017 信頼のために、心配のために
「ただいまー」
リーベが厨房で働く母に呼び掛けると、シェーンは目線は手元に向けたまま「おかえりなさい」と返す。ピークタイムと言う事もあり、早回しの言葉に忙しさが表れていた。
「着替えたら手伝うから――」
「リーベはお仕事終えてきたばかりなんだから、ゆっくりしてていいわよ?」
「で、でも……」
「休む事も仕事の内よ? 手が空いたらあなたのご飯を用意するから、今のうち汗を流していらっしゃい」
両親が働いている中、呑気に入浴するというのは若干気が引けたが、母の言うとおり、休むのも仕事の内なのだ。明日も訓練を頑張るために今はゆっくりしようと、リーベは割り切った。
「……わかった。でも、人手が欲しいときは言ってね?」
「ありがとう。その時はお願いね」
会話する間にも料理を仕上げてカウンターに置き、ホールで働く夫に呼び掛ける。
「これ5番さんね」
「あいよ」
両親の短いやり取りに後ろ髪を引かれる思いだったが、母の厚意を酌んでホールを後にした。
そうして自室にやって来ると愛犬ダンクが出迎えてくれる。
彼のアプリコットの体毛が夕日を受けて赤毛っぽくなっていた。これまた可愛らしいとリーベは微笑んだ。
「ただいま、ダンク」
帰宅の挨拶をしつつ、スタッフを壁に立て掛け、装備を解いた。
それから父に教わったとおり、柔らかく乾いた布で防具を拭き、日の当たらないところに置く。
「これでよしっと。あとはお風呂~」
入浴が楽しみでつい鼻歌を口ずさんでしまう。その途中でダンクが構って欲しそうに飼い主を見上げているのに気付いたが、生憎と彼女は今、汗だくなのだ。
「ごめんね、今わたし汚いから」
自分で言いっておきながら、乙女心が傷付いた。
「わたし、汚いんだ……」
それはそうと、着替えと入浴セットを持って裏口から外に出る。
空は黒く染まりつつあるが、街灯のお陰で街路は明るく、人通りも多い。通行人の中にはリーベのように着替えと入浴セットを手にしている人がいる。彼ら彼女らが風呂屋へ向おうとしているのは明白だ。
リーベはいつもはもっと遅い時間に入浴に行ってるから知らないが、この時間帯は混雑しているのだ。誰もがそうであるように、リーベもまた、風呂は脚を伸ばしてゆったりと浸かっていたい。
時間を置いて出直そうかとも思ったが、体がべたつく不快感の方が勝った。
仕方ないと溜め息をつき、風呂屋へと向う。
「はあ……温かい」
もうもうと湯気を立てる湯を右手で掬い、左肩から指先に渡って掛ける。それを左右交互に繰り返していると疲れが溶け出すようで、陶然とした心地に包まれた。
「ふう…………」
深く息を吐き出しながら肩まで湯に浸かろうとすると、つま先が前に座っていた婦人に当たってしまった。女湯は早い時間に混雑する傾向にあり、今はまさにピークだった。そのことをつい忘れていたと反省しつつ、詫びる。
「あ、ごめんなさい」
「いいのいいの」
鷹揚な言葉と共に振り返ったのはサラ婦人だった。
「あら、リーベちゃんじゃない! こんな早い時間に珍しいわね」
「あ、サラさん。……実はわたし、冒険者になったんですけど――」
「知ってるわ。……もしかして、ディナーの手伝いはしなくていいって?」
「そうなんです。『休むのも仕事の内よ』って言われちゃって……」
するとサラは笑った。その声が濃密な湯気の中で反響し、男湯から響いてくる声にも負けないくらい大きなものとなった。そのために周囲の視線が集まるものの、サラは口を押さえて恥じらう様子を見せず、至って平然としていた。
「そりゃそうよね。なんたって冒険者は体が全てだもんね」
「はい……でも、お母さんもお父さんも働いてるのに、わたしだけ休むのはなんかなあって」
「はは! リーベちゃんはシェーンちゃんに似て働き者ね!」
母に似ていると言われるのはリーベにとっては最上級の褒め言葉だった。
「ありがとうございます……」
照れ臭くて俯いていると、サラは冗談めかして言う。
「働き者なら尚更『休む』って仕事をしないといけないよ?」
「あ……ふふ、そうですね」
