1 人魚の卵
波打ち際で奇妙なものを見つけたのは、早朝の渚を散歩していた時だった。
俺、白砂綾人はこの浜の道路を挟んだ向かいにあるカフェのマスターをやっている。
マスターといっても店のオーナーは別にいて、俺は30代脱サラの住み込み雇われマスターでしかない。
3年付き合って入籍直前まで行きかけた彼女と別れることになり、都会生活が何もかも嫌になった俺は、会社を辞めてこんな田舎の海辺に逃げてきた。
人生の選択としては、あまりいい選択じゃない。
シーズン中は賑わうビーチも、オフの今はほとんど観光客なんかいない寒々としたただの砂浜だ。
それでも週末にはやって来る少数のサーファーや、早春の海を見にくるカップルなんかを相手に店を開けているわけで、短くした営業時間も含めて今はすこぶる暇なのだ。
当然、年間を通して食べていけるような収入ではなく、わずかな退職金や会社員時代の預金(結婚資金にしようと思っていた)で当面はどうにかなるとしても、いつまでも続けられる生活じゃない。
それは、わかってはいるんだ。
いずれまた、都会で戦う生活に戻るんだろう。
——と思いながらも、今はまだ‥‥と朝日が昇る前の紫色の空と水平線を眺めながら渚を散歩するのが日課のようになっていた。
それは打ち寄せる波に洗われながら、ころころと砂の上を転がっていた。
テニスボールくらいの白い球体だ。
子供のおもちゃでも捨てていったか?
困ったものだ。
海洋プラスチック問題について最近はよく言われるようになってはきたが、それでも自分ごととして考えない人も多い。
第一、ゴミが落ちていては浜を商売のタネにしている者にとってはマイナスでしかない。
俺はため息まじりにそれを拾った。
が、それはプラスチックのボールなんかではなかった。
重い。
中にみっちり水が詰まっているみたいだ。
どこにも継ぎ目も見当たらない。
完全な球体で、石でもプラスチックでもなく、真っ白で‥‥。
そう。
強いて言えば、何かの卵のような‥‥。
何の卵?
こんなデカい‥‥。
ウミガメはもっと小さいし、海鳥だってこんな大きな、しかもまん丸の卵を生むやつなんて知らない。
重いが、殻は決して丈夫そうではなく‥‥。
俺は光に透かしてみようと空に向けてかざしてみたが、夜明けの弱い光で透けるわけもなく、ただ黒いシルエットになっただけだった。
何だろう?
と俺が手のひらに乗せて眺めていると、それにピシッとヒビが入った。
ヒビは、ぴ、ぴ、ぴっ、と広がり、ヒビの一部がつながって歪な五角形の形になった殻がぽんと外に押し出される。
そこから、小指の先くらいの小さな握りこぶしが突き出された。反対側のこぶしも同じように突き出される。
それから、殻が真っ二つに割れて俺の手のひらから少量の粘っこい液体と共に滑り落ちると、中から赤ちゃんが現れた。
赤ちゃんだ。
その顔は、紛れもなく。
しかし‥‥。
足があるべきその場所は‥‥魚の尻尾だった。
人魚?
人魚の赤ちゃん?
手のひらサイズの‥‥?
「ぴ。」
とその子が鳴いた。
俺の手の上に残った殻の半分の中で、もごもごと体を動かし‥‥、それから、パチリと目を開いた。
黒目がちなつぶらな瞳で俺を見つめる。
どきりとするほど、真っ直ぐで穢れのない瞳。
「ぴい。」
魚のしっぽを、ぴちぴちと動かす。
俺は慌てた。
水!
海の水!
俺は両手でその子をすくうように持ったまま、その手を打ち寄せる波に浸けた。
「ぴ。 ぴ。」
その子はしっぽをぴちぴち振るが、うまく泳げるわけではない。
波は静かだが、その静かな波の揺れの中でもその子は体の向きさえ整えられず、波に揺られてくるくると回った。
頭の上で海鳥の鳴き声が聞こえる。
俺はその人魚の赤ちゃんを、もう一度両手ですくいあげた。
このまま海に帰しても、すぐに海鳥の餌食になってしまうだけだろう。
「ぴ。」
その子はまたつぶらな瞳で俺を見た。
その目には安堵が現れている。
鳥のヒナが卵からかえって最初に見たものを親だと思うように、この子は俺を親だと認識したのだろうか。
置いていくわけにはいかない。
‥‥‥が
いや、そもそも‥‥。
人魚は鰓呼吸なのか、肺呼吸なのか?
