09.生まれた感情
「いや……なんでついてこれるんだよ……」
北の砦に馬を走らせながら、マテウスはぼやく。
その横にはシルヴィアがぴったりと馬をつけて走っていた。
「あら、乗馬は淑女の嗜みですわ。花嫁修業の一環ですもの」
シルヴィアは微笑みながら答えた。
だが、その速さや技量は明らかに一般的な令嬢とは異なっている。鍛えているマテウスが舌を巻くほどだ。
もっとも、その気になればシルヴィアはもっと高速で移動できる。
ただ、砦で傷ついた人々のために魔力を残しておきたいので、おとなしく馬でついてきたのだ。
「いや、あんた絶対……淑女じゃねえだろ。手籠めとか言うし……」
そんな会話をしているうちに、北の砦が見えてくる。
報告どおり、魔物の群れに襲撃されているようだ。
「ちっ……数が多いな。だが、まだ破られてはなさそうだ」
マテウスは舌打ちをすると、馬の速度を上げる。そして、そのまま砦へと突っ込んでいった。
「おい! 大丈夫か!?」
彼は砦の門の前で応戦している兵士たちに声をかける。
「大公さま!」
「来てくださったのですか!」
兵士たちが歓喜の声を上げる中、マテウスは魔物の群れを睨みつける。
四つ足の獣のような姿をした魔物だ。
大きさは牛ほどもあり、後ろ足で立ち上がった姿はさらに大きく威圧的に感じられる。全身は黒い毛皮で覆われていて、鋭い牙と爪を持ち、人間も獣も見境なく襲う凶悪な魔物だった。
「おうよ、俺が来たからにはもう安心だ! お前ら、よく持ちこたえてくれたな!」
マテウスは兵士たちを鼓舞するように叫ぶ。
「さあ、行くぞ!」
そう言って腰から剣を引き抜くと、マテウスは魔物の群れに向かって突進していった。
馬上から目にも留まらぬ速さで剣を振るい、次々と魔物の首を切り落としていく。彼の動きは疾風のように速く、まるで黒い風のようだ。
「す……すげえ……」
兵士たちが感嘆の声を上げる。
だが、魔物の群れもただ黙ってやられているわけではない。数に物を言わせ、マテウスを取り囲んで襲いかかる。
「ちっ……!」
マテウスは小さく舌打ちをすると、馬から飛び降りた。
そのまま地面に降り立つと、剣を横薙ぎに振るう。すると、衝撃波が起こり、魔物たちをまとめて吹き飛ばした。
「おらあ! 死にてえ奴からかかってこい!」
マテウスは剣を頭上に掲げると、高らかに叫ぶ。
彼の雄叫びに、魔物たちは気圧され後ずさった。
「すげえ……」
「俺たちも続け! 大公さまを援護するぞ!」
兵士たちは奮起すると、魔物たちに向かって突撃していった。
マテウスに鼓舞されたおかげで士気が上がり、形勢は一気に逆転する。
その圧倒的な強さに魅入っていたシルヴィアだったが、はっと我に返ると、自分の役割を果たそうとする。
「さあ、治療いたしますわ。怪我をした方はどちらかしら」
「は、はい! こちらです!」
シルヴィアが声をかけると、一人の兵士が慌てて案内をする。
そこは、重傷を負った兵士たちが床に寝かされていた。
血の臭いが充満し、呻き声が満ちている。中にはとどめを願う者さえいた。
まだ若い兵が看護しているが、人手も物資も不足しているようだ。
「大丈夫ですわ。わたくしが治療いたします」
そう言って、シルヴィアは祈りを捧げる。
すると、柔らかな光が兵士たちを包み込み始めた。
その光に触れた途端、彼らの傷が癒えていく。
「……っ!」
今にも息絶えてしまいそうだった兵士の一人が目を開いた。そして驚愕の表情を浮かべると、慌てて起き上がる。
「こ、これは……!」
「もう心配ありませんわ」
シルヴィアが微笑むと、兵士はその場に跪き頭を垂れた。
「せ……聖女さま……。ありがとうございます、ありがとうございます……!」
涙ながらに感謝する兵士に続いて、他の兵士たちも次々と起き上がり始める。
「あ、ありがとうございます……聖女さま……」
「なんとお礼を申し上げればよいか……!」
シルヴィアを取り囲み、口々に感謝の言葉を述べる兵士たち。
そんな彼らにシルヴィアは微笑み返していた。
「皆さんが頑張ってくださったおかげですわ。わたくしはほんの少し手助けをしただけですもの」
「いえ、そんなことはありません! 聖女さまのお力があればこそです!」
「本当に……ありがとうございます……!」
