93.トンボの次の見学
「イレさん、頼みがある。師匠さんを貸して欲しい」
朝ごはんを食べに行く待ち合わせの時点で、パドマはイレを拝み倒した。触りたくないからしがみついたりはしないが、地面に伏して神を崇めるように拝み倒している。
手を取って立たせれば、ナイフを刺されそうだし、刺されるだけならまだしも、それで恐怖が増したと言われると、とても困る。イレは、どうしたらいいのか、悩んだ。
「どっちかって言うと、師匠はパドマのおまけじゃないかと思うんだけど」
「違うの。師匠さんに、たらし込んで欲しい男がいるんだよ。ヤキモチを焼かないで欲しい」
パドマは、真摯にお願いした。恋人がいる人をそんなことに使ってはいけないのは、わかるからだ。本人には、まだ何の許可も取っていないが、別に何をしてもらわなくても、その辺を歩かせるだけで恋の種を撒き散らす才能を持っている。だから、許可など取らなくても機能する予定だ。
イレは、空を見上げた。雲ひとつない、キレイな青空が見えた。可愛い我が子にしようと思っていた娘が、また不穏なことを言っている。見た目は、ようやく普通の娘に近付いたのだが、何をどうしたら、可愛いだけの娘に育ってくれるのか。少し気が遠くなった気がしたが、きっと気の所為だ。恋愛方面を嫌う娘が、たらし込むなんて、そんな言葉を口にするなんて、あるはずがない。聞き違いに違いない。
「うん。作戦の内容発表の前に、何があってそれを企んだのか、を聞きたいかな」
イレは、なんとかそう言葉を搾り出すと、パドマはさっと立ち上がって、スタスタと歩き出した。まだ頼りない部分はあるが、3日前よりはしっかりと歩けるようになっていた。
「早く早く。長くなるから、食べながら話すよ!」
お腹が減ってるんだねと思いながら、イレはずんずん歩いていくパドマの後ろをついて行った。
「かくかくしかじかなんだけどさ。師匠さんに骨抜きにしてもらって、師匠さんに見合う男になるよう努力してもらうか、いっそデレデレの役立たずになって、友だちのお父さんに嫌われてしまえばいいと思って」
カフェで着席するなり、イレの左手首は手縫いで縛られて、手縫いの先はパドマが持っている。片手で縛れて器用だね、というのと、どうしても逃したくないと使命感にかられても触りたくないのか、というのと、どちらを言うべきか、イレは悩んだ。
「あの子には、好きな子がいるから、師匠をぶつけてもダメじゃないかな」
師匠は、災厄かのように人を惚れさせて歩くのを、イレは幼少期から見てきた。だが、それほどまでとはいかないなりに、もう1人、やたらとモテる人物に、イレは心当たりがあった。如何にモテる師匠でも、誰かから掠奪するほどの恋心を発生させることは、滅多にない。ジュールの恋の相手は、もう1人のモテる人なんだから、無理なんじゃないかな、とイレは思った。
「師匠さんが本気を出したら、絶対勝てる! 勝てるの!! 師匠さんだから!!!」
パドマは、つっぷして、テーブルをダンダンと叩いていた。ジュールの恋の相手を知った上で、師匠が負ける未来を予想しているのだろう。
「師匠に惚れてもらうより、想い人になんとかしてもらった方が、早くない?」
「誰だかわからない人になんて、頼めないよね」
パドマは、顔を上げたが、涙目になった上で震えている。名前を言ったら怒られるんだろうなぁ、とイレにしては珍しく気を遣った。
「お兄さんは、誰なのか、直接本人から聞いたことがあるけど」
「この作戦に協力してくれそう? イレさんが頼んだら、何とかなる?」
今は誰も触っていないし、近寄ってもいないのに、遠目に見てそれとわかるほど、パドマの肌にぷつぷつと何かができているのが見て取れた。