リーベは小さな波紋が幾つも広がっていくのを見下ろしつつ、思うままに言う。
「サラさんには敵いません」
「そりゃそうさ! あたしは言葉巧みにウワサの真相を聞き出すのが生きがいなんだからね!」「はは……程々にしてくださいね?」
「あいよ」
そう言ったのも束の間、サラは好奇心を滾らせた瞳をずいと寄せてくる。
「それでそれで! 冒険者としての初仕事はいつなんだい?」
その問い掛けにリーベは方々から視線が集まるのを感じた。その期待感に。その圧に。彼女は思わず仰け反ってしまうのだった。
「ま、まだ決まってませんよ……?」
「なんだ……じゃあ今日は何をやってきたんだい?」
「魔法の練習です。最低限覚えておかないといけないのがあるみたいで」
「そうなんかい? ヴァールさんたちも一緒なんだから、別にいい気もするがね」
サラは退屈そうに鼻を鳴らしながら立ち上がった。
「あたしゃ、お先に失礼するよ。リーベちゃんも、のぼせない内に上がりなよ?」
「あ、はい。おやすみなさい」
「ああ、おやすみなさい」
婦人を見送るとリーベは肩にお湯を掛けた。
濃霧のように垂れ込める湯気を見上げながら、彼女は初めての冒険に思いを馳せる。
(わたしの初任務……一体何と戦うんだろう?)
「ううむ……」
思いを巡らす内、頭がボーッとしてきた。
(いけないいけない、このままじゃのぼせちゃう!)
「よっこいしょっと……」
湯船を上がると自前の入浴セットを抱えて脱衣所に向った。
火照った体を夜風が撫でる。その心地よさにうっとりとしていられたのも束の間。リーベは周囲の人々がせかせかと家路を急いでいるのに気付いてしまった。
彼らが何を恐れているのか、それは間違いなく魔物である。
行き交う衛兵が投光器で空を見てはいるものの、その間隙を突かれることもあるだろう。そんな偏執的とも言える恐怖感が人々を苛んでいるのだ。
その様子を目に焼き付けている内、徐々にリーベにも恐怖が伝播していく。
「うう……早く帰ろ」
幸いにして人通りは多い。それに交じっていけば多少、恐怖が和らぐことだろう。
そういう訳で家路を急ぐ者の一人となった彼女だが、この目に人波の中、孤島のように佇む大きな人影を捕らえて脚を止めた。
「あ、おじさん」
その背後にはフェアとフロイデもいた。フェアは彼女と同様に自前の入浴セットを持っていたが、あとの2人は着替えと手拭いだけしか持っておらず、彼らの入浴に対するスタンスの違いを如実に表わしていた。
「おう、リーベじゃねえか」
ヴァールは大きな顔で辺りを見回しながら問う。
「お前1人か?」
「うん。お店はディナーだから」
「そうか」
ボリボリとイガグリ頭を搔き回しながらこう言った。
「しゃあね。送ってってやるよ」
「え、いいの?」
渡りに船とはこのことだ。頼もしく思っていると、ヴァールはニヤリと笑む。
「『くらいよ~、こわいよ~』なんて泣かれちゃ、俺らのメンツに関わるからな」
「なにそれ!」
リーベが憤慨する中、ヴァールはケタケタ笑いながら相棒に言う。
「そういうことだから、お前らは先に入ってろ」
「わかりました。道中、お気を付けて」
「ああ。んじゃ、行くぞ」
「う、うん……」
失礼な言葉はこうして有耶無耶にされてしまうのだ。
いじられ役であるリーベは釈然としないながらも、ここで別れる2人に挨拶をしようとした。
しかしフロイデが青い顔をしているのに気付き、口から出るはずの挨拶は問い掛けに変わってしまう。
「大丈夫ですか? 何処か具合でも悪いんじゃ……」
すると彼は深い溜め息と共に悩みを吐露した。
「……お風呂、きらい」
その言葉を聞いて、リーベはますます彼が猫っぽく見えてしまうのだった。
「そうなんですか……あんなに気持ちいいのに」
損な性格だなと哀れに思っていると、フェアが苦笑する。
「ふふ、大人でも入浴を嫌う人は一定数いますからね」
「子供じゃない……!」
「おや、失礼致しました」
2人のやり取りにくすくす笑っていると、ヴァールが急かす。
「ほら、駄弁ってねえでさっさと行くぞ」
「あ、そうだった」
