105 バスタイム
着替えと入浴セットを手に彼女は街へ繰り出した。
リーベは女の子の例に漏れずお風呂が好きだが、今日に限っては入るのが億劫だった。それは空腹による部分が大きいが、重労働で体中がボロボロで動きたくないというのもある。
世の肉体労働者たちはいつもこんな思いをしているのだろうか?
だとしたら自分は、彼らに一層の敬意を払わなければならないだろう。
(……お疲れ様です)
そんなことを思っていると、彼女の鼻腔を芳香がくすぐる。
「……良い匂い……」
辺りを見回すと、いつの間にやらリーベは広場に到着していた。円形の用地の外周には今日も出店がたくさんあって、中には食品を扱っているものもある。その屋台から立ち上る芳香はケーキのような優しく甘い香りであったり、肉を炙ったワイルドな香りであったりと様々だ。
「…………」
ぐるるる……と、リーベの腹の虫が鳴く。
(どうしよう……買い食いしちゃおうかな?)
そう思い始めた時、リーベの中の悪魔が『食っちゃえ食っちゃえ!』と囃し立てる。一方で天使が『ダメだよ! お母さんがお昼を作って待ってるんだよ?』と諭してくる。
(ああ、わたしは一体どうしたら良いのだろう……)
悶々としていると、後方から聞き覚えのあるが響いてくる。
「あれ、リーベちゃん?」
振り返った先には受付嬢のサリーがいた。
いつもであれば金髪をストレートに下ろし、堅苦しい紺色の制服を纏っているのだが、今日は違った。三つ編みで、黄色のスカートにピンク色のカーディガンを合わせている。そしてその手にはリーベと同様、トートバッグと入浴セットがあった。
「あ、サリーさん。これからお風呂ですか?」
「うん。今日はオフだから、お昼から入っちゃおうかなって。リーベちゃんもお風呂――て、もしかしてカナバミスライムの解体って、もう終わったの?」
「はい。おじさんがいたからあっという間でしたよ」
すると彼女は「さすが」と頬を綻ばせた。
「いつもは丸1日か、もっと掛かるからね。そうなるとお金も掛かって、ギルドマスターは不機嫌になって困るんだ」
テルドル支部のギルドマスターは大変な倹約家として有名で、葉巻を経費で落とそうとした役員を懲戒解雇しようとした、というのは今でも語り草だ。
「じゃあおじさんがいる時に出てくれて良かったんですね」
「そうだね――と言うとロイドさんたちには申し訳ないね」
「あ、そうでした」
2人は笑い合うと、一緒に風呂屋へ向かい始めた。その足取りはリーベにとって意外なほどに軽く、空腹も気にならなかった。
収容人数数十人を誇る女湯にはたった2人しかいない。『女3人よれば姦しい』というが、この人数ではそうはならず、男湯から響いてくる声に圧倒されていた。
「アレックス! カンプフベアが嫉妬してやがるぜ!」
「ヴァールさん! あんたの筋肉はグラ・ジオール山みてえだ!」
「もうどれが泡かわかんねえよ!」
向こうはどうやらボディビル大会を開いているようだった。
(ていうかおじさんもいたんだ)
「ふふ、男湯は賑やかだね」
「この時間は冒険者が多いですからね」
女湯で真っ昼間に入浴している人がいるとしたら、サリーみたく休日の人か、あるいは老人に限られる。それはつまり、冒険者であるリーベは風呂を独占できるというわけで。彼女は自分の恵まれた境遇を喜ばずにはいられなかった。
「はあ……いい湯だな♪」
口ずさんでいると、サリーはちゃぷんと居住まいを正した。
「サリーさん?」
「リーベちゃん。冒険者になってから無理してない?」
「無理?」
首を傾げると彼女は続けた。
「実はね、女の子が冒険者業に就いて大丈夫なのかなって心配してたの」
そう告げる彼女の瞳は真剣そのもので、その心配が確かなものであると実感させられた。
冒険者とは、人類に害する魔物を直接的に排除する仕事。そんな職業柄、肉体的に優れる男性が適任とされる職業だ。そんな職業に女性の身で参じることは相応の負担を伴うことである。
しかし、リーベは身内の人間が師として就いてくれている。お陰で負担を感じることはあれど、無理を感じる事はなかった。
「心配してくれてありがとうございます。でも、おじさんたちは無理をさせてくれないので大丈夫ですよ」
「そう? なら、良いんだけど」
サリーは笑みを取り戻した。
「でも凄いよね。私、時々『自分が冒険者になったら~』って想像してみるんだけど、魔物を前にしたら竦んじゃうのに、リーベちゃんはそれとちゃんと向き合って、倒してきてるんだよ? だからリーベちゃんはとっても勇敢だと思うの」
「あ、ありがとうございます」
褒められてこそばゆい思いをしつつ、リーベはなぜ、魔物に立ち向かってこれたのか考えてみた。
「でも、いざとなればおじさんたちが護ってくれるんで、意外と怖くないですよ?」
その偉大な事実に加え、彼女は冒険者になる以前、一度、魔物と戦っている。その経験が彼女の勇気を一層のものにしてくれているのは明白である。
「そうなの? ……まあ確かに、ヴァールさんたちほどの精鋭がいてくれるならそうなのかもだけど、でもやっぱり、リーベちゃんは凄いよ。さすが、エルガーさんの娘さんだね」
勇気というのも両親から引き継げるものなのだろうか?
疑いつつも、彼女がここまで言ってくれているのだから、その可能性もあり得るだろう。
考えていると、サリーは姿勢を楽にして、目線を孤島のように湯面から突き出た膝小僧に向ける。
「私は受付嬢をやってるから、いろんな人が冒険者になって、大きな傷を負って引退する姿を見てきたの。だからね、リーベちゃんが冒険者になるって聞いたとき、本当に驚いちゃって」
「サリーさん……」
「――て、ごめんね。変なこと言っちゃって」
「いえ……わたしもそうなってしまうかもしれないんですもんね……」
『エルガーの娘だから~』が通用するのは人間界の――テルドルの中だけで、魔物がそんな事情を斟酌してやられてくれるわけではない。
リーベは物語の主人公ではなく、舞台の片隅にいるだけの人間でしかないのだから。
「…………」
黙考していると、突如としてサリーが大きな声を出す。
「ああ、ごめんね! そんな深く考えないでね!」
「あ、いえ。済みません。ちょっと眠気がして――」
嘘だが、あながち間違いでもない。肉体労働で酷使された体は休眠を欲していた。
「そうなんだ」
彼女はホッとため息をついた。
「なら長湯しないほうがいいよ。危ないから?」
「そうですね。じゃあ、お先に――」
「あ、私も上がるよ」
ざぶんと立ち上がると、男湯の方から「筋肉のスタンピードだ!」と快哉する声が響いてくる。その珍妙な言葉に2人は顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。




