07.とっておきの現実
「はい、マテウスさま。これ、婚約証ですわ。国王陛下の署名入りですの。これで、わたくしとマテウスさまは正式な婚約者同士ですわ」
そう言って、シルヴィアはマテウスに王家の刻印が入った婚約証を差し出した。
「もうやだ……なんなの、こいつ」
マテウスはぐったりと扉にもたれかかる。
そんなマテウスとは対照的に、シルヴィアはにこにこと満面の笑みを浮かべていた。
王女ベアトリクスの協力を得て、無事に婚約証をもぎ取ってきたシルヴィアは、急いでマテウスを追いかけたのだ。
三日ほどの遅れがあったものの、空を駆けて追いかけてきたシルヴィアは、マテウスよりも先に到着した。
そして、留守を預かっていたダンに婚約証を見せて事情を説明し、こうしてマテウスの屋敷で居座ることになったのである。
マテウスは、ダンに恨みがましい視線を向ける。
「お前……どうして、こんなイカれた女を俺の屋敷に入れたんだ?」
「それはもちろん、シルヴィアさまがマテウスさまの婚約者だからに決まっているでしょう?」
ダンはあっさり答える。
「……俺は了承していないぞ」
マテウスが唸ると、ダンはやれやれと肩をすくめた。
「国王陛下の署名入りですよ。これは、マテウスさまの意思とは関係なく有効です。シルヴィアさまは国王陛下から直々に許可をもらってきたのですから」
「くっ……いったい何がどうなってこんなことになったんだ……」
マテウスは頭を抱える。
すると、シルヴィアは悲しげに眉を下げた。
「マテウスさま……わたくしとの婚約がお嫌なのですか?」
「嫌に決まってるだろ」
間髪入れずに答えるマテウス。
だが、シルヴィアはめげなかった。
「嫌よ嫌よも好きのうちと申しますもの。大丈夫ですわ、マテウスさま」
「だから、人の話を聞けよ!」
そんなやり取りを、ダンは微笑ましげに見守っている。
マテウスはダンを睨みつけた。
「お前、こんな頭おかしい女と俺が婚約すればいいって本気で思ってるのか!?」
マテウスが叫ぶと、ダンは穏やかに微笑んで頷く。
「ええ、もちろんです」
「なんでだよ!」
わけがわからず混乱した様子のマテウスに、ダンは言った。
「この方はシルヴィアさま、スカイラーの聖女ですよ。この枯れた地に恵みをもたらしてくださるでしょう。それに、マテウスさまの力にも負けることはないかと。冷静に考えてください。マテウスさまにとって、これ以上ない良縁ではないですか」
ダンの口調は穏やかだが、有無を言わせぬ迫力があった。
「……それは、そうかもしれないが……」
マテウスは言いよどむ。
しばし考えた後、彼はゆっくりと息を吐き出してシルヴィアを見つめた。
「おい、聖女。あんたはこの地がどんなクソみたいな場所か知ってるのか? 俺はな、大公なんてご立派な肩書があるけど、実際にはならず者たちの首領みたいもんだぞ。そんな男の妻になりたいのか?」
マテウスの問いかけに、シルヴィアはきょとんとする。
「まあ! ご自分でならず者の首領だなんておっしゃるのですね。でも大丈夫ですわ。わたくしはどんなマテウスさまでも愛せますから」
そう言って微笑むシルヴィアに、マテウスはげんなりした顔をした。
「いや、大丈夫じゃないだろ……。あんたはもう少し現実を知ったほうがいいな」
マテウスはそう言うと、真剣な顔でシルヴィアを諭す。
「いいか、聖女。ここは天空神スカイラーに見放された場所なんだよ。この枯れた地に住むのは、この地で生きるしかないようなゴミみたいな人間ばかりだ。あんたみたいにお綺麗な人間は、こんな場所にいるべきじゃない」
「まあ、わたくしのことを綺麗だなんて……。ですが、マテウスさまのほうがもっと素敵ですわ」
「いや、そういうことじゃなくてだな……」
素直な気持ちをシルヴィアが述べると、マテウスは大きなため息をつく。
「……じゃあ、とっておきの現実を教えてやるよ。ここでは……魔物の肉を食べるんだ!」
声をひそめながら、マテウスは重々しく告げた。
「まあ、魔物の……?」
シルヴィアは目を丸くする。
マテウスは畳みかけるように言った。