「嫌がって、泣いて震えて逃げて、海に落ちそうかな」
「そんな人には、可哀想で頼めないじゃん!」
パドマは、とうとう堪えることなく泣き出した。下を向いて、テーブルに貼り付けているだけだが、イレの角度からは、涙が見える。
「そうだね」
師匠が、パドマの頭の上に果物を何個積み上げられるかチャレンジを始めたのを眺めながら、イレはタブラティーを口にした。
食後、とりあえず、3人でジュールのところに行った。弁当を売るジュールの真横に師匠を立たせ、その後ろに立つイレの後ろにパドマは隠れた。周りを通り過ぎる人にジロジロと見られ、それからも逃れたいのだが、もう壁にできる人材がいないし、壁役を集めてきて囲んでもらったら、怖くて耐えられない。故に、諦めた。
ずっと3人で無言で立っていたのだが、弁当を売り切ると、ジュールが師匠を見た。
「何か、御用でしょうか?」
「それは、随分なご挨拶だなぁ。縁談が来てるんでしょう? どうなってるのかなー、話が違うなー、って思って、お話しを聞きに来たんだよ」
「それは、誤解です。もう断りましたから!」
ジュールは、イレの言葉に動揺した。声が無駄に跳ねているし、手の動きも不自然だった。
「断ったつもりは、話にならないよ? うちの可愛いお姫様と許婚を両天秤にかけようなんて、いいご身分だなぁ。ふざけてるよね」
「今すぐ! 今!! しっかりと断ってきます!」
ジュールは、走って逃げ出して行った。屋台セットも売り上げも置き去りにして。
「あの野郎。てめぇの稼ぎじゃ弁償しきれないだろうに、何やらかしてくれてんだよ」
パドマの怒りのボルテージが上がっていく音を聞きながら、イレは、屋台の片付けを始めた。師匠は、パドマの横に戻って、傘を差し掛けた。
イレは、売り上げ金を師匠に渡すと、ダンジョンセンターの窓口にいた隣の家のお姉さんに屋台を預け、代わりに車イスを持ってきた。
「パドマ、良かったら、なんだけどさ。折角、ここまで来たし、これに乗って、43階層まで行ってみない? お兄ちゃんには、許可をもらってないんだけどさ。ちゃんと見学だけって約束を守れるなら、連れて行ってあげるよ」
「いいの? でも、車イスじゃ、階段を降りれないよね」
「パドマは、危ないから走らせられないけど、歩けない訳じゃないから、階段だけ降りて歩いてくれてもいいし、乗せたまま角度を保って持って上り下りくらいできるよ。トカゲを持って帰るより、簡単だよ」
イレは優しく微笑んでいるが、ヒゲで隠れて表情はわからない。
「いいの? 本当にいいの? 行きたい! 行ってみたい」
パドマは、胸の前で手を合わせ、歓喜の声を上げた。
見た目だけなら、問題なしに可愛いと思ったのだが、そんな仕草をしている時のパドマへの信頼はない。可愛く見える時こそ、大体ロクでもないことを考えているのだ。イレは、喜ぶパドマを見ても、手放しに喜べなくなっていた。
「見学だけの約束、本当に守れる?」
「守る。今は、完全非武装だし、師匠さんの武器も盗まないし、素手でもいかない。絶対、守る!」
パドマも、少しは己れを知っているようだ。普通は、無腰でダンジョンに放り込まれたら帰ろうとするものだが、過去、そのような状況になったパドマは、文句を言いつつも帰ろうとは言わなかった。手持ちの何かでどうにかしようと工夫を重ね、どうにもならないと思った上でも帰る選択をせず、師匠の武器を盗んで戦おうとしていた。勝てると思わなくても、気にせず戦おうとするのである。油断してはいけない。
