28 海の生き物
「亜麻?」
そう呼んだ自分の声で目が覚めた。
夢か‥‥
俺の願望か‥‥。
俺は自嘲気味に苦笑いを浮かべる。
いや、違う‥‥。目が覚めたのはどうやら物音がしたせいのようだ。1階で何か音が聞こえる。
ドロボー?
亜麻! 亜麻が、危ない!
俺は急いで明かりをつけて階段を駆け下りた。
怪しい人影はなかったが、浴室を見ると亜麻がいない。
「亜麻!」
ダイニングのプールから玄関に向かって濡れた跡が続いている。
玄関の扉が、半分開いている。
「亜麻!」
俺は裸足で外に飛び出した。駐車場の砂利が足の裏に痛い。
見渡すと、その駐車場を這って海に向かおうとしている亜麻の後ろ姿が見えた。
「亜麻! 何やってるんだ!」
俺は駆け寄って亜麻を抱き起こす。
亜麻の体は地上を移動するようにはできていない。腹ばいになって進もうとしていたせいか、鱗の一部が傷ついているように見えた。
「亜麻。怪我してるのか?」
「してない!」
亜麻は俺の首に、ぎゅっと抱きついてきた。
「海に行きたいなら俺に言えば‥‥」
「行かない! お風呂場に連れてって!」
俺は亜麻を抱きかかえて家に向かう。
亜麻がしがみついているので足元が見えず、俺は足で障害物を探りながら亜麻を浴室まで運んだ。
浴槽に亜麻を下ろして部屋の明かりを点ける。
亜麻は、くるっと向きを変えて浴槽の縁に顔を突っ伏した。
「大丈夫か?」
「大丈夫。」
「砂利で怪我したんじゃないか?」
「怪我なんかしてない。」
でも、たしか、星あかりだったけど‥‥鱗に引っかき傷があったように見えた。
「化膿するといけないから、見せてごらん? 人間の薬が効くかどうかわからないけど。」
「やだ! 怪我なんかしてないもん!」
俺は困った。
亜麻の体は心配だけど、亜麻がなぜ今、こんなに精神的に不安定になっているのかがわからないのだ。
美波がいてくれたら‥‥
俺は浴槽の縁にもたれるように座って、亜麻の髪をそっと撫でる。
「今夜はここにいてもいいか?」
「うん。」
‥‥‥‥
「ごめん‥‥なさい。アヤト。」
「いいんだ。」
ここは亜麻の家なんだからな。 そう言おうとして、俺はその言葉を喉元で止めた。
「ぴいるるる‥‥」
亜麻がひと声だけ、歌うように鳴いた。
結局、うつらうつらしただけで眠れない夜明けを迎えた俺は、突っ伏したまま眠っている亜麻のそばを離れ、美波に昨夜あったことのあらましだけをメールで送った。
『学校が終わってから相談に乗ってほしい』
キキイィ! ガシャン!
乱暴に自転車を乗り付ける音がして、まだ6時半前だというのに制服姿の美波が飛び込んできた。
「亜麻、怪我したって?」
「いや夜だったし、そんなふうに見えただけなんだが‥‥。亜麻が見せてくれないんだ。発熱はしてないみたいだけど‥‥」
「美波姉ちゃん?」
浴室では亜麻が目を覚ましていた。
「亜麻。怪我したのか?」
「し‥‥してない。」
亜麻が頬を赤らめる。
美波が、はは〜ん、というような顔をして、片手で俺を追い払うような仕草をした。
「マスターは店の支度でもしとりん。」
俺が店のキッチンでトーストと亜麻の食事の支度をしていると、美波が妙な顔をして店の方にやってきた。
「大丈夫。亜麻は怪我なんかしてなかったよ。」
「そ‥‥それならよかったが‥‥。亜麻は、その、なんで昨日あんなことしたのか‥‥何か言ってたか?」
女の子同士でないと話しにくいこともあるのかもしれない、と思って俺は美波に聞いてみる。
美波はちょっと鼻だけでため息をつくような息をして、視線を窓の外にやったまま、その答えになっていないようなことを言った。
「亜麻は‥‥海に帰った方がいいのかもしれないな。ちょっと寂しいけど‥‥ここには、いつでも遊びに来ればいいんだから‥‥」
それから美波は、俺の方を見て表情を明るくした。
「今夜は塾で来れないけど、明日また来るよ。」
次回‥‥。 最終回です。




