23.節度を守れそうにない
祝福を受けた作物は、辺境の地に根付いてすくすくと育っていった。
他国から仕入れた時はさほど収穫量が上がらなかった作物も、シルヴィアの祝福を受けたことで、成長が促進され、多く収穫できるようになったのだ。
おかげで、飢える者は減り、農作物の生産量も安定し始めている。
懸念事項はまだ残っているものの、おおむね順調と言えるだろう。
しかし、シルヴィアは悲しみに暮れていた。
「ああ……ティア……どうか元気で……」
シルヴィアは瞳を潤ませながら、ティアの首に抱き着いている。
ティアは寂しそうに鳴き声を上げた。
その鳴き声を聞いて、シルヴィアはさらに強く抱きしめる。
「申し訳ありませんわ……わたくしもつらいのです……ですが……」
シルヴィアが悲しげに呟くと、ティアは慰めるようにすり寄ってきた。
「ああ、ありがとうございます……ティア……」
シルヴィアは感謝の気持ちを込めて、ティアの頭を撫でる。
すると、ティアも嬉しそうに喉を鳴らした。
「……おい、大げさすぎるだろ。馬小屋に移すだけじゃねえか」
シルヴィアの後ろから、呆れたような声が聞こえてくる。
その声に反応して振り返ると、呆れた表情をしたマテウスが立っていた。
「だって……ティアと別れるなんて……」
シルヴィアが涙ぐみながら訴えると、マテウスはため息をついた。
「あのなあ……夜は馬小屋で寝るってだけだろ。朝になれば、また会えるんだからよ」
「それはそうですが……」
確かにマテウスの言うとおりなのだが、それでもシルヴィアは悲しみを隠せなかった。
遺跡から連れ帰ってきた子馬ティアは、あっという間に成長して、立派な体格の馬になったのだ。
これまではシルヴィアの部屋で一緒に寝ていたが、とうとう馬小屋に移さなければならない日がやってきた。
そのためシルヴィアは、今生の別れのようにティアに縋りついているのである。
「ティア……どうか元気でいてくださいね」
シルヴィアが優しく語りかけると、ティアは嬉しそうに鳴いた。
ティアの鼻を撫でると、ティアもお返しとばかりに頭を擦り付けてくる。
「ふふっ……くすぐったいですわ」
シルヴィアは笑いながら身をよじらせた。そして再びティアに抱き着き直す。
「さて、そろそろ行くぞ」
そんなシルヴィアの様子を見て、マテウスは呆れたように言った。
「そんな! もうちょっとだけ……」
シルヴィアは懇願するようにマテウスを見るが、彼は首を横に振るだけだ。
「ダメだ。早くしないと日が暮れるだろ?」
マテウスの正論に、シルヴィアは渋々ながらティアから離れた。
「……わかりましたわ」
「よし、いい子だ。じゃあ行くか」
マテウスは満足げな表情を浮かべると、シルヴィアを連れて馬小屋へと向かう。
そして、ティアを馬小屋へと移動させた後、二人は屋敷に戻った。
屋敷に戻って夕食を済ませた後も、シルヴィアはぼんやりとしたままだった。
自分でも、どうしてこうも喪失感に苛まされているのかわからない。
「おいおい、まだ落ち込んでるのか?」
マテウスは心配そうにシルヴィアの顔を覗き込んでくる。
シルヴィアは力なく首を横に振った。
「いえ……大丈夫ですわ。明日にはまた会えますもの……ただ、少し寂しいだけですわ」
シルヴィアは弱々しく微笑むと、椅子から立ち上がった。
「今日はもう休みますわ」
「……そうか。部屋まで送ろう」
マテウスはそう言ってシルヴィアの手を取ると、エスコートするように歩き出した。
その気遣いに感謝しつつ、シルヴィアは彼の手を握る。マテウスの手は大きく温かかった。
その温もりを感じていると、シルヴィアは不思議と心が落ち着いてくるような気がする。
やがて部屋に着くと、マテウスはシルヴィアの手を離した。
「お休みなさいませ」
「ああ、ゆっくり休めよ」
そう言って立ち去ろうとするマテウスに、シルヴィアは思わず声をかけた。
「あの……もう少し一緒にいていただけませんか?」
シルヴィアがおずおずと申し出ると、マテウスは少し驚いた顔をした後、ふっと微笑んだ。
「ああ、わかった」
マテウスはシルヴィアの部屋に入ると、シルヴィアをベッドに座らせる。そして自分はその隣に腰かけた。
「ありがとうございます」
シルヴィアはお礼を言いながら、マテウスにもたれかかるように体重を預けた。彼の体温が心地よく感じられる。
「おいおい……なんだいきなり甘えてきて」
マテウスは少し照れくさそうに言うが、拒絶されることはなかったので、シルヴィアはそのまま甘え続けた。
しばらく沈黙が続いた後、シルヴィアが口を開く。
「……ごめんなさい、マテウスさま。わたくし、甘えてしまって」
「別にいいさ。それに謝る必要もないだろ」
マテウスは優しく微笑むと、シルヴィアの頭をそっと撫でた。
その心地良さに、シルヴィアは思わず目を細める。
「自分でも、どうしてティアのことがこれほど気にかかるのか、よくわからないのです……」
