉に……仕草に。エルガーの胸の内で(わだかま)っていた罪悪感がいっそう重厚なものになる。その重みに耐えかねて、彼は詫びを零した。


「……すまねえ」


 弁明の言葉などなく、彼は深々と頭を下げる。

 すると空気が澱み、瘴気(しょうき)のように彼の心を蝕んでいく。その息苦しさに喘いでいると、ディアンが意外なことを口走る。


「2人目でもできたのか?」

「……は?」

「引退して(なお)、武器を手放さなかったお前がそれを手放した。なら、それだけの事情があると考えるのが普通だろう?」

「……そうか」


 俺は頭を上げ、憮然とした目を見る。


「いや、そんなめでたいことじゃねえ。……俺は引退してからも、他の連中には狩れないような魔物を引き受けてきた。だが、家族を心配させたくはなかった。だからいつも嘘をついてきたんだ」

「……で、それがバレたと」

「ああ。寄りによって、カンプフベアと戦った事が知られたんだ。……それで、シェーンに言われたんだ。俺に頼ってばかりいるから、この街の冒険者が育たないんだ……若くねえから、このままじゃいつか破綻するってな」

「道理だな」


 ディアンは瞑目した。

 彼が激情家でないことをエルガーはよく知っている。だから一定の理解を示してくれることには何の驚きもない。だがそれだけに恐ろしかった。


(言うべきことは言った)


再び沈黙が流れ……しばらくの後、ハゲタカのような目がエルガーを睨み上げた。


「エルガーよ。お前はあの時、言っていたよな? ワシの分まで、死ぬまで戦うと」

「……言った」

「お前の事だ。それを気にしてるのだろうが、それについて今更どうこういうつもりはない」

「何でだ?」


 エルガーは問わずにはいられなかった。しかし言い終るや、ディアンはクツクツと肩を震わせて笑い始めた。


「な、何がおかしい!」

「くくく! 一度引退しているやつが、何を今更と思ってな!」

「――そら! 『いざとなりゃ戦ってやる』って引退したんだ!  剣を捨てたわけじゃねえ!」

「積極的に戦わないのだから、結局はおなじことよ!」

「むう……」


 歯噛みしていると、ディアンは途端に神妙になった。


「だがな、そう簡単に終われるとは思わないことだ」

「……どういう事だ?」

「あの恐怖を体験した連中は、お前に願いを託してる。ワシのようにな……」


『アンタが辞めたら、誰がテルドルを護るんだ』


 誰かの叫びが耳に蘇る。


 平和への願いを託されたのはエルガー自身自覚していた……だが彼は、やれるだけの事はやったつもりだった。だが、それでも不足だというのだろうか?


煩悶(はんもん)としているとディアンが続ける。


「英雄に求められるのは腕だけじゃない。その意味をよく考えることだ」

「…………」


(まさか……いや。だってリーベは……)


 焦燥する心に冷や水を浴びせるようにディアンが吐き捨てる。


「さ。仕上げの邪魔だ。とっとと帰れ」

「……ああ。邪魔したな」


 ディアンに背を向けた時、エルガーはふと振り返った。

 陰気くさい部屋で老人がカンバスへ向かう姿は物悲しい以外の何物でもない。しかし、その眼差しだけは生き生きとして見えた。


「なにを突っ立ってる? ワシは人に見られてると画が描けないんだ」

「あ……すまねえな。んじゃ、たまには店に寄ってくれよな」


 そう言い残して、彼はディアンの家を後にした。

 





 街灯がぼんやりと照らす街路を1人寂しく歩く。周囲の建物はどれも明かりが消えていて、街全体が眠りに就いているのが分かる。食堂エーアステも例外ではないと思ったが違った。鎧戸の隙間に微かな明かりが見える。


 エルガーはカウベルを鳴らさないよう、そーっとドアを開ける。するとホールには妻シェーンの姿があった。椅子の上がったテーブルの1つに頬杖をついていたが、彼が帰ってきたのを知ると細い肩を跳ね上げる。


「お、おかえりなさい……」

「ああ、ただいま。驚かすつもりはなかったんだが……待っててくれたのか?」

「ええ。心配だったんですもの。それより、ディアンさんはなんて?」

「1度引退してるクセに何を今更って」


 ありのままを言うとシェーンは目を丸くして、ついでクスリと笑った。


「ふふ、それもそうですね! それだけですか?」

「あー……」


(言うべきかどうか……いや、言うべきだ)


「英雄に求められるのは腕だけじゃないってな」

「どういう事ですか?」


 疑問を浮かべつつも、シェーンは察している風があった。勘が良いのは結構だが、それはつまり、繊細であるという事だ。


 今までどれだけ心配を掛けてきたのか……エルガーには想像も及ばないことなのだった。余計な心配を掛けたくはないが、かといって黙っているワケにはいかない。夫婦なのだから大事な事情は共有するべきだ。


 そう思った彼は口を開く。


「象徴であること……要するに、血筋を求めてるヤツは大勢いるってことだ」

「血筋……やっぱり、リーベに……」

「俺の娘に産まれた以上、女とはいえ期待はされるだろうな」

「そんな……まさか、リーベを冒険者にするなんて言いませんよね?」

「当たり前だ」


 断言するとシェーンはホッと一息をついた。だが、見上げる瞳には未だ不安が漂っている。


「大丈夫だ。リーベを冒険者にはさせねえよ」

「でも……あの子を唆す人がでてくるんじゃ……」


(リーベは素直な娘だ。周囲の期待に応えようと言い出すかもしれない。もしそうなったら俺は……アイツの意思を挫けるのだろうか?)


 ふと思ったが、考えるのをやめた。彼が考え出したら、シェーンまでが心配してしまうから。


「その辺は俺の方から言い含めておくさ。……それに、この街の冒険者は見所のあるヤツばかりだ。周りの連中も、すぐに気付くだろうよ」

「そう……ですね…………」

「そうだ」


 抱き合っていると、置き時計が11回鳴った。


「明日も早いんだ。今日は寝ちまおうぜ」

「……はい」


 ドアを施錠すると、2人は一緒の寝室へ引き上げていった。



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