生まれてすぐ、水の中に浸けて大丈夫なものなのか?
それとも水の中でなければいけないものなのか?
想像の産物とされてきた人魚に、生物学的なデータはない。
どうしよう?
近くに親らしきものはいないし‥‥。
「ぴ。」
赤ん坊はパタパタとしっぽを振る。
俺は手を波に浸したまま、あたりを見回した。
バケツのようなものは落ちていない。
毎日俺が暇に任せて拾っているからな‥‥。
少し離れたところに、砂に半分埋もれたビニール袋を見つけた。
俺はそれに海水を半分くらいまで入れて、その中に人魚の赤ちゃんを入れてみた。
その子はまだ姿勢をうまく保てないらしく、くるんくるんと水面のあたりで回っている。
顔が水に浸かってしまってもまるで平気なようで、目を開けたままビニール袋を通してこちらを見ているかと思えば、仰向けになって水から首を上げて俺を見たりしている。
「ぴい。」
水の中でも外でも平気らしい。
‥‥が、あごや首まわりのどこを見ても鰓のようなものは見えない。
俺はとりあえず、ビニール袋の口を開けたまま両手でつかんで、こぼさないよう、転ばないように慎重に店の方に向かって歩き出した。
口を閉じて、空気が入らなくなったらマズいかも、と思ったからだ。
店に着いて器になるものを探してみたが、バケツすらない。
両手でビニール袋を持ったまま俺はうろうろとしたあげく、調理用の片手鍋にビニール袋ごと入れて、袋の口を鍋の外へとめくり曲げた。
「ぴ。」
赤ん坊はさっきより上手に体の向きを維持できるようになっていた。
この速さは、やはり野生だからだろうか。
ぱちゃぱちゃと手としっぽを動かして、俺を見上げている。
「ぴ。」
改めてよく見ると‥‥‥
かわいい。
髪はまだ産毛のようだが、それは黒くはなく、茶色‥‥? 亜麻色、というのだろうか。
光の加減で、いろんな色に見えた。
顔や頬のどこにも鰓のような穴は見つからず、上半身は人間の赤ん坊と何の変わりもない。
手のひらサイズの大きさ、というのを除けば。
そして、お腹から下は、やや青みがかった銀色の鱗のついた魚の尻尾そのものだった。
ただよく見ると、尾鰭の向きが魚のそれではなく、哺乳類であるイルカのそれだった。
「ぴい。」
そうだ。
餌は何をやれば?
生まれたばかりだから、ミルクだろうか?
いや粉ミルクなんかここには‥‥。
あ、そうだ。
コーヒー用のミルクがあった。
俺は急いでお湯を沸かし、それをミネラルウォーターでぬるま湯にしてそれでコーヒー用のミルクを薄めた。
それをスポイトで吸い取って、赤ん坊の口の近くに持っていってみる。
赤ん坊は、ふんふんと匂いを嗅いでいたが、あむっ、とスポイトの先をくわえると、んく、んく、と飲みはじめた。
よし! いいぞ。
俺は赤ん坊の飲む速度に合わせて、ゆっくりとミルクを押し出してやる。
スポイトの中身はすぐカラになった。
カップから次のミルクを吸い取るために、俺はスポイトの先を赤ん坊の口から、ちゅぷ、と抜く。
「んぴ。」
赤ん坊が泣きそうな顔になる。
「はいはい、今すぐ次のあげるからね。待っててね。」
俺は急いでミルクを吸い取り、スポイトの先を赤ん坊の口の近くに持ってゆく。
「ぴ。」
赤ん坊は小さな手でスポイトをぺたっと挟み、その先に食いついた。
か、かわいい!