29 渚にて
美波が学校に行ったあと、俺は店の玄関に「本日休業」の札をぶら下げて中に戻った。
準備した亜麻の食事を持って浴室に行く。亜麻はダイニングで一緒に食べたいと言う。
俺は亜麻を抱き上げて、ビニールプールの水に脚を浸けたダイニングチェアーに亜麻を座らせた。
亜麻は昨日とは打って変わって、嬉しそうな笑顔を見せて俺の用意した焼き魚の朝食を美味しそうに食べている。
俺はふと、恋人と朝の食卓を囲んでいるような錯覚を覚えた。
いや、亜麻は‥‥俺にとって何だろう?
「亜麻。お母さんのところに行きたいんなら、ちゃんとそう言えよ? いつでも海まで連れて行ってやるから。」
亜麻はスプーンを持つ手を止めた。
「わたしは‥‥アヤトが好き。‥‥アヤトのそばにずっといたい。」
亜麻の目から涙がこぼれ始める。
「でも‥‥、わたしは海の生き物なんだ。海に‥‥帰らなきゃ‥‥。ここに居ちゃいけないんだ!」
俺は亜麻の手にそっと触れる。
「いけないことはない。亜麻がここに居たいなら、ずっと居ていいんだ。俺は迷惑なんかじゃない。」
亜麻はスプーンを置いて、その手で涙を拭った。
「缶詰、持ってっていい? これ、美味しいから。」
亜麻が明るい笑顔を作って見せる。
俺も笑顔になるけど‥‥、たぶん泣き笑いになってるな。
引き止められるなら、引き止めたい。‥‥けど、亜麻を守り通せる自信もない。
つくづく情けないやつだ。俺は‥‥。
「持てるだけ持ってったらいい。なくなったらまた取りに来いよ。買っといてやるから。」
「明日じゃなくて、今夜連れていって。」
俺が美波と一緒に明日の夜、渚まで送っていくと言うと亜麻は俺を見上げてそう言った。
「お母さんたち、もう明日くらいには南の海に移動するんだって。温かいところに‥‥。」
人魚は、渡りをするのか?
「わたし、人魚の言葉はまだほとんどわからないから、細かいことはわからないけど。」
そうか。
亜麻は日本語で育っちゃったもんな。
「明日の夕方、美波が来るって言ってたぞ? 会ってから行かないのか?」
亜麻は少し潤んだ目を俺に向ける。
「明日、また美波姉ちゃんに会っちゃったら、わたしきっと海に行けなくなっちゃうから‥‥。」
「美波が怒るぞ?」
「‥‥うん‥‥‥」
それでも、亜麻の決意は変わらないようだった。
「わたしのいるべき場所は、海だから——。」
俺は車椅子を押して夜の渚へと向かう。
車椅子から亜麻を抱き上げて、そのまま歩いて海へと入ってゆく。
腰のあたりまで浸かる深さになったとき、俺は亜麻の尻尾を水の中に下ろした。
亜麻は俺の首に手を回したまま、まだ放さない。
「サメに喰われたりなんかするなよ。」
「大丈夫。お母さんたちが安全な道を知ってるから。」
そうか‥‥。前に長く潜っていたとき、亜麻は‥‥。
亜麻は俺につかまったまま顔を沖の方に向けて、あの人魚特有の声で細く長く鳴いた。
「ぴいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ———」
ぴぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ‥‥‥‥‥‥
沖の方から遠い返事が聞こえた。
「人魚の言葉はまだよくわかんないけど‥‥この声には感情を乗せることができるの。」
そう言って亜麻は首に腕を回したまま、俺の顔を見る。
「お母さんはわたしを愛してくれていたし、ずっと探してくれてもいた。」
俺もだ。と俺は心の中だけで思う。
「わたしは幸せ者だ。アヤトに拾ってもらわなければ、わたしはきっと海鳥の餌になってた。美波姉ちゃんに会わなければ、わたしは人間社会のことも何もわからないままだった。いろんな人の愛も知ることがなかった、きっと‥‥。」
「美波が寂しがる。」
「うん‥‥。ごめん、って言っといて。落ち着いたらまた必ず会いにくるから。」
「アヤト‥‥。」
「ん?」
「育ててくれてありがとう。」
亜麻は少しうつむき加減にそう言ったあと、つと顔を上げて俺の目を見た。
そのまま顔を近づけて、目を閉じ、俺の唇にその柔らかな唇をそっと触れさせる。
それからちょっと悪戯っぽい微笑みを浮かべて顔を離した。
気づいてはいたさ。亜麻。
でも、俺とおまえは「種」が違う。
俺もおまえを愛してはいるんだ。
でも、それが、どういう種類の愛なのか‥‥俺にもよくわかっちゃいないんだ。
ただただ、亜麻に健やかで幸せであってほしいという気持ちだけは何も変わってはいない。あの卵から孵ったおまえを見た時から——。
「いつでも帰ってきていいんだからな。」
「うん。」
亜麻ははらりと俺の首から腕をほどき、水中の尻尾の先で俺の足を叩いた。
そのまま、すうぅ、と後ろ向きに上体を離してゆく。
それから、ばしゃん! と尻尾をひるがえして、くらい波の奥へと消えていった。
沖の方でもう一度、あの人魚特有の声が聞こえた。
俺も向きを変えて渚へ向かって歩く。波に揺られながら、岸へと歩く。
水深が浅くなると、俺の2本の足が波の上に現れてきた。
俺は波打ち際から砂浜へと上がり、空になった車椅子を押して誰もいない店を目指す。
顔を上げれば、灯りの点いた店の窓が見えた。
もう俺以外誰もいない店。
でも‥‥。
美波の笑顔が浮かぶ。
高浜夫妻の、山田さんの顔が浮かぶ。
そうだな‥‥。
と俺は思う。
この町に住んで、あの店で、亜麻が子どもを連れて帰ってくるのを待つ‥‥。
そんな暮らしも、いいかもしれないな。
了
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
人魚を『成層圏のセイレーン』のような妖精や魔性としてではなく、実在する生物として設定して描いてみました。
そういう意味で、これはファンタジーではなくジャンルSFなんです。
いかがでしたでしょう。
そして‥‥少しばかりの「謎」が残ったのではないでしょうか。
本編に書かれなかったそれは、いずれ「後日譚」で‥‥。