「約束を破ったら、お兄ちゃんに報告するし、ダンジョン引退になっちゃうよ。それでも、守れる?」
「え? 引退? 守れるかな。え? どうしよう。守れる? いや、守ってみせる! あ、でも、お兄ちゃんに登録証を取り上げられてるから、入れないや」
パドマ相手の口約束は、ヴァーノンもまったく信頼していない。行かないならいらないハズだと、入場に必要な登録証取り上げられているからこそ、こっそり隠れて行っていないのだ。
「それなら大丈夫。師匠にかかれば、叶えられない夢はない」
師匠は、懐中から、パドマの登録証を取り出して見せてくれた。ヴァーノンに許可を取っていないのだとすると、盗んできたのだろう。最近の師匠は、看護を理由に、フリーパスでパドマたちの部屋まで出入りしている。コソ泥したのかスリ盗ったのかは知らないが、簡単に手に入れたに違いなかった。
「約束を守る覚悟ができたなら、座って」
「うん」
パドマは、トンボの次を見に行く機会を得た。
師匠がナイフを飛ばし、剣を持って跳ね飛ぶ後ろを、パドマが乗った車イスをイレが押して進んでいく。最初こそ、奇異な車イスを見る視線にパドマは嫌な気持ちになったが、すぐに周りが気にならなくなった。久しぶりのダンジョンに、ときめいていた。足のないトカゲも、イモリも、ミミズも、なんと可愛らしく愛しいことか。パドマは、瞳をキラキラさせて見ていた。敵影は、早く見つけないと、師匠に殲滅されて、動くところを見ることは、叶わない。師匠の倒し方とセットの見どころである。見逃さないように、瞬きも忘れて見入った。
「イレさんの師匠さん、すごいね。格好良いね」
「そうでしょう、そうでしょう」
ご機嫌なパドマに気を良くして、イレも歩を早めた。
42階層の下り階段まで、到着した。
「ここまで良い子で頑張りました。降りていいよ。最後まで、ちゃんと約束を守るんだよ」
「うん。頑張る」
安全ベルトを外して、パドマは車イスから立ち上がった。そして、そろりそろりと降りていく。階段から落ちたら、下階層を見ることなく連れ帰られてしまう、という緊張感があった。
次の獲物が何かは、おおよそ知ってはいるのだが、ダンジョンの敵は、現実のそれとは趣きが違う。是非、実物を拝んで、対策を練りたいと、ずっと思っていた。それが、今叶う。
「ふわぁあぁ。すごいね」
パドマの視界は、青や黒、黄色や緑や赤のとりどりの蝶でいっぱいになった。通り抜けができなそうなくらいの沢山の蝶が上下左右に揺れながら、ふわふわと飛び交っている。背景が全面石のレンガであるのが、とても残念だった。ここが、広い野原や林であれば、もっとキレイだっただろう。
「見たかったんでしょう? 良かったね」
イレが、階段を降りてきた。車イスは、踊り場に置き去りにされている。
「うん。ありがとう」
フロアに降りたら怒られそうなため、パドマは階段に腰掛けた。イレも少し広めに間を開けて、横に座る。師匠は、踊り場の車イスに座って、お菓子を食べ出した。
「あの青地に白が映えるのが、ヘレナモルフォ。大きくて黄緑? 黄色? のが、ゴライアストリバネアゲハ。赤と青がキレイなのは、ミイロタテハ。黒字にピンクや黄色や紫がキレイなのは、ミイロタイマイ。お兄さんの一番好きなヤツはね、あれ。しぶーい青のモエルネルリツバメアゲハ。あ、そこの白いスルコウスキーモルフォも、大好き」
イレは、次々と指をさして蝶の名前を言った。パドマは、1匹目からもう覚えられる気がしなかったが、なるほどと応じながら、聞いた。
「イレさんは、蝶が好きなんだね」
「キレイなのはね。パドマも好きだから、見たがってたんだよね?」