「ああそうだ! あんたみたいな聖女さまには信じられないだろうな。地に埋もれる食物は受け入れても、さすがにこれは無理だろう。神に許された食物ではないからな」
「まあ……それは……」
シルヴィアは困惑したように呟く。
スカイラー教の教えでは、聖典に記された食物だけが、人が食べることを許されているとされ、それ以外の食物を食すのは神に背く行為だ。
地に埋もれる食物は、下賤なものとはされているが、神に許された食物である。
だが、魔物の肉は違う。魔物は、神が創造した生物ではない。
ゆえに、聖典に記されていないため、食べることは許されないのだ。
「スカイラー教では魔物の肉を食べることは許されないだろう? だがな……ここではそれが普通なんだよ。だからこの枯れ果てたクソみたいな場所で生きていけるんだよ」
そう吐き捨てるように言うマテウスを、シルヴィアはじっと見つめた。
「……マテウスさまは、魔物の肉がお好きなのですか?」
「いや、全然好きじゃねえよ。けど、ここでは生きるために食べなきゃいけないんだよ」
マテウスは顔をしかめる。
シルヴィアはしばらく考え込むように黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「では、わたくしが腕によりをかけて調理いたしますわ」
「……は?」
意味がわからないといったように、マテウスは聞き返す。
シルヴィアはにっこりと微笑んで答えた。
「魔物の肉も、きっと調理次第で美味しくいただけますわ! わたくしにお任せください!」
そう言って、やる気に満ちた顔をしてみせる。
そんなシルヴィアを見て、マテウスは思わずといったように叫んだ。
「そうじゃないだろ!?」
「まあ、違うのですか? わたくしも、魔物の肉は少し硬くて筋張っていると感じましたわ。でも、きっと調理の仕方を工夫すれば、美味しくいただけるはずです」
「いや、美味しくいただこうとすんな! 魔物だぞ!? 魔物を食べるんだぞ!? あんた正気か!?」
「ええ、もちろんですわ」
シルヴィアは笑顔で答える。
マテウスは両手で頭を押さえた。
「ああ、もう……なんか頭痛くなってきた」
マテウスが呻くと、ダンが苦笑する。
「そんなマテウスさまに素敵なお知らせがございます。実は、シルヴィアさまはすでに魔物の肉を召し上がっていらっしゃいます」
「はあ!?」
マテウスは目を丸くしてシルヴィアを見た。
その視線を受け、シルヴィアはにこっと笑う。
「わたくし、こちらには昨日到着したものですから。夕食をごちそうになりましたの。魔物の肉は初めてでしたが、とても美味しかったですわ」
「もう食べてたのかよ! 本当にわけわかんねえなあんた!」
マテウスが叫ぶと、ダンも頷く。
「ええ、私も最初はシルヴィアさまを追い返すつもりで魔物の肉を出したのですが……。彼女はあっさり完食されましたよ。それで、この地にふさわしい方だと判断いたしました」
「マジかよ……」
マテウスは呆然と呟く。
シルヴィアはにこにこと微笑んでいた。
「はい、とても美味しかったですわ。でも、マテウスさまがお気に召さないのでしたら、もっと様々な調理法を考えてみますわね」
「こいつ、本当に聖女かよ……。天空神スカイラーも泣いてんぞ」
マテウスは疲れた顔で呟いた。
それに対し、シルヴィアは首を傾げる。
「まあ、そんな……。神はそんなことで泣くことはありませんわ。神はわたくしたちを見守ってくださるだけですもの」
「いや、だからそういう話じゃねえって……」
マテウスは頭を抱える。
「わたくしは時折、神託を授かりますけれど、神はいつも『汝の為したいように為すがよい』と仰せです。ですから、わたくしはわたくしの為したいようにいたしますわ」
そう言って、シルヴィアは微笑んだ。
マテウスはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開く。
「……それ、天空神じゃなくて邪神じゃね?」
マテウスはダンに視線を向ける。
すると、ダンが神妙に頷いた。
「ええ、私も同じことを思いました」
「……だよなあ?」
そう言って、二人はシルヴィアをまじまじと見つめる。
シルヴィアは不思議そうに首を傾げたのだった。