「まあ……ティアは普通の馬じゃないしな。やたらと成長は早いし、賢いし……何より馬は卵から生まれねえし。もしかしたら、ティアもあんたのように神に愛された存在なのかもしれねえな」
マテウスは冗談めかして言う。
その言葉に、シルヴィアは思わず笑みを零した。
「ふふっ……だとしたら素敵ですわね」
「ああ、そうだな。……じゃあそろそろ寝ろよ? もう夜も遅いんだしよ」
マテウスはそう言って立ち上がろうとする。
だが、シルヴィアは離れるのが名残惜しくて、思わず彼の腕を掴んでしまった。
「シルヴィア……?」
マテウスは不思議そうに首を傾げる。戸惑ったような、普段はあまり見ることのない幼い表情だ。
そんな彼の顔を見ているうちに、シルヴィアの中で悪戯心が芽生えてきた。
最近はからかわれてばかりだったので、ちょっとした仕返しをしたいと思ったのだ。
シルヴィアはゆっくりと顔を近づけていくと、マテウスの唇に自分のそれを重ねた。
突然のことに驚いたのか、マテウスは目を見開いて硬直している。
そんな彼の様子が面白くて、シルヴィアはさらに強く唇を押し当てた。そして舌を差し込もうとするが、その前に肩を掴まれて引き剥がされてしまう。
「ちょ、ちょっと待て! あんたいきなり何を……!」
慌てるマテウスに対して、シルヴィアは落ち着いた様子で答えた。
「あら? わたくしと口づけを交わすのはお嫌ですか?」
「いや……そういう問題じゃなくてだな……」
そんなマテウスの言葉を聞いて、シルヴィアは小さく首を傾げた。
「……それではどういう問題でしょうか?」
シルヴィアが尋ねると、マテウスは困ったように頭を搔く。
「あのなあ……俺がどれだけ我慢してきたと思ってるんだ……」
「我慢……? 何をですの?」
シルヴィアが聞き返すと、マテウスはため息をついた。
「……ったく……これだから天然は」
マテウスは呆れたように言うと、シルヴィアの身体をベッドに押し倒した。そして覆い被さるようにシルヴィアを見下ろす。
「あ……あの……?」
突然の展開についていけず、シルヴィアは混乱していた。
そんなシルヴィアに構わず、マテウスは耳元で囁くように告げる。
「俺だって男なんだよ。好きな女にここまでされて我慢できるほど、できた人間じゃねえんだよ」
マテウスの言葉を聞いてシルヴィアはようやく理解した。自分がどれだけ大胆なことをしたのかということを。
途端に恥ずかしくなってしまい、シルヴィアは俯いた。顔が熱い。きっと真っ赤になっているだろう。
シルヴィアの頭をマテウスが優しく撫でる。
「なあ、シルヴィア……あんたのこと、抱かせてくれないか」
「……え?」
マテウスの言葉に、シルヴィアは驚いて顔を上げる。
そこには真剣な表情を浮かべた彼の顔があった。その眼差しに射抜かれたように動けなくなってしまう。
そんなシルヴィアの反応を見て、彼はふっと微笑んだ。
「……なんてな。冗談だ。今日はゆっくり休め」
そう言ってマテウスはシルヴィアから離れようとする。
彼の手を、シルヴィアは慌てて掴んだ。
「シルヴィア?」
「……冗談でも……嘘でもないのでしょう?」
シルヴィアは消え入りそうな声で尋ねる。
頬どころか、耳まで熱い。どれほど赤くなっているのか、考えたくもなかった。
すると、マテウスは小さくため息をつき、シルヴィアの頭を優しく撫でる。そして額に口づけをした。
「ああ、本気だよ」
その言葉に、シルヴィアは胸が熱くなるのを感じる。心臓の音がうるさいくらい高鳴っていた。
「あの……わたくし……」
シルヴィアは自分の気持ちを伝えようとするが、上手く言葉にできない。
その様子を見て、マテウスは苦笑した。
「節度を守ろうって言っておいて、このザマじゃあな。自分でも呆れちまうよ」
マテウスはそう言って自嘲気味に笑う。
そんな彼の表情を見ていると、シルヴィアの胸に切なさと愛しさが込み上げてくる。衝動的に、シルヴィアはマテウスに抱き着いた。
「わたくしも……節度を守れそうにないですわ」
「おいおい……マジかよ……」
マテウスは驚いたように目を見開くが、すぐに真剣な表情に戻る。そしてシルヴィアを抱きしめた。
「本当にいいんだな?」
「はい……お願いします」
シルヴィアが答えると、マテウスはそっと唇を重ねてきた。
最初は触れるだけの軽いものだったが、次第に激しくなっていく。舌を差し込まれ、絡め取られるような深い口づけだった。
頭がぼんやりとしてきて、何も考えられなくなってしまう。
シルヴィアはただマテウスに身を任せていた。
しばらくして、マテウスはゆっくりと唇を離す。二人の間に銀色の糸が伸び、ぷつりと切れた。
その途端、シルヴィアは激しいめまいに襲われる。
頭がくらくらとして姿勢を保てなくなり、シルヴィアはマテウスにもたれかかるように倒れ込んでしまった。
「おい! どうした!?」
マテウスが慌てた様子で尋ねるが、シルヴィアには答える余裕がない。
次第に意識が遠のいていき、やがて完全に意識を失ったのだった。





