16 おかあさん
美波の家は地元で中堅の水産加工会社を経営している。
まあ、言い方によっては美波は「社長令嬢」ということになるわけだ。
あの美波が? と笑えてくるが——。
水産加工会社、というが、平たくいえば干物屋さんだ。帆星さんは3代目になる。
帆星さんのお祖父さんにあたる初代は元は漁師で、戦後すぐにこの会社を立ち上げた。
初めは獲った魚を天日干しして売るだけだったが、夫を戦争で亡くして女手一つで子どもを養うため行商などして歩く地元の女性たちのために作業場を設け、雇用を増やしていった。
それが、高浜水産(株)の前身であるという。
面倒見がいいのは代々の遺伝子らしい。
パートのおばちゃんにケアマネージャーとしても働いている人がいるということで、そのツテで介護用品レンタルの店から車椅子を1台、会社の備品として借りてくれた。
翌日から、美波は公明正大に登校前の早朝に店にやってくるようになった。
ただし‥‥
にっこにこの顔でやって来る美波にくっついて、美雪さんまで来るようになった。
「なんだか、本当に何もかもお世話になってしまって‥‥」
「とんでもありません。わたしが亜麻ちゃんに会いたいだけですからぁ。」
「あたしのが先なんだからね。お母さん?」
「はいはい。」
そう言いながらも、美波は抱っこして海まで連れて行く権利を美雪さんに譲った。
亜麻も昨日の夕方の遊びで、すっかり美雪さんたちにも慣れたようだった。
「あんまり大きな声で騒ぐなよ。」
一応は注意するが、そこは子どもだ。きゃいきゃいはしゃぐ声は抑えられない。
亜麻がものすごい勢いで海の中を泳ぎ回り、海底で見つけたきれいな貝殻なんかを美波に見せてはしゃいでいる。
「今日の午後には車椅子が来ますから、また午後にわたしが車で運んできますわね。」
美雪さんも足だけ水に浸かりながら、嬉しそうにふり向く。
そのうち亜麻が大きなカニを捕まえてきて俺に見せにきた。
タカアシガニっていうのか? 甲羅が亜麻の顔ほどもありそうなやつだ。
よくこんなもの捕まえてくるな。どこまで潜ってるんだ?
「大丈夫か? そんなの持って。挟まれたら大変だぞ?」
「だいじょうぶだよ。ここ持てば、はさめないから!」
亜麻はどんどん成長している。
体は少し小さいけれど、上半身の見た感じはもう小学校の4〜5年生‥‥という感じだ。
このまま、このスピードで成長していったら‥‥‥
そして、このスピードで年をとってしまうとしたら‥‥‥
俺はその不安を隅に押しやろうとするが‥‥。そう思うほど、腹の下の方から胃のあたりへとそれは這い上がってくる。
親より先に死ぬんじゃないぞ? 親じゃないけど‥‥‥
亜麻には幸せになってほしい。それには、海に帰した方がいいんだろうか? それとも‥‥。
「本当に海人として会社で働いてもらえそうね。」
そう言って美雪さんは、手で口元を押さえながら笑った。
美雪さんの言葉で、俺は今の現実に引き戻される。
そうか。
亜麻が家から海を泳いで高浜水産に通勤する‥‥?
そんな未来もあるのかもしれないな‥‥と俺はふと頬がゆるんだ。
不安じゃなくて、今をよく見ろ。
亜麻は美波と戯れて幸せそうじゃないか。
その日の夜、美波が帰って俺も店の片付けを終えて浴室に行くと、亜麻は浴槽のふちに肘を乗せてじっと窓から海を見ていた。
その表情に、どこか子どもらしくない寂しげな空気をまとっている。
「どうした? 亜麻。」
ん? という表情で、亜麻がふり向いた。
「亜麻の、おかあさんはどこにいるのかな‥‥。」




