03.恋とは突然落ちるもの
真っ暗で何も見えない。
息苦しくて、怖い。
そんな暗闇の中、シルヴィアは身動きもとれず、ただそこにうずくまっていた。
「誰か……助けて……」
シルヴィアはか細い声で助けを求める。
だが、誰もその声に応えない。
それどころか、シルヴィアの体を何かが這いずり回る気配がする。
その感触は、まるで無数の虫が這い回っているようで、とても気持ちが悪かった。
「いや……っ!」
シルヴィアはそのおぞましい感触に悲鳴を上げる。
だが、やはり誰もその声に応えてはくれない。
「誰か……助けて……」
必死に助けを呼ぶシルヴィアの目の前に突然、光が差した。
その光に導かれるように、シルヴィアは手を伸ばす。
すると、誰かが手を取ってくれた。黒髪に赤い瞳の幼い少年が、驚いたような顔で見つめている。
そして、その手に導かれながら光の中に飛び出した。
解放感に包まれながら、シルヴィアは目を覚ます。
「ああ……」
ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、シルヴィアは周囲を見回した。
そこは自室で、自分はベッドに横たわっている。
「……夢」
シルヴィアは大きく息を吸うと、ゆっくりと起き上がった。
そして、自分の手のひらをじっと見つめる。
「久しぶりに見ましたわね……あの夢」
シルヴィアはぽつりと呟く。
幼い頃はよく見ていたが、五年ほど前から見ることはなくなっていた夢だ。
「……マテウスさまにお会いしたからかしら。あの少年……やっぱり、マテウスさまがわたくしを救ってくださったのね……! きっと、そのことを忘れないようにと、久しぶりにこの夢を見たのですわ」
シルヴィアはそう呟いて微笑む。
そして、ベッドから降りると、身支度を整えて部屋を出た。
「おはようございます、マテウスさま!」
シルヴィアはマテウスの屋敷を訪ねると、門の前でマテウスが出てくるのを待っていた。
そして、しばらくすると屋敷から彼が出てくる。
「……何をしに来たのですか?」
「マテウスさまにお会いしたく、参りましたわ!」
シルヴィアは笑顔で答える。
しかし、マテウスはシルヴィアを冷たく見下ろすだけだ。
「私はあなたに用などありませんが」
「まあ、そんな寂しいことをおっしゃらないでくださいませ。わたくしとあなたさまはもう、夫婦になるのですから。薔薇を受け取ってくださったではありませんか」
「ああ、あれでしたら、もう捨てましたよ」
冷たく言い放つマテウスだったが、シルヴィアはにっこりと微笑んで言った。
「あら、それは残念ですわね。でも、構いませんわ。またお贈りいたします」
まったく動じないシルヴィアに、マテウスは軽く目を見開く。そして小さくため息をついた。
「……一度、きちんとお話ししたほうが良さそうですね。不本意ですが、中にどうぞ」
「はい、ありがとうございます!」
シルヴィアは元気よく返事をすると、マテウスの後について屋敷に入った。
そして、応接間に通される。
シルヴィアは、マテウスと向かい合う形でソファに腰を下ろした。
「あなたが争いごとを回避しようとする、素晴らしい聖女であることはわかりました。ですから、もうそのような演技など不要ですよ」
「演技?」
シルヴィアはきょとんとして聞き返す。
「今の国王陛下には、二人の王子がいます。それぞれ別の側妃から生まれた彼らは、何かにつけて張り合っていたとか。そして、第一王子と第二王子のどちらが次期国王になるかを巡り、争いが絶えなかったそうです」
「まあ、そうだったのですか?」
シルヴィアは驚いた顔をする。
大して興味もないので、よく知らなかった。
「そんな状況の中、聖女であるあなたの采配にゆだねることになったと聞きます。しかし、どちらを選んでも争いの種となることでしょう。そこで、あなたは誰もが想像もしないような呪われた男に求婚して、見事に争いを回避してみせた。まったく、慈愛に満ち溢れた聖女さまだ」
皮肉めいた口調でマテウスはそう言った。
シルヴィアは、ただ黙ってマテウスを見つめている。
「何をおっしゃっているのか、わかりませんわ。わたくしは、ただマテウスさまをお慕いしているだけですのに」
「まだ白を切るつもりですか?」
マテウスは目をすがめてシルヴィアを睨む。
しかし、そんな視線をものともせず、シルヴィアは微笑んだ。
「わたくしは王子殿下たちの争いなど、どうでもよいのですわ。ただ、マテウスさまをお慕いしているだけですもの」
シルヴィアはきっぱりとそう言い切った。
折れようとしないシルヴィアに、マテウスはため息をつく。
「なぜそこまで私にこだわるのか、まったくわかりませんね。私はあなたに好かれるようなことをした覚えはありませんが」
「まあ、覚えていらっしゃいませんの? わたくしを暗闇から救い出してくださったことを」
シルヴィアはくすりと笑うと、マテウスを見つめる。
「幼い頃から、わたくしは繰り返し夢をみておりました。暗闇に閉じ込められ、苦しんでいるところを、黒髪に赤い瞳の少年が救ってくださるのです。マテウスさまとお会いしたとき、わたくしを救ってくださったのはあなたさまだとすぐに気づきましたわ」
シルヴィアは当時を思い出しながら、うっとりとした表情で語った。
そんなシルヴィアに、マテウスはうんざりしたような顔をする。
「……所詮は夢ではありませんか。私にはまったく心当たりがありませんね。そもそも、あなたとお会いしたことがあったでしょうか?」
