22 恩返し
「わしの家は代々漁師でな。」
山田さんはダイニングテーブルの椅子にどっこいしょと座ると、亜麻の方に少し体を向けてテーブルに片肘を乗せた。
俺は山田さんにお茶も出していなかったことに気づき、慌てて冷蔵庫からピッチャーを取り出す。
水出しにして冷やしてあったルイボス茶をテーブルに並べたコップに注いだ。
「人魚の子も飲むのかね?」
山田さんがそう聞いたのは、コップが3つあったからだ。
「大人がやってることを真似したがるんです。飲んだり食べたりできないものもありますが、このお茶は飲めるようです。
亜麻。こっちに来るか? それとも持って行こうか?」
亜麻はするするっとテントから出てきたが、まだ近づくのは躊躇っている。
無条件で愛嬌をふりまいていた小さい頃とは、最近は少し変わってきている。
俺は亜麻のいるところまでコップを持って行って、亜麻に手渡した。亜麻はコップを持ったまま腹ばいからくるっと器用に向きを変え、プールの淵に背中を預けた。
そのまま、ちびっとお茶を口に含んで山田さんを見ている。
「あまちゃんというのか。ええ名前じゃん。どんな字を書くんだや? 海の人かな?」
「いえ、そっちじゃなく、髪の色にちなんで亜麻色の亜麻です。響きは意識してますが。」
「ほうか。ほういや祖父さんも、髪の毛は栗色じゃったと言っとったな‥‥。」
そう言ってから山田さんはお茶を一口飲んで、お祖父さんの不思議な体験談を話し始めた。
ー ー ー
祖父さんが人魚を見たというのは戦前の話だ。
当時の船は今みたいに安定のいい立派なもんじゃなくて、発動機は付いとったがそれこそ板子一枚下は地獄というものだった。
その日は面白いように魚が獲れて、気をよくした祖父さんはつい帰るのが遅くなっちまったと言っとった。
海が荒れ出して、こりゃあまずい、と岸を目指して急ぐうち、横波をくらって船が転覆しちまったそうだ。
泡食ってひっくり返った船にしがみつこうとしたが、波に阻まれて離れてしまったらしい。
今みたいに救命胴衣を着けとるわけだないで、あっという間に波に呑まれて息ができんようになった。
気が遠くなって、こりゃあもう死ぬ‥‥と思った頃、目の前にきれいな女人が現れた。
祖父さんの言っとる話だで?
そこから先は夢うつつのような感じだったらしいが、気がつくと顔が波の上に出ておって誰かに両脇を抱えられるようにして、えらいスピードで波を切って進んでおったという。
脇を見ると、きれいな女人が2人して祖父さんの腕を抱えてな、猛烈な速さで泳いでおったんだと。
泳いでおったと祖父さんが思ったのは、時おり波の間に魚の尻尾が跳ねたからだ。
よく見ると、2人の美女は腰から下が魚だった。祖父さんは、これが挿絵で見た人魚というものか——と思ったそうだ。
人魚たちは、何か美しい歌を歌っているようだった。と祖父さんは言っとった。
ようだった——というのは、その時は祖父さんは頭がぼうっとしておって、意識がとびとびだったらしいんだ。
人魚たちは祖父さんを安全な砂浜の波打ち際近くまで引っ張ってくると、そのまま尻尾を翻して海に戻っていった。
祖父さんはふらふらの体を起こして海の方を見たが、その時にはもう人魚の姿はどこにも見えなんだそうだ。
祖父さんは浜に這い上がったあと、また気を失ってしまった。
村の漁師仲間は海が荒れても戻って来ん祖父さんを「こりゃあ沈んだな」と思っていたから、浜で見つけたときには「なんちゅう運の強いやつだ」と思ったということだ。
祖父さんは人魚に助けられたと言ったが、「死にかかって幻覚を見たんだ。助平だからだ」と言って笑われたそうだ。
それ以来、祖父さんはこの話は他人にはしなかったらしい。
祖父さんはそれを、わしにだけ話してくれた。
自分は死ぬ前に恩を返せんかもしれん。——だから、もしおまえが海で人魚に会ったら、この恩を何かの形で返してくれ——。祖父さんは孫のわしが漁師になると決めたとき、そう言ったんだ。
祖父さんが海でその経験をした後、親父が生まれ、わしが生まれたわけだから、もし祖父さんが人魚に助けられていなければ、わしもここにはおらんわけだ。
ー ー ー
「だから、白砂さん。あんた、わしの代わりに恩返ししてくれたことになる。ありがとうな。」
いつの間にか、亜麻がテーブルのすぐそばまで来て、山田さんを見上げて熱心に話を聞いていた。
「ほう。じいじにも懐いてくれたか?」
そう言って山田さんが亜麻の頭を撫でると、亜麻はにこっと笑った。
「その人は、亜麻のおかあさん?」
「しゃ‥‥しゃべるんか?」
山田さんはまた目をまん丸に見開いた。
「しゃべりますよ。ほら、亜麻。まだご挨拶もしてないだろ? 大家さんの山田さんだよ。」
亜麻は「いけね!」という顔をして、慌てて言った。
「こんにちは! おおやさん。‥‥やまださん。‥‥どっち?」
通し番号ひとつ間違えていました。m(_ _)m




