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渚にて  作者: Aju
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2 亜麻

 人魚の赤ん坊は、お腹がくちくなると、とろん、とした目になり、くるりと仰向けになってラッコみたいに水面に浮かぶと、スピ、スピ、と小さな寝息をたて始めた。


 やっぱり肺呼吸なのか‥‥。

 すると、赤ん坊のうちからでもずいぶんと長く息を止めていられるんだな。

 俺は小さな命の安心しきったような寝顔を見ながら、そんなことを考えていた。


 人魚——という生物が実在するなどという報告はないし、当然、その生態なんて何もわからない。

 あるのは世界中にある民間伝承だけだ。

 海の泡から生まれるとか、美しい歌声で船乗りを海に引き込むとか‥‥。

 世界中に人魚伝説はあるが、何を食べてどんなところに棲んでいるのかなどという記録などはない。

 そもそも人魚というのは人間の想像上の産物としての精霊、または妖怪で、実際の生物としては存在しないのだ。

 それが、現代の科学が教えるところである——はずだった。

 だとすれば俺は今、人魚という生物を世界で初めて発見した人間‥‥ということになるのかもしれない。


 が、俺はそんな栄誉が欲しいなどとは、これっぽっちも思わない。

 目の前に今、俺を100%信頼してすやすやと眠る小さな命があり、それを守ってやらなきゃ——という思いだけが泉のように湧き上がり続けていた。


 とりあえずはミルクを飲んでくれることはわかった。

 いろんな絵で見る限り、人魚にはおっぱいがある。ということは、哺乳動物であるということだ。

 10時になって町のスーパーが開いたら、粉ミルクと哺乳瓶を買ってこよう。

 哺乳瓶はくわえられないかな? この大きさじゃ‥‥。


 あと、バケツとタライも買ってこなきゃ。

 大きくなってくるんだろうから、いつまでも片手鍋ってわけにはいくまい。

 どのくらいの大きさになるんだろう?

 絵本で見るみたいに、人間くらいの大きさになるんだろうか? それとも実際には、もっと小さいんだろうか?

 どのくらいの大きさになったら、海に帰せるんだろう?

 いや、そもそも、海に帰して生きていけるのか、この子?

 親や群れがどこにいるのかもわからないのに‥‥。

 あ‥‥。

 そもそも人魚って、群れで生きるんだろうか‥‥?


 何もわからない。


 俺はもう一度、眠っている人魚の赤ん坊を見た。

 あれ?

 さっきより少し大きくなってないか?


 いや、いくらなんでも‥‥。(笑)

 ミルク1回飲んだだけで。

 勘違いだろう。


 そう思って見ていて、俺はあることを発見した。

 すやすや眠る赤ん坊の腰のあたり、ちょうど鱗が生え始めるあたりの両脇腹に、縦に3本の小さな亀裂があって、それが小さく開いたり閉じたりしている。


 (えら)もあるのか!


 つまり、肺でも鰓でも呼吸できる!

 水陸両用ってわけだ。

 なるほど。そういう生き物なんだ‥‥。



 9時頃に赤ん坊は再び目を覚ました。


「ぴい。 ぴい。」

 と俺を見て鳴く。


 俺はぬるま湯で薄めたコーヒー用のミルクをスポイトで与える。

 人魚の赤ん坊は、ぺちっ、と小さな手でスポイトを挟み、その先端をくわえる。


「んく。 んく。」


 さっきより飲むスピードが速い。

 瞬く間にマグカップ1杯のミルクを飲み干してしまった。


「ぴい。」


 満足そうに目をトロンとさせる。

 そのまま、またラッコ状態になって、スピ、スピ、と小さな寝息をたて始めた。


 どうしようもなく、かわいい。

 そうだ。名前をつけてやろう。と俺は思った。

 人魚の知能がどのくらいあるのかわからないが、名前を呼んだら寄ってくるくらいにはなるんじゃないか。

 その時、俺はその程度にしか考えていなかった。


 亜麻——。

 という名前にすることにした。

 髪の色が亜麻色であることと、海人(あま)の響きをかけたのだ。

 我ながら、いいネーミングだと思った。


 名前をつけたら、この子の存在がさらに愛おしいものになった。

「亜麻。」と小さく呼んでみる。

 亜麻は変わらずに小さな寝息をたてている。

 (はた)から見たら、30男がきもっ! て思うかもしれないな。と俺は苦笑いしながら、亜麻の眠る鍋を洗面所のボウルの上において、排水溝のフタを閉じて鍋のまわりに少し水を張った。その上から蠅帳(はいちょう)をかぶせる。

 もうすぐ10時になるから、今のうちにスーパーに行って必要なものを買ってこようと思うのだ。

 たぶんまだ大丈夫だとは思うが、この準備はもし亜麻が意外に力強く跳ねて鍋の外に出てしまった場合の用心である。


 できるだけ早く帰ってきたいから、俺は大急ぎで店の入り口に「本日休業」の札を掛け、車で中心部のスーパーへと走った。

 

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