「はい。神殿にて、一度だけ」
シルヴィアはにっこりと微笑んで答えた。
それを聞いたマテウスは顔をしかめる。
「神殿……?」
「ええ。神殿で祈りを捧げているときに、お見掛けしたのですわ。凛々しいお姿に心を奪われたそのとき、わたくしに神の啓示が降りました。そして、わたくしは気づいたのです。わたくしはマテウスさまのために生まれてきたのだと……!」
シルヴィアは胸に手を当てて、頬を染めながら語る。
一人で盛り上がるシルヴィアを、マテウスは冷たい目で見つめる。そして、深いため息をついた。
「まったく、あなたの思考回路は理解できません」
「そうでしょうか?」
シルヴィアは首を傾げる。
マテウスは呆れたような視線をシルヴィアに向けた。
「確かに、先王が崩御した際に追放令が解かれ、王都の神殿に行ったことはあります。しかし、それは一度だけです。そのときにたまたま、あなたが私を見掛けていたとしても、その一度だけで私を好きになったと言うのは、さすがに無理があるでしょう」
「まあ、恋とは突然落ちるものと言いますわ。それに、わたくしは夢で何度もお会いしておりますもの」
シルヴィアはにこにこと笑っている。
笑顔を崩さないシルヴィアに、マテウスは呆れた顔をしていたが、やがて小さくため息をついた。
「どうやらあなたは、夢見る乙女のようだ。ならば、現実を見てもらいましょう。少しお待ちください」
そう言ってマテウスは席を立つと、部屋を出て行った。
しばらくして戻ってきたマテウスは湯気の漂うお茶のカップを二つ、手にしていた。
そして、シルヴィアの前にお茶を置くと、自分の席に座り直す。
「まあ……ありがとうございます」
シルヴィアは素直に礼を言い、お茶のカップを手に取る。
漂ってきた香りは土っぽくて、今まで嗅いだことのない不思議なものだった。
「これは……」
「我が領地で採れた、根菜類を使ったお茶ですよ」
そう言って、マテウスは自分のお茶を口に含む。
「まあ……」
驚くシルヴィアを眺めながら、マテウスはニヤリと笑った。
「驚きましたか? 聖女であるあなたは、このような下賤なものを口にしたことはないでしょう?」
マテウスは馬鹿にしたような口調で言う。
国教であるスカイラー教の常識では、天に実る食物こそ王侯貴族のもので、地に埋もれる食物は下々の者のためのものとなる。
それから考えれば、今マテウスが根菜の茶を飲んだことは下賤の行いであり、シルヴィアに対してそのようなものを出すことは無礼でしかない。
だが、シルヴィアはにっこり微笑むと、お茶を口にした。
「ええ、初めてですわ。ですが、とても美味しいですわね。さっぱりとした中にも深みがある味わいですわ」
シルヴィアは素直に感想を述べる。
「は……?」
マテウスは思わずといったように間抜けな声を上げる。
呆然とするマテウスに、シルヴィアは笑顔を向けた。
「それにわたくし、このお茶の香りが好きですわ。なんだか、落ち着きます。マテウスさまの領地に行けば、いつでもこの香りを楽しむことができるのですね。なんて素晴らしいことなのでしょう!」
「な、何を言って……」
マテウスは動揺したようにシルヴィアを見つめる。
そんな彼に、シルヴィアはにっこりと微笑みかけた。
「わたくしにこのお茶を淹れてくださったということは、早く領地に慣れてほしいとの思いを込めてくださったのですわよね? とても光栄ですわ!」
「……っ! そ、そんなわけがあるかっ!」
マテウスは顔を真っ赤にして叫ぶ。
感情をあらわにする彼を、シルヴィアはきょとんとして見つめた。
「あら、違いましたの?」
シルヴィアは残念に思いながら呟く。
すると、我慢の限界だったのか、マテウスは怒鳴った。
「なんなんだよ、あんたは! こんな下賤なもの飲めるかって怒って帰れよ! そして、やはり呪われた卑しい男だと俺を蔑めよ! 俺はそういう反応を期待したんだ!」
「まあ、マテウスさまったら」
シルヴィアは困ったように笑う。
マテウスは憎々しげにシルヴィアを睨みつけてきた。
しかし、そんな視線も今のシルヴィアには通じない。
「その口調が素ですのね。早くもそのようにお心を開いていただけて、わたくし、感激です!」
「はあ!? 頭おかしいんじゃねえのか!?」
マテウスは吐き捨てるように言う。
小首を傾げ、シルヴィアはマテウスを見つめる。
「あら、わたくしはいたって正常ですわ」
そう言ってにっこり笑うシルヴィアに、マテウスは脱力した。
「なんなんだよ……本当にあんた……」
「あなたさまの妻となる、シルヴィアですわ」
シルヴィアはにっこり笑う。
疲れ切ったように、マテウスは深いため息をついた。
「もういい……。あんたと話してると疲れる……」
「まあ、お疲れですか? では、こちらへどうぞ」
そう言ってシルヴィアは、自分の膝をぽんぽんと叩きながら、マテウスを見上げた。
「……はあ!?」
マテウスは素っ頓狂な声を上げる。
「膝枕ですわ! 神殿には猫がよく遊びに来ていて、たまに膝の上で昼寝するんですの。ですから、もしよろしければ……」
「いらんわ!」
マテウスはそう叫ぶと、逃げるように部屋を出て行った。
「あら……行ってしまわれたわ……」
シルヴィアは消沈しながら呟く。
しかし、すぐに気を取り直してお茶を飲んだ。
「でも、またすぐお会いできますわ。だって、彼はわたくしの夫になる方ですもの」
シルヴィアは微笑みながらそう呟いて、お茶の香りを楽しむのだった。





