7 美波
「マスター。病気でもしてるのかと思った。」
背後から突然かけられた声に、俺はビクッとして振り向いた。
地元スーパーの店内で必要なものの買い出しをしている時のことだ。振り向いた先に立っていたのは美波という少女だった。
うちのカフェにわりとよく来る常連さんである。
高浜美波。今は中学3年生。
俺がここでカフェを始めた最初の頃から常連さんになってくれて、友達なんかも連れてきてくれている。まあ、ありがたいお得意さん——と言えば、そう。
あの店の何がいいのか、ときに入り浸ってテーブルで勉強なんかしていることもある。
図書館じゃないんだけどな——と思いつつも、夏以外はどうせヒマだし、若い子が来てくれるだけでも少し気分が上向くし‥‥と、俺もそのままにしている。
ときに皿洗いを手伝ってくれることもあって、そんな時は飲み物代はタダにしていた。
なんだか居ついた野良猫みたいだな‥‥と、そんなふうにも思っている子だ。
「ずっと店閉まってるんだもん。」
「あ‥‥いや‥‥。美波ちゃん、学校は?」
「今日は土曜日だよーん。大丈夫、マスター?」
そう言って、美波は俺の買い物カゴを覗き込む。
「何? 海産物ばっかじゃん。」
「いや、これはだな。その‥‥‥」
美波ちゃんは探偵みたいな目になって俺を見上げた。
「怪し〜い。」
何が怪しいんだか。
俺は急いでるんだけどな。
「ねえ、なんで店閉めてるの?」
レジを出て駐車場に行く間も、美波は俺に話しかけてきた。
いつもなら中学生と話ができるのもいい気分転換なのだが、今は亜麻のことが気になる。
早く帰ってやらないと、また泣き出すかもしれない。
「亜麻が待ってるから。また今度ね。」
「あまって誰?」
しまった。口がすべった。
「と、とにかく急いでるの。」
「あまって、誰? 女の人?」
美波が、じと〜っと睨めあげるような目をする。
「し‥‥親戚の子ども。長く出てると泣いちゃうから。」
ふう〜ん。という顔で美波が俺を見る。
「手伝おうか? 困ってるなら。」
「いや‥‥いいよ。ひとりで大丈夫だから。」
「大丈夫じゃないじゃん。買い物も困ってるみたいじゃん。」
「いや、だから‥‥」
俺は買い出した荷物を助手席に放り込む。
「あ〜やしいんだぁ〜。やっぱ、女の人なんだ。マスター、店まで休んで〜。」
「違っ、‥‥だから‥‥。わかった。手伝ってくれ。」
俺は荷物を後部座席に移し替える。
「そのかわり。見たことは他の誰にも絶対言わないでくれよ。」
「?」
これでいいんだろうか? と俺は助手席に美波を乗せて車を走らせながらまだ迷っていた。
たしかに。手伝ってもらえれば、とても助かる。
美波ちゃんんは約束すれば口が固いのはわかっているし、土日だけでも店が開けられればずいぶんと助かる。
‥‥‥が。
「ぴい?」
と亜麻が美波を見上げ、美波は目をまん丸にした。
「こ、これ‥‥人魚の子? 本物?」
それから美波は、これまで俺が一度も見たことがないほどの笑顔で目を輝かせた。
「うわっ! かわいい!」
「ぴ?」
亜麻は美波を怖がっていないようだ。ひとまずは安心。
「ど‥‥どこで拾ったの? マスター!」
やっぱり、拾ったって思うんだ‥‥。
「渚で卵を拾ったら、その場で手の中で孵ったんだよ。」
「う〜〜〜。何それ、いい! アニメみたい〜〜〜!」
「亜麻はこの子の名前なんだ。このお姉ちゃんは美波。美波ちゃんだよ。」
俺は亜麻にも美波を紹介する。
「ちゃん?」
「あ、いや、そうじゃなくて。み・な・み。 みーなーみ。」
俺は美波を指差して、ゆっくり発音してやる。
亜麻は俺を見上げてから美波を指差して、それから真似して発音した。
「みーな。」
「しゃべるんだ?」
「まだ片言だけどね。」
美波は、もうこれ以上ないっていう笑顔になって、しかも目にちょっと涙を溜めかかっている。
「うわっ! うわあ! た、たまんない! 抱っこしていい?」
テンションがハンパない。
「たぶん。大丈夫だと思う。怖がってないから。」
美波は、そーっと手を伸ばして、高級な花瓶でも扱うように両手のひらを亜麻の脇に差し入れた。
亜麻は両手を美波の方に伸ばして笑顔になる。
「ぴい。たっかい。」
高い高いをしてもらえると思っているらしい。
美波は真剣な表情で亜麻をそっと抱き上げる。
そのまま慎重に自分の胸のところに持ってきて、抱っこした。
それからすごく嬉しそうな顔で俺を見上げる。
「マスター。‥‥あたし今、人魚の子抱っこしてんだよね?」
「た、かい?」
亜麻が少し不服そうな顔をした。
「はは。亜麻は高い高いしてもらえると思ったんだね?」
「たかいたかいって?」
「ほら、こうやって。子どもによくするだろ?」
俺は手真似をやって見せる。
「そんなに高く上げなければ、下は水だから大丈夫だよ。」
美波は恐る恐る亜麻を持ち上げた。
「た、たかいたか〜い。」
亜麻がきゃっきゃっと笑う。
2回やってから、美波は怖くなったのか、亜麻をタライの水に戻した。
亜麻は嬉しかったんだろう。ぱしゃぱしゃとタライの中を円を描いて泳ぎ回り、それからタライの縁に手をかけて美波を見上げて笑顔を見せた。
「みーな!」
「マスター! あたし、毎日来ていい?」
「だめ。」
「なんで?」
「店も開けてない独り身の30男のところに女子中学生が毎日出入りしてたら、何言われるかわからんだろ?」
「う〜〜〜〜。」
美波がしかめっ面をする。
「だったら、店開ければいいじゃん。あたしは店の入り口から堂々と入って、奥で亜麻ちゃんの面倒見てるから、マスターは店に出てればいいんだよ。ね?」
それはたしかに助かるが‥‥。
そこまで中学生に甘えてしまっていいんだろうか?
「あと、このことは絶対に内緒だからね。」
「あたしは約束したら墓場まで持ってくけど‥‥。でも、人魚がいるカフェなんて、めっちゃ流行ると思うけどなぁ。」
「うん。でもそれは、とても危険なことでもあるんだ。」
俺は亜麻の存在が明らかになった時の危険について、美波に説明した。
俺の能力ではそれに対処できないことも。
「うん。わかった。」
と美波は素直に言う。
この理解力の速さが、俺が美波ちゃんという中学生を信用する理由でもあるのだ。
「マスターとあたしだけの秘密だね。」
美波は、ニカッと笑って親指を立てた。
こんなところはやっぱりまだ中学生だ。