113 別れの挨拶 その③
両親が店の片付けをしている間、リーベは店で会えなかった人たちの下へ挨拶に行くことにした。
ランドルフ先生に始まり、サイラスにアラン、ロイド一行、その他数人に挨拶をして回り、それから西区にあるダルの工房にやって来た。
背の低い石造りの建物の中からはカンカンと金属を鍛える音が断続的に響いてくる。それを耳にするたびにリーベは緊張を募らせていくが、ダルに挨拶をしないというわけにも行かなかった。
「すう……はあ…………よしっ!」
気合いを入れた彼女は古めかしいドアをコンコンと叩いた。しかし、この騒音の中では聞こえないだろう。そう思った彼女は家主を呼んでみることにした。
「ダルさーん!」
すると甲高い音が鳴り止み、ドアが乱暴に開かれ、ダルが現れる。彼は直前まで武器を鍛えていたから顔は真っ赤に染まり、額には玉のような汗が浮かんでいる。彼は汗で長袖がぴったりと張り付いた腕を折り、ドア枠に肘を突いた。
「はあ……リーベか。何の用だ?」
「お仕事中にごめんなさい。あのはわたし、明日テルドルを出ることになって――」
「なにぃ⁉」
嗄れた声にびっくりさせられたが、どうにか平静を装う。
「……そ、それでご挨拶にと……」
「そうか……」
ダルは額を拭うと「そんだけか」と無愛想に言う。その振る舞いにリーベは悲しくなるがしかし、これが2人のあるべき姿なのだ。
リーベはこれ以上、ダルの悲しみを掘り起こさない為にも、早々に退散する事に決めた。
「あ、はい。ええと、あの……お邪魔しました――」
「早朝だな?」
「へ?」
唐突な言葉に対処できないでいると、彼は同じ問いを繰り返す。
「そ、そうです。朝の5時には街を出るので――」
言い掛けたところで彼はドアを乱暴に引き寄せ、彼女を追い出した。
「……ダルさん…………ごめんなさい」
リーベはしばし、呆然とその場に立ち尽くし、武器を鍛える音を耳にしていた。ひとたび甲高い音が響くたびに、彼女の胸には罪悪感が募っていく。
「…………スーザンさん」
彼の亡くなったを妻を想い、南の空を見上げるとリーベは黙祷を捧げた。
ダルの工房を後にしたリーベは街の南内門までやって来た。この外側にもう1つ門があるため常時開放されているのだが、分厚い隔壁が作る影のせいで悪魔の口のような威容を放っており、通り抜けてよいものか憚られた。
どうしたものかそわそわしてると、内門の向こうにスヴェンが横切るのが見えた。
「あ、スヴェンさん!」
呼びかけながら恐怖を忘れて駆け寄ると隔壁に差し掛かる。コツコツと靴音が反響する様は隧道のようで、リーベは不思議な心地に包まれながらも、再び光の下に飛び出した。そこには目を丸くしたスヴェンが待ち構えていた。
「あれ、リーベちゃん? 空耳かと思ったよ」
彼はふっくらとした頬を綻ばせる。
「はは、すみません」
「今日は1人なの?」
「はい。実はその、明日テルドルを出ることになって、そのご挨拶に来たんです」
「ええ⁉ そ、そうなんだ……リーベちゃんがテルドルを出るなんて、ちょっと想像できないね。はは」
「ふふ、わたしもです」
それから一瞬の間を経て、彼は感慨深そうな瞳でわたしを見据える。
「そっか……寂しくなるね」
「スヴェンさん……わたしも、テルドルの人たちに会えなくなるのが寂しいです」
「アデライドも寂しがると思うよ」
その名前を聞いた途端、リーベは愛おしい彼のことを思い、胸を痛めた。
「あの……アデライドにもお別れを言いたいんですけど……会うことって出来ますか?」
ソキウスは繊細な魔物であるからして、特別に作られた区画の中で生活している。だからリーベは会えないものだと悲観していたが、彼は「出来るよ」と快諾してくれた。
「え、いいんですか?」
「うん。ただ、いつもみたいに燥いで飛びついたりとかはしないでね? みんなびっくりしちゃうから」
「わ、わかりました……」
これから行くところにはソキウスがたくさんいるのだ。そんなもふもふ天国に行って興奮しないでというのは大変過酷なことだ。しかし、スヴェンに言われたとおり慎んでいかねばとリーベは気を引き締めた。
気持ちを引き締めたところで、リーベは彼に先導され、加工場の東方にある大きな門をくぐり、そこへやって来た。
「わあ……!」
そこにはソキウスが8頭もいた。その誰もが晴天に浮かぶ雲のような柔らかな体毛を風に靡かせ、リーベを誘惑してくる。しかし堪える! 堪える!
