153 沼地の幽霊船 その①
一行は沼を迂回しながら対岸を目指す。
地面は良くて湿っていて、酷いとくるぶしまで沈んでしまう。戦場として見た時、湿地帯は劣悪な環境だった。
安全な道を選び、後続が転ばないように細心の注意を払って進んでいく。それだけでも過酷だというのに、アルボルメデューサを判別したり、霧を払ったりする為に歩みを止めなければならないのだ。
それを焦れったく思ったリーベは後ろを歩くフェアに呼び掛ける。
「……あの、フェアさんの魔法で沼を越えたりしませんか?」
彼の代名詞とも言える魔法、ガイアを使えば大幅なショートカットが出来るだろう。そう考えたのだ。
「出来ますが、それでは霧を払えません」
複数の魔法を、況してやガイアという高等魔法と併用するのはフェアにしても難しいことであった。
「あ、そっか……ごめんなさい。そこまで考えていませんでした」
「いえ。たとえ不採用だとしても、案を挙げる事に意味があるんです。でなければ、クランを組む必要はないでしょう?」
彼が言う間にも、リーベを窘めるように霧が出てきた。
「うう……」
粛々としている内に霧が払われる。
直後、フロイデが報告する。
「あそこの奥、洞窟になってる」
「え?」
他の面々が彼の短い指が示す先へ視線を向けると、山陰に大きな洞窟があった。
「洞窟か……フェア。これはひょっとすると奴かも知れねえな」
「ええ。だとしたらこの問題はより重大になるでしょう」
リーベはどういうことですかと尋ねようとしたが、彼らが断言しないのはまだ確信がないからだと気付き出掛けた言葉を呑み込んだ。
それから仲間と共に歩みを再開する。
以来ヴァールが注意を促す時しか言葉は発せられなかった。沈黙の中聞こえるのはピチャピチャと泥を踏む音や草を蹴る音、それに虫の羽音くらいのもので、そのどれもがリーベにとって決して心地よいものではなかった。
今までは平原や森林のような比較的馴染みのある場所で活動してきたが、これからはこんな劣悪な環境に赴く機会が増えてくるのだろうか。
それが苦ではないと言えば嘘になるがしかし、彼女は自らの選択を後悔していない。前途は険しくとも明るいものであるという確信があった。これが順応というものなのか、単に楽観視しているだけなのか……いずれにせよ、苦しみながらも前を向けている自分が誇らしかった。
そうしてしばらく、一行は洞窟を正面に捕らえた。
同時に再び霧が立ち籠め、フェアが魔法を放とうとしたその時だった。
べちゃべちゃと忙しない音が前方から聞こえ、霧の中に3つの緑影が浮かぶ。
「フェア!」
「はい!」
フェアがクリアーとは別の魔法を放とうとしたとき、霧の中から3体のアルボルメデューサが飛び出して来た。
「チュルリラル――!」
彼らは待ち構えて狩りをする魔物である。だから擬態を解き、人に迫ってくるのはあり得ない。この行動はアルボルメデューサの生態とは大きく矛盾している。
「まさか――」
危機を悟ったリーベが言い掛けるも、それは喧しい音にかき消される。
「チュニイイイイイィ――!」
アルボルメデューサたちの背後に幽霊船の如き巨影が浮かぶ。
リーベがそれに驚く間もなく、霧を払って正体が露わになる。
藤色の魔物は4メートルはあろうという矢じり型の胴体の下に、1メートル程の頭部を持っていた。頭部の左右には大きな瞳があり、眉間に相当する部分には胴体から管のような器官が出張っている。そして何より目を引くのは頭部の下に伸びる触手と触腕だ。
8本の脚は7メートル、2本の触腕は15メートルはある。極太いそれらがうねうねと怪しく動く様はまさに――
「い、イカぁっ⁉」
リーベが瞠目しているとフロイデが腕を絡めてきた。
驚いて振り返ると、彼は前を見たまま「踏ん張って……!」と言う。見ると彼は腰を低くし、右脚を後ろに引いている。彼女は意味も分からないままに真似ると、フェアが叫ぶ。
「ギガ・ウィンディ!」
リーベが教わった見たそれよりも一層強力な空気弾が放たれる。
それは並走する3匹のアルボルメデューサの、真ん中の個体の真横に着弾し、3匹が左右に吹っ飛ばされていく。直後、恐ろしい突風が一行を襲う。
「うう……っ!」
もし腕を組んでいなければ、小柄なリーベとフロイデは吹き飛ばされていた事だろう。
彼女がヒヤリとする中、フェアが再び叫ぶ。
「もう1度、もっと大きいのを撃ちます!」
叫びと共にイカの魔物へロッドを向ける。
「グラ・ウィンディ!」
本来、ウィンディで生成される魔弾は目に見えないが、最高位の魔法を意味する『グラ』を冠した魔弾は違う。暴風を閉じ込めたそれは、竜巻のように視認できた。
それ程に強烈な空気弾は直後、巨大イカの胴に命中する。
「チュニャアアアアアァッ⁉」
巨体は糸の切れた凧のように飛ばされ、500メートル後方の洞窟へ向かった。リーベにはそのまま突入するかに思われたがしかし、その大きな胴が天上に打つかることで無様に墜落する。
「チュニュゥ……」
「……す、すごい…………!」
唖然としていると、フロイデが「……腕」と顔を赤らめて言う。
「あ、ごめんなさい」
彼女が腕を解く傍らでフェアが唸る。
「やはりミストクラーケンでしたか。しかし何故…………?」
「それは後だ。まずはアイツを始末するぞ」
ヴァールの言葉を受け、フロイデが問う。
「ねえ、誰が戦うの?」
(まさかわたしが⁉)
そう思ったが、とても現実的ではない。
「アイツはお前らには荷が重い。だから、最初は俺がやる」
「最初は? ねえおじさん。まさかわたしたちも……?」
恐る恐る尋ねるとヴァールは頷く。
「ああそうだ」
「ひええ……!」
リーベが慄く一方、フロイデは闘志を燃やしていた。
「わかった……!」
「でもわたしには無理――」
言いかけて気付く。
(慎重なおじさんが力関係を見誤るなんてありえない。だからきっと、わたしがやれるだけは弱らせてくれるのだろうし、裏を返せば『お前ならやれる』と信頼されているんだ)
「…………」
「やれるな?」
「…………うん! まかせて!」
「よし! んじゃ、いっちょ暴れてやっか!」
ヴァールは指や肩をゴキゴキ言わせながら1人、ミストクラーケンへ向かっていった――