パドマは、なんで連れて来てもらえたのかを悟った。イレは、女の子はカワイイもの好き論者である。パドマをダンジョンに連れてきた張本人のくせに、最近は、戦うのを厭う傾向すら見える。へなちょこ過ぎてケガばかりしていては、そういう扱いも仕方がないかなぁ、と思わないでもないけれど、付き合い切れないなぁというのが、パドマの本音だ。つまり、イレは、女の子はキレイな蝶々が大好きだよね、という発想で連れてきてくれたのだ。まったくそんなつもりはなかったので、居た堪れないったらない。
「あー、いや、あのね。蝶がいるのは、知ってたよ。だけど、こんなキレイなのがいるとは、知らなかったからさー」
「そっか。知らなかったら、見たいとはならないね」
「うん。でも、ちっちゃい頃は、好きだったよ。白とか黄色とかの、あんなキレイな蝶じゃなかったんだけどさ。可愛いかわいいって追いかけ回してたら、お兄ちゃんが捕まえてくれてね。喜んでもらおうとしたんだけど、顔が怖くてさ。お腹が気持ち悪くてさ。やだやだって泣いて、お兄ちゃんを困らせて、それ以来、近寄れなくなったんだよね」
「そっかー。女の子は、虫が嫌いな子、多いもんね。パドマは、そっちだったか。ホント難しいな」
好きな物を否定されて、また怒られるかとパドマは身構えていたのだが、イレはイレ理論の中で、納得してくれた。蝶に関しては、好きな人も嫌いな人も、女の子の範疇からはみ出ないらしい。面倒臭い話に巻き込まれずに済んで、パドマは胸を撫で下ろした。
「でね、今回は、殺人蝶を見たくて来たんだけど、どれがそうなのかな?」
「殺人蝶? そんなのいないよ!」
失言だったようだ。イレが怒っている。イレに怒られようと、嫌われようと、そんなことはパドマは興味はないが、イレの目が怖い。嫌いだ。怖い。
「え? 毒持ちの蝶がいるんだよね? 撒き散らす鱗粉に毒が混ざってて、吸い込んだら死ぬとかだったら、どうしようって、思ってたんだけど」
「だから、そんなのいないってば。みんなふわふわ飛んでキレイなだけだよ。毒持ちって、アサギマダラとか、ジャコウアゲハとか、オオカバマダラのことじゃないよね。あれとあれと、あぁ、もう1匹は見えるとこにはいないけど。そんなに危ない蝶じゃないよ。毒はあるかもしれないけど、食べたりしなきゃ関係ないよ。まさか、、、食べないよね?」
可愛いと喜んでいたムササビは、美味しいと喜んで食べていた。森暮らしをしていて、いつもお腹を空かせていたと聞いている。出会った頃は、生きているのか心配になるほど細かった。イレの趣味の都合で、食べてはいけないとは言えない。
「そうだね。普通の人は、あんまり食べないと思う。食べ方もわかんないし。やたらと虫に詳しいおっちゃんがいてさ。専門家だと思って話を聞いた時に、危ないから気をつけろって、何回もしつこく言われたんだよ。カマキリが美味しいとか、余計な話を教えてくれる人でさ。そっか、あの人、蝶も食べるんだね。体格差は気にして話を聞こうって思ったんだけど、そこは考慮してなかったよ」
「ああ、あの人か。お兄さんも、ツノゼミが美味しい談義を5日くらい連投で聞いたことがあるよ」
虫のおっちゃんも、イレも、唄う黄熊亭の常連客である。席が隣り合うこともあれば、相席になることもあるし、従業員を含め、みんなでお話しすることもよくある。そんな店に通い続けていれば、常連客同士で話したことがない人なんて、ほとんどいなくなる。
「ツノの形が違うと味が違うってヤツだよね」
「そう、それ」
5拍ほど、声が止んだ。
「人の話を聞いて、ちゃんと理解するのって、難しいね」
「そうだね」
次回、踊る。