154 沼地の幽霊船 その②
仲間たちが固唾を呑んで見守る中、ヴァールは怒りに真っ赤に染まったミストクラーケンを前に無手で佇んでいる。
「すう……ふう……」
彼は深呼吸をしながらゆっくりと、相手を威圧するかのような厳かな動作で大剣を抜く。
一方、ミストクラーケンは長い脚を器用に動かし、地面を滑るようにして彼に迫る。そうして両者の距離が20メートルを切ったその時、魔物は暴れ始めた。
「チュニャアアアア!」
両の触腕を高く上げてから振り下ろす。
すると触腕は鞭のようにしなり、悍ましく空気唸らせながら彼に襲いかかる。
だが、その恐ろしい光景を前にして尚、ヴァールは動じない。
体を90度左に向け、大股で3歩下がる。
右脚から動かし、1歩、2歩……3歩目で大剣を構える。そうして丸まった切っ先が天頂に向けられた時、2本の触腕が直前まで彼がいた地点に叩き付けられる。
それを合図にヴァールは大剣を振るった。
「ドリヤアアアアアアアアアアアッッッッッ!」
「ゴオオオウ!」と空気を蹂躙しながら大剣が触腕に迫る――直後、ブチンと恐ろしい音を立てて触腕頭(先端の吸盤がある部分)が千切れ飛んだ。
「ヂュニャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
ミストクラーケンの絶叫が轟き、木々の梢を震わせる。
しかしその大音量にリーベは動じなかった。ヴァールの剣技に見蕩れていたからだ。
「……すごい」
彼の大剣は鞘に収まらない都合で刃を落としてある。それは謂わば鈍器であり、それで肉厚な触腕を切断するのに一体どれ程の力がいるだろうか。そう考えるだけで気が遠くなる。
力ばかりではない。
先程の立ち回り……敵の攻撃を見切り、攻撃線上から逃れつつ初撃の準備をする。これを実現するのには相当な経験と胆力を有することは想像に難くない。
心技体――ヴァールはこれら全てを完全に会得しているのだとリーベは確信する。
「…………」
今のリーベにはその背中が、ミストクラーケンよりもずっと大きく見えた。
ミストクラーケンにしても、体色が元の藤色に戻っているあたり、相対する魔物も同じ気持ちなのだろうと、彼女は得意な気持ちになった。
「チュウウウ……!」
ミストクラーケンはまるで大きく息を吸い込むかのように伸び上がり、直後、縮み混んだ。すると眉間の管から霧が放出され、辺りが霧に呑み込まれていく。
「霧……っ⁉」
先ほどまでであればフェアが魔法で霧を払っていたが、魔物との間にヴァールがいる。
(これじゃ魔法が使えない!)
リーベとフロイデは慌てて魔法使いへ振り返る。
「フェアさん!」
「フェア……!」
この危急の事態に際し、彼は涼しい顔をしていた。
「大丈夫です。見ていてください」
「え……?」
疑いつつも視線を戻す。
そこではヴァールが霧に呑まれようとしていた。
「おじさん!」
リーベ叫んだその時。ヴァールは切っ先を敵に向け、猛牛の如き突進を繰り出した。
「ドオオオオオオオオオオッッッッ!」
その勢いはすさまじく、外敵を呑み込まんとする霧を風のベールでも纏っているかのように追い払いながら敵の眼前に至る。
「ダリヤアアアアアアアアアッッッ!」
猛然たる雄叫びと共に、右足で力強く踏み込む。そこから繰り出される刺突は山をも突き崩せそうである。
そんな一撃は眉間の器官を押し潰しながらさらに深くめり込む。
次の瞬間、「パアンッ!」とミストクラーケンの体内から破裂音が響く。
ヴァールが大剣を引き抜くと大きな胴体から水がじょろじょろと零れ出す。
その量は尋常ではなく、一帯に大きな水たまりを作った。
「うわ⁉ なにが起こったんですか!」
「水嚢が破裂したんです」
「すいのー?」
リーベとフロイデが揃って首を傾げる。
「通常のイカであれば、水中で捕食者から逃れる為に墨を吐き出します。しかし、ミストクラーケンは陸に適応する中で霧を吐き出すようになりました。それは体表を乾燥から守るためであり、外敵から身を隠すためです。その為、墨嚢は水をため込む器官――水嚢となりました」
「なるほど……じゃあ破裂した今じゃ、もう霧は出せないんですか?」
「その通りです」
フェア満足しが頷く中、フロイデが急いて尋ねる。
「あれ、どうなってるの……?」
彼の示す先ではミストクラーケンが昏倒していた。
ピクリともせず、死んでしまったかのよう。しかしヴァールが薪割りさながらに触手を斬り落としているあたり、生きているのは確かだ。
「漏斗の真後ろ――眉間の奥には平衡器と呼ばれる器官があります。これは文字通り、平衡感覚を司る重要な器官で、これがヴァールの刺突によって激しく揺さぶられたんです。それによって気絶しているのでしょう」
「そう、なんだ……!」
「おじさん、凄い……!」
(自分の倍以上の大きさがある魔物を一瞬で気絶させちゃうなんて……!)
リーベは畏敬を禁じ得なかった。
弟子2人が目を輝かせる中、ヴァールが戻って来た。
「お前らの出番だが、その前によく聞け」
神妙な顔で言われると2人は背筋を伸ばした。
「アイツはお前らにはちと荷が重いだろうが、俺はやれると思ってる。お前らはどうだ?」
「やれる……!」
「わ、わたしも!」
「そうか……よし! なんかあったら助けてやる! だから存分に暴れてこい!」
「うん!」
フロイデは意気揚々と躍り出るが、リーベはすぐには出られなかった。
「すうう……はああああ……」
ソードロッドの柄を握り絞めながら拍動を数え、10になると同時に跳び出した。
そうして彼女は兄弟子の隣に並ぶと、目を合わせる。
「ぼくは左で、リーベちゃんは右ね?」
右側の方が空間に余裕があった。
彼の細やかな気遣いに励まされるも、緊張に言葉が詰まった。
「……わ、わかりました」
フロイデとは2度共闘しているが、その度に彼女は失敗してしまっている。今回も彼の脚を引っ張ってしまわないか、緊張しているとフェアがやって来た。
「魔法でサポートしますので、どうぞご安心ください」
頼もしい限りだが、彼はサポートをしてくれるに過ぎないのだ。その辺りをわきまえて置かないと、また失敗してしまう。ただでさえフロイデの心象を損ねているのだから、その上で失敗など許されまい。
「……はい。ありがとうございます」
「ふふ。さあ、2人とも構えてください」
その言葉に振り返ると同時にミストクラーケンが起きあがろうとした。
しかし、脚の半数が切断されたせいで巨体を維持するのに難儀している。
その様子にリーベは哀れみを抱くが相手は魔物。情けは無用である。
「すう……はあ……」
ソードロッドを引き抜き、ミストクラーケンを睨む。
「チュミミ~……チュニィッ⁉」
ミストクラーケンは自らの変わり果てた姿に気付くと、恐れよりも先に激昂した。体色は紅色を通り越し、赤黒く染まっていき、短くなった触腕と矢じり型のヒレをわなわなと震わせ、叫ぶ。
「ヂャヂュヂョオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッッッッッ!」
「――くるっ!」




