26 遠くからの呼び声
翌日、美波はバイトに出てくるなり、ちょっと照れたような気まずいような笑顔を見せて俺に言った。
「マスター。昨日はごめん!‥‥なさい。なんてーか、その‥‥」
だから俺もやや冗談めかすように応えた。
「3年かけてゆっくり考えとくわ。その前に美波、お前の当面の課題は高校受験だろ?」
「う゛‥‥」
「高校も受かんないようなやつ、相手にする気ないからな。」
「げっ。」
亜麻は‥‥。どうしたいんだろう?
その日の夜。
亜麻の散歩に美波もついてきた。
亜麻は初めのうち岸近くを泳ぎ回っていたが、やがて、ちゃぷん、と波の下に潜るとしばらく水面に顔を出さなくなった。
いつもより長い。もう10分以上、水面に顔を出さない。
俺が少し不安になり始めた頃、俺と美波が立っている磯のすぐ近くに亜麻は顔を出した。
すうぅー、と寄ってくると、いつものように俺の方に両手を伸ばして
「抱っこ。」
と言う。
その表情に、いつもと微妙に違う何かを感じたのは俺の錯覚だろうか。
俺はその「抱っこ」の意味を美波がどう受け止めているのか気になって、ちらと横目で美波の顔を見る。
美波はいつもどおりの笑顔でいた。
俺は水に足を入れて亜麻を抱き上げる。
もう子どもの時のようには抱っこできないから、お姫様抱っこだ。
亜麻は俺の首に腕を回す。それが今日は少し力が入っていて、なんだかしがみつくような感じがした。
水から上がった俺を、美波が何か満足げな顔で見ている。
俺は亜麻を車椅子に乗せて、バスタオルをかける。
「あたしが押す!」
と、美波が車椅子を押し始めた。
こんな時間に珍しく走ってきた車を1台やり過ごして、県道を渡る。
波の音以外、何も聞こえない。
「さっきの、絵になってたね。」
住宅の方の玄関の前で、美波が言った。
「亜麻にウエディングドレス着せてみたくなっちゃった。」
「み‥‥美波姉ちゃん!」
俺は苦笑いする。
やっぱりまだ中学生だな。
それは、ファンタジーな絵柄ではあるけれど‥‥。それだけだよ。
亜麻を浴槽に下ろし、美波を家まで車で送って店の駐車場に戻り、キーのボタンでドアにロックをかける。
ハザードランプが点滅して、さて家に入ろうとした時、潮風に乗ってその音が聞こえてきた。
ぴぃぃぃぃぃぃぃ‥‥‥ぃぃぃぃぃ‥‥‥‥
沖の方からだ。
これは‥‥‥
亜麻のではない。
母親が来ているのか?
俺は大急ぎで家に入り、浴室に行く。
亜麻は浴槽の縁に肘を乗せて、開け放った窓から真っ暗な海を見ていた。
あの声は、もう聞こえていない。
「亜麻?」
俺の呼びかけに亜麻はびくっとしたように肩をすくめ、こちらをふり向いた。
その目に怯えとも哀しみともつかない色が混じっている。
「お母さんが来てるのか‥‥?」
亜麻は何も答えずに、浴槽の縁の上で組んだ腕の上にそっと顎を乗せた。
俺も、次にかける言葉を見つけられない。
俺は浴槽に寄り添うようにしゃがんで、左手で亜麻の柔らかな髪をそっと撫でる。
亜麻が少しだけ口の端をあげた。
小さな窓から外を見る。
海は黒々として、波の音だけが、くりかえし、くりかえし聞こえていた。
「亜麻が‥‥決めていいんだからな?」
俺はようやくそれだけを言うことができた。
亜麻が俺の首に腕を巻きつけ、ぎゅっとしがみついてきた。
「アヤト!」
俺も体をにじらせ、亜麻の背中に腕を回す。
それだけだ。
それだけ‥‥‥