「ああ……本物の聖女さまだ……あんな、うさんくさい神官どもとは違う……」
シルヴィアの謙虚な姿勢に、兵士たちはますます感動し、涙を流して跪く。
「さあ、他にも怪我をした方は?」
「は、はい! でも、あとは軽傷の者のみなので、自分たちでなんとかできます」
「そうです。聖女さまにこれ以上ご迷惑をおかけするわけには参りません!」
兵士たちは口々にそう言って、シルヴィアを休ませようとする。
だが、シルヴィアは首を横に振った。
「わたくしは疲れておりませんわ。それに、怪我人を放ってはおけません」
そう言って、シルヴィアは兵士たちの治療を続ける。
やがて、すべての負傷者を治療し終えた頃、大きな歓声が聞こえてきた。
「大公さまが魔物を撃退したぞ!」
「さすが大公さま……!」
どうやらマテウスが魔物を一掃したらしい。兵士たちは歓喜の声を上げている。
すると、しっかりした足取りでマテウスが戻ってきた。
魔物の返り血で汚れているものの、大きな怪我はないようだ。兵士の差し出した布を受け取り、返り血を拭う。
「おい、今回の死者と重症者の数は!?」
「はっ! 死者も重症者もおりません!」
兵士の報告に、マテウスはぎょっとした顔をした。
「は? え、ちょっと待て。今回の規模で死者も重傷者も無し? んなわけあるか」
「本当です! 聖女さまが癒やしてくださったのです!」
兵士が叫ぶと、マテウスは今気づいたというようにシルヴィアに視線を向ける。
「え……あんたが?」
シルヴィアはにこりと微笑んだ。
「はい、少しでもお役に立てたなら光栄ですわ」
その笑顔にマテウスはしばらく呆然とする。
だが、周囲を見回して、兵士たちが元気に動いている姿を見て納得したらしい。
彼はやがてゆっくりと息を吐き出した。
「……あんた、本当に聖女だったんだな。それもこんな惨状で平然と……」
マテウスはシルヴィアをじっと見つめていたが、やがてふっと口元を緩める。
「聖女……いや、シルヴィア。ありがとうな。おかげで助かったよ」
そう言って、マテウスはシルヴィアに握手を求めるように手を差し出した。
初めて名前を呼んでくれたことに、シルヴィアは嬉しさが込み上げてくる。
「まあ! はい、どういたしまして!」
シルヴィアは満面の笑みでその手を握ろうとする。
だが、マテウスはシルヴィアの手を握るのではなく、そっとシルヴィアの手を取って口づけを落とした。
「え……?」
シルヴィアは呆然としてマテウスを見る。
すると、マテウスは悪戯っぽく笑った。
「ははっ! あんたもそんな顔するんだな」
苦笑ではない、彼の笑顔を見るのも初めてだ。
いつもの仏頂面とは違う、年相応の青年らしい表情に、シルヴィアは胸が高鳴った。
「あ……いえ、あの……」
シルヴィアは頬が熱くなるのを感じながら俯く。
そんなシルヴィアの様子を見て、マテウスは満足げに頷いた。
「礼の証だよ。あんたが喜びそうなことをしたつもりだったが……予想以上だったな」
マテウスはそう言って、シルヴィアの手をそっと離す。
シルヴィアは俯いたまま、顔を上げることができずにいた。
そんな二人の様子を、兵士たちが遠巻きに見守っている。
「大公さまが聖女さまと……」
「これは……まさかの……」
ひそひそと囁かれる声に、マテウスが慌て出す。
「おい、お前ら! 変な勘違いすんな! これは別にそういうんじゃねえから!」
そう叫んだものの、兵士たちはにやにやしているだけで、誰もマテウスの言葉を信じていない様子だった。
「とうとう女嫌いの大公さまにも春が来たかあ」
「聖女さまも満更でもなさそうだぞ」
「美男美女でお似合いだな」
兵士たちは口々に勝手なことを言っている。
マテウスは苛立たしげに舌打ちをした。
「あーくそ……めんどくせえ……」
マテウスは頭を掻きながらため息をつく。
一方、シルヴィアは己の心に生まれた感情に戸惑っていた。
シルヴィアは胸を押さえる。心臓の鼓動が高鳴っていた。
胸の奥底から湧き上がる感情は、とても複雑で、一言では言い表せないものだ。
これまでもマテウスのことを思えば、心は温かく満たされてきた。だが、これは違う。
その感情は、シルヴィアの心を激しく揺さぶり、かき乱す。
シルヴィアは戸惑いながらも、その感情の正体を探ろうと試みる。
だが、いくら考えても答えは出ないままだった。