138 出立の時
それから買い出しや夕食作り、入浴などの日課を消化したリーベは明日の冒険に備えて睡眠を取ることとなった。
例によってフロイデを廊下に待たせて、彼女はパジャマに着替えた。
「もういいですよ?」
ドアに向かって呼びかけると、フロイデがためらいがちに入室してくる。
「い、良いんだよ、ね?」
「はい。良いですよ?」
そうして彼を迎え入れると、彼女は机の前に掛け、ダンクと共に図鑑を読み込んだ。
厳めしい装丁の図鑑にはこのように記されていた。
『キックホッパー……第五級危険種
体高は3メートルほどのバッタ。体格故に高い跳躍力を持ち、1度の跳躍で最大、1キロメートルほどを移動できることが確認されている。
ススキやアシなどのイネ科の植物を好むため、川沿いや湖畔などに生息している。
非常に温厚な魔物で、害を加えなければ触れることさえできる。
しかし、ひとたび怒らせるとその強靱な脚力を以て蹴り飛ばされるため、気をつけるべし。
天敵としてラソラナやギガマンティスが挙げられる。
天敵が揃って森に住んでいるため、キックホッパー自身は森中には入ってはこれない。そのため、不用意に怒らせてしまった場合は森に逃げ込むと良い……無論、他の魔物には十分の注意を払うことを忘れぬように』
「ふむふむ……」
「勉強?」
その声に振り返ると、そこにはフロイデがいて、横から図鑑を覗き込んでいた。
「あ、はい。何か参考になることはないかな~って」
「そうなんだ」
「フロイデさんはキックホッパーを倒したことってありますか?」
すると彼は得意そうな顔をして「ある……!」と答えた。
「へえ……フロイデさんから見てどうです? 強かったですか」
「強くはなかった」
『弱かった』ではなく、『強くはなかった』と答えた。
それが魔物に対する畏怖の表れなのだとリーベは直感した。
「前と後ろにしか攻撃できない、から、横に回れば、勝てる」
「横ですか?」
「うん。体当たりと、キックしか使えない」
「なるほど……ハイベックスみたいに小回りが利いたりは?」
「しない。けど、一気に距離を取ってから飛び掛かってくる、から、気をつけて」
「わかりました」
フロイデのお陰で具体的なイメージが出来そうだと、彼女は早速、頭の中に大きなバッタを思い描き、イメージの中で戦うことを試みた。しかし、相手はバッタということもあって強烈な不快感を催し、結局戦えなかった。
「はあ……バッタか」
「まだ虫、だめな、の?」
リーベは以前、虫嫌いを克服するべくカエルの魔物と戦ったのだ(カエルは両生類だが、気持ち悪いから昆虫と同じようなものだと彼女は思っている)。
「はい……まだダメで…………」
「女の子は大変、だね」
そう言うと彼はリーベに背を向け、自分のベッドへと向かう。
「明日も早い、から、もう寝た方が、いい、よ?」
「そうですね。手紙を書いたらすぐに寝ます。お休みなさい」
「うん、お休み」
彼がベッドに潜るのを見届けると、リーベは図鑑を閉じ、両親への手紙を認めてからランプの明かりを消し、ダンクと共に横になった。そうして毛布を頭から被ると、フロイデの眠りを妨げないように声を潜め、秘密のおしゃべり会を催した。
「ねえダンク。わたし、明日からまた冒険に行かなきゃならないの。だからまた1人でお留守番してもらうことになるけれど、大丈夫?」
「…………」
ダンクは肯定するでも否定するでもなく、ただ沈黙していた。それは、飼い主を応援する気持ちと、孤独を嫌う気持ちの表れであり、リーベはただただ申し訳なかった。
「ごめんね。でも、寂しいのは今回までだから」
「…………」
ダンクは不思議そうに首を傾げた。だから彼女は説明して上げる。
「ぬいぐるみ屋さんであったあの子。あの子が今度うちにくるんだよ?」
するとダンクは驚愕に言葉を失った。
「ふふ。だから寂しいのも今回まで。もうダンクは1人ぼっちじゃないんだから」
「…………」
ダンクが歓喜に打ち震えたのも束の間、今度は男の子らしい恥じらいに口を噤む。
「ふふ、先輩として、いろいろ教えてあげてね?」
そう呼びかけるも、彼は突然訪れた春の気配に取り憑かれ、さしたる反応も示さなかった。そんな彼を愛おしく思い、撫でていると眠気が到来する。
「ふぁ……ダンク。わたし、もう寝ないと」
すると彼は不服そうな目で飼い主を見る。
「ごめんね? でも、明日も早いんだ。だからお休みなさい」
彼のぽっこりとした腹を撫でながらリーベは目を瞑った。
すると瞬く間に眠気が広がり、彼女の意識に甘いしびれをもたらした――
明くる早朝。リーベはフロイデに体を揺すられて目を覚ました。
「ふぁ……もう朝ですか?」
「う、うん。準備、して」
「わかりました――ふぁ……」
欠伸をしながら彼が退室するのを見送ると、彼女はいつもの冒険服に着替えた。
それからダンクを抱きかかえるとその広い額にキスをする。
「必ず帰ってくるから、お留守番、お願いね?」
そう呼びかけるとダンクは瞳を逞しく煌めかせた。その様子に一安心した彼女は荷物を手に1階に下りる。するとそこには仲間が待っていた。
「遅いぞリーベ」
言いながらヴァールがソードロッドを差し出してくる。
「ご、ごめんなさい……」
「健康そうでなによりじゃありませんか」
フェアはくすりと笑うと「さて」と切り出す。
「全員揃ったことですし、馬車乗り場まで参りましょうか」
彼の言葉にフロイデが素早く反応する。
「そこでご飯、買う……!」
馬車乗り場には旅人へ向けて、早朝から出店が開かれており、彼はそのことを言っているのだ。
「食うもん食わねえと力が出ねえからな」
ヴァールは言うとリーベの緑色の目を見据える。
「今回はお前の活躍に掛かってるからな。気張って行けよ」
「うん! 任せて!」
力強く返すとヴァールは師匠としては満足し、口元に笑みを浮かべながらドアの方を見る。
「うっし。行くぞ!」