フロイデとフェアに挨拶する。
「それじゃあ、また明日。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
フェアは微笑むと「今日はゆっくり休み、明日に備えてくださいね」と言い添えた。
「はい。それじゃ、お休みなさい」
挨拶を終えるとヴァールと一緒にエーアステを目指す。
その道中、リーベは自分のよりも遙かに高い位置にある顔を見上げて問い掛ける。
「ねえおじさん。わたしの初任務って、何を倒しに行くの?」
「ん? そうだな……お前を護りながらでもやれる相手ってなると限られてくるからなあ……何とも言えねえが、まあ、そこまで強いやつじゃねえよ」
そうだろうなと納得していると、ヴァールは意外なことを口にする。
「どの道、初めはついてくるだけなんだ。お前が相手を気にしたって仕方ねえさ」
「え? わたしは戦わないの?」
脚を止めた彼は『何を言ってんだ』とばかりに苦笑した。
「そりゃそうさ。冒険者学校も出てないし、体力もない。そんなヤツにいきなり戦わせるなんて、鬼畜もいいとこだ」
「で、でも! わたしは魔法が使えるんだよ?」
「それでもだ。仮にお前に戦わせたところで、緊張して棒立ちするのがオチさ。だからお前はまず、冒険に慣れることが仕事だ」
「じゃあ、わたしは今、どうして魔法を教わってるの? 戦わないなら後からでもいいんじゃないの?」
思ったことを素直に伝えると、ヴァールは呆れて溜め息をついた。
「お前は街中で魔物に襲われたばかりだろ?」
その言葉に心に焼き付いた恐怖が思い起こされ、彼女は喉を鳴らした。
「街中でさえ魔物に襲われる危険があるんだ。それが自然の中だとどうなる?」
「……もっと危険。だよね?」
「そうだ。そんなことが起こらないように最善は尽くすが、それでも運が向かないこともある。そうなりゃ、お前は自分で自分を護らなきゃなんねえんだ。フェアがお前に教えてやってるのも、全てはその為だ」
そこまで言うと彼は一息つく。
「やる気は買うが、お前はもっと現実を見ろ。そうでなきゃ、冒険者は務まんねえぞ?」
師匠の言葉がじわじわと心に浸透していく。その中で自分の未熟さを思い知り、まるで傷口に薬が沁みるような疼痛を味わった。
「…………ごめんなさい。わたし、そこまで考えてなかった」
「気を付けることだ。死にたくなかったらな」
それよか、と気持ちを切り替えるように伸びをしながら言う。
「さっさと帰らねえと師匠が心配するぜ?」
「……そうだね。帰ろ」
2人で家路を辿る中、ヴァールは忠告した。
「いくらテルドルの治安が良いからって、お前みたいな小娘が夜中に1人で出歩こうとすんなよ?」
「でも、お母さんが汗を流してきなさいって」
「それとこれとは別だ。明日からは俺が送ってってやるから、1人で出歩くな。いいな?」
「う、うん……わかったよ。でも、迷惑じゃない?」
「俺がやるって言ってんだ。迷惑もクソもあるか」
ヴァールらしい物言いにリーベは思わず頬が緩む。同時に『心配してくれてるんだな』と温かい気持ちがこみ上げてきた。
(もう少しおじさんとしゃべっていたいな)
そう思ったのも束の間、前方からは賑やかに談笑する声が聞こえて来た。見ると、そこには彼女の家であり、人々の憩いの場である食堂エーアステがあった。
客の動線を断たないよう、裏口から入ろうとする。ごそごそと鍵を探っていると、ヴァールは「んじゃ、また明日な」と別れを告げた。
「お父さんには会っていかないの?」
「仕事中に行ったら邪魔だろ?」
その気遣いを裏付けるように、背後からは父エルガーの「へいお待ち!」というセリフが小さく聞こえて来た。
「ふふ、そうだね。じゃあ、また明日」
「ああ、良い夢見ろよ」
「うん。お休みなさい」
挨拶を交わすとリーベは裏口の戸を開けて暗闇の中に潜り込む。ドアを閉めようとしたその時、ふと外を覗いてみると、ヴァールがジッと彼女を見守っていた。
(……まったく、心配性なんだから)
「ふふ……!」
リーベはヴァールに軽く手を振ってから戸を閉めた。




