13 浸透圧
俺は毎朝、夜明け前に亜麻を連れて磯へと行く。もちろん、美波もほぼ毎日やってくる。
「親は変に思ったりしないのか?」
「部活だって言ってあるから大丈夫。土日と夕方のバイトのことは、ちゃんと言ってあるし。」
美波は嬉しそうに亜麻を抱っこして磯へと向かう。
最近美波はスカートの下に体操服の短パンみたいなものをはいてくる。ビーチサンダルも持ってきて俺のところに置いてある。
亜麻を連れて行くときは、スカートは脱いでしまってビーチサンダルをはいて、磯では水の中に足だけ入れて亜麻と戯れている。
まるで年の離れた姉妹みたいだ。
美波が来ない日は、俺が亜麻を抱っこして磯まで連れて行く。
もちろん、俺も短パンにビーチサンダルといういでたちだ。
亜麻はずいぶん重くなった。成長している。
磯で、自分で海苔や海藻を採取して食べることも関係しているかもしれなかった。相変わらず小魚は捕まえられない。
網を買ってきて与えてみると、何匹か捕まえることができて満面の笑顔になって俺に見せた。
しかし、しばらくそれを眺めていてから、亜麻は網を水の中に戻して魚を逃してしまった。
「それは食べないの?」
俺が聞くと、亜麻はちょっと困った顔をした。
「お魚さん、苦しそうなんだもん。」
「そっか。亜麻は優しいね。」
俺は亜麻を抱っこしてやる。
すでにこの子は「野生」ではない‥‥。
魚を食べないわけではない。
スーパーで買ってきた小魚をすり身にしたものや、焼き魚なんかも亜麻は美味しそうに食べた。
肉は食べなくはなかったが、好きではなさそうだった。動物性タンパク質は当面これでいくしかなさそうだ。
育ち盛りなんだから、海藻だけっていうわけにはいかないだろう。
亜麻はすっかり文明人になってしまっている。いや、文明人魚か——。
日本語を話して、俺たちの生活にすっかり馴染んでいる。
これで海に帰れるんだろうか? 帰していいんだろうか?
このままずっと、俺んとこにいるか?
それは、とても甘美なイメージだった。
現実的な諸問題を考えさえしなければ‥‥。
美波は亜麻と遊んだあと、塩を洗い落とすため足をシャワーで洗ってからスカートをはいて学校へ行く。
もちろんお湯は使わない。シャワーは水だ。お湯はぬるいものでも亜麻が熱がるからだ。
「魚は人間の手の上でも長く乗せてると火傷することもあるんだって。」
どこで仕入れてきた知識か、美波はそんなことを言った。
「あまは大丈夫だよ? みなみ姉ちゃんの手も、アヤトの手もあったかいだけ。」
一度、体温計で計ってみたら、亜麻の体温は30度くらいだった。
人間の体温との差は6度ほどあるが、火傷するというほどではないのだろう。
以前試したぬるま湯も36〜37度くらいだったと思うが、全身浸かるのは嫌なのかもしれない。
時々、美波が亜麻にシャワーの水をかけてふざけている。
亜麻も嬉しそうにそれを受けて喜んでいる。
俺はふとあることを思いついて、タライに水道の水を張ってみた。
亜麻はそれを興味深げに眺めている。
「亜麻。ちょっとこっちに入ってみるか? 海水じゃない水。」
シャワーの水が平気なら、真水であっても大丈夫かもしれない。
俺は海で卵を拾ったから、海水でなければダメだと思い込んでいたが‥‥。
真水のシャワーを浴びても平気ではしゃいでいたのなら、鮭や鮎みたいに両方大丈夫なのかもしれない。
魚と温度に関する美波の知識を聞いてから、俺は俺なりに魚についても調べてみた。その結果、淡水魚と海水魚の違いは腎臓があるかないかだということがわかった。
生物の細胞の塩分濃度は海水よりもうすく、淡水よりは濃い。そこに「浸透圧」というものが働くのだそうだ。
だから海水に棲む魚は皮膚を通して体内の水分が外へ出ていく。その時に人間の尿にあたる体内の老廃物を一緒に外に出すから、腎臓がない。
一方、淡水魚はそれが起きないので腎臓があるのだそうだ。
だから、海の魚は川のような淡水に入ることができず、川の魚は海に出ることができないものが多い。
中には鮭や鮎のように海に出て成長し、川を遡って産卵するものもあるが。
亜麻はどうなんだろう?
腎臓はあるのだろうか?
人体について、その内部や内臓が詳しくわかっているのは、過去にそれを解剖した——という歴史があるからだ。
人魚を解剖‥‥。俺はそのイメージに、思わず体がぶるっと震えた。
「具合悪くなったら、すぐ言うんだぞ?」
俺は亜麻を抱っこしてタライの方に入れてみた。
亜麻は、尻尾だけ浸かるような形でタライの縁を手で持ち、面白そうに眺めまわした。
「ちょっと前まで、あたしこんな狭いところにいたんだね。」
とりたてて亜麻に異変は起きなかった。