「ふう、ふう……!」
「はは、頑張ってるね。ところで、どれがアデライドかわかるかな?」
言われるとリーベは8頭を順繰りに見ていく。
左手前の子は凜々しい眼差しで空を見上げていて、その後ろの子は喉を鳴らさないまでも彼女を睨み、様子を窺っている。そしてその後ろの子はそのくりくりの瞳を爛々と煌めかせ、舌を垂らして「ヘッヘッ!」と人懐っこい犬にありがちな仕草をしている。
「あ、左側の3番目の子ですね?」
「正解。まあ、一目瞭然だよね」
スヴェンは笑うと相棒の下へ歩き出した。
「アデライドは好奇心が強い子でね、この中じゃ1番人懐っこいんだよ」
「へえ……なんか、アデライドを最初に見ちゃったせいで、ソキウスが人懐っこい動物に思えちゃって」
「はは、そうだろうね。でもこの子は特別だから、王都のソキウスに会った時は気をつけてね?」
「はい、気をつけます」
そうこうする内にリーベはアデライドの下へたどり着いた。
「こんにちは、アデライド」
「ウォン!」
挨拶を交わしたところで彼はその大きな顔をすり寄せてきた。例によってリーベは尖った顔に両腕を広げて抱きしめると、手先を動かして愛撫する。手のひらには絹を撫でているような滑らかな感触が伝わってきて幸せになれたが、それも今日限りなのだと思うと悲しくなった。
リーベが半歩下がると彼は不思議そうに彼女を見た。
「アデライド、今日はお別れをしに来たの」
「ウォフ?」
「わたしね、明日の朝には街を出なきゃいけないの。だからしばらくは会えないんだ」
そう告げると彼は悲しそうに鳴き、リーベにすり寄ってくる。そのいじらしい仕草にリーベは愛おしさがこみ上げてきた。
それから数十秒に渡って抱擁を交わすと2人は鼻先を突き合わせ、別れの挨拶とした。
スヴェンとアデライドに別れを告げると、今度は街の南東にある教会にやって来た。テルドルには珍しい白塗りの外壁を持ち、赤く尖った屋根を帽子のように被った建物だ。
リーベは大きな両扉の片方を開いて中に入る。するとそこには牧師のアイムの後ろ姿があった。彼はドアが開いたのに気がつくと、長い裾をゆったりと靡かせ、振り返る。
「おや、リーベさん。こんにちは」
牧師にふさわしい、優しい声だった。
「こんにちは、アイム先生」
「お爺さまに会いにいらしたのですね」
「それもそうなんですけど、アイム先生にご報告があってきました」
「おや、なんでしょう」
丸眼鏡をくいっと押し上げながら続きを促してくる。
「はい。実はわたし、 冒険者になりまして、明日の朝、テルドルを出て行くことになったんです」
「おやおや、それは寂しくなりますね」
「わたしもテルドルを離れるのは寂しいです」
「そうでしょう。人は故郷を愛するものですから」
そこまで言うと彼は深呼吸をした。すると彼を中心に厳かな空気が展開されていく。
「故郷を離れるご決断をされたのには相応の理由があるはずです。それが何であるか、私はあえて問いません。しかし、あなたの身を案じております。望みに囚われ、破滅に向かうことのないよう、お気をつけください」
「はい」
心からの返事をすると、彼はホッと一息ついた。
「お説教はこの辺にしておかないと、お爺さまとお話しする時間がなくなってしまいますね」
アイム先生は上品に笑うと裏口を示した。
「霊園にはあちらのドアから出られますので、どうぞ」
「はい。アイム先生、どうもありがとうございました。お言葉を胸に、頑張ります」
すると彼は柔和な笑みを浮かべ、リーベを送り出した。
リーベが裏口を抜けると霊園が現れる。ここには靴底ほどの高さに刈られた芝生が広がっていて、その上に墓石が等間隔に置かれていた。表面にはそれぞれの名前が刻まれていて、リーベはその中から自分の祖父母の名前が刻まれたものを探した。
「ええと……あった」
『エーアステ』という名字は珍しいからすぐにわかった。リーベは2人の墓石の前に膝を突くと両手を組み合わせる。それから目を閉じ、2人の(祖母の顔は知らないが)顔を思い浮かべ、語りかける。
「おじいちゃん、おばあちゃん。こんにちは、リーベです」
名乗ると、まるで孫を歓迎してくれているかのようにそよ風が吹いた。リーベはその心地よさに目を細めつつ、続ける。
「しばらく顔を出せないでごめんなさい。今日はおじいちゃんたちに大事なお話があって来たの。……あのね、わたし、冒険者になったの。それで明日、テルドルを出るんだ」
するとはたと風が止んだ。
「そうだよね。急にこんなこと言われてもびっくりしちゃうよね。わたしも急なことでびっくりしてるんだから」
小さく笑うと、微笑み掛けるかのようなやさしい風が吹き始める。
その温もりに包まれながらリーベは墓石を撫でた。
「……わたしね、お父さんみたいになりたいの。ただ強くなりたいって意味じゃなくて……テルドルのみんなの希望を背負えるような……そんな冒険者になりたいの。その為にわたし、王都に行くよ。いっぱい訓練して、いっぱい勉強して、いっぱい戦ってリーベは強くなるよ」
そこまで言うとリーベは立ち上がり、空を見上げた。天国なんてものが本当にあるかはわからないが、それでも、祖父母が見守ってくれているのはわかる。
なぜなら、こんなに温かいのだから。
「……おじいちゃん、おばあちゃん…………いってきます」




