90.vsトンボ
パドマが正気を取り戻すと、ヴァーノンは目の前に立っていた。
「やっと起きたか。待ちくたびれた。立てるなら、もう行くぞ。トンボを見に行きたいんだろう?」
ヴァーノンは、怒っていなかった。ちょっと弁当を買いに行くか、とでも言うようないつもの顔でいる。
「行ってもいいの?」
「俺がいない時は行かない約束をきちんと守っていたのなら、一緒の時は止めない約束は守るべきだ。但し、ハネカクシとの戦闘は認めない。お前の獲物はトンボで、俺の獲物はハネカクシだ。それは、譲れない。守れるか?」
ヴァーノンは、いつもパドマを甘やかす時と同じ顔をして、パドマに手を差し出した。だから、パドマも、いつもヴァーノンに甘える時と同じ顔をして、ヴァーノンの手を取った。
「わかった。守る。ありがとう」
仲良く2人で並んで、41階層を進んで行った。
イチャイチャしてるようにも見える兄妹を、少し離れた階段の上から、イレと師匠は見ていた。
「師匠じゃ、あのお兄ちゃんには勝てないよ。ちょっとおかしいもん、あの子。お兄ちゃんだけじゃなくて、お父さんもお母さんもおじいちゃんもおばあちゃんも、全部兼任してるんじゃない? 生まれて何年もしてないのに、すごいよね。見てると、無駄に長生きしてるのが、恥ずかしくなってくるよね。素直に、あんなお兄ちゃんいたら嬉しいだろうな、って思ったもん。
怒らないで、泣かないで。可愛さだけなら、師匠の圧勝だから。笑ってたら、最強だから、ね」
師匠が、涙を流しながらぷんぷん怒って、どかどか殴ってくるのを、イレは必死で受けながら、甘やかした。
パドマが夢の世界にいる間に、粗方ハネカクシ退治は終わらせていたらしい。歩けども歩けども、ハネカクシはいなかった。たまに、進行方向ではない通路の向こう側に姿を見つけると、倒す必要もないだろうに、ヴァーノンはわざわざ倒しに行っていた。見に行くと叱られるのだが、こっそり見たところ、ヴァーノンは切れない方の剣を使い、ハネカクシを殴って吹き飛ばして、壁にぶつけて倒していた。叩き潰しても体液が噴き出てカブれると聞いていたのだが、ヴァーノンは無傷だった。力加減が絶妙なのだろうか。いずれにしても、切れない剣を入手したところで、力技はマネができない。パドマの参考にはならなかった。斬れば通れるのだから、構わないとパドマは気にしないことにした。
だが、気になることがあった。ハネカクシと戦う兄の背中に似ている記憶があった。ヴァーノンが戦うところを見ることは、小さい頃から頻繁にあった。街に住んでいた頃は、パドマをいじめた子を追いかけ回していたし、森に住んでいた頃は、パドマをいじめた魔獣だけではなく、目についた生き物ととりあえず戦うのが、兄だった。だから、兄が何かと戦うことは、パドマにとっては珍しくもなんともないのだが、記憶の中に、兄が2人いた。記憶の中の兄は、全員ヴァーノンだと思っていたのに、もう1人、黒っぽい髪の兄より大きい兄がいたらしい。パドマは、どちらもお兄ちゃんと呼んでいたから混同していたようなのだが、あれは誰なのだろう。どこに行ってしまったんだろう。
そして、とうとう42階層に着いた。パドマの視界で夢にまで見た、トンボがぶんぶん飛んでいる。
前回は、姿を見ただけで、撤退させられたが、今回やっと戦う姿を見ることができる。来れない日々も、こんなのを使ったらどうかな? と武器を作ってみたり、森に行きがてら練習してみたり、武器を改良してみたりして過ごしていた。どんな相手なのかもよくわからずに、想像だけで練習するのは、正直まったく手応えがなくて、不安だらけだった。だが、それも今日で変わる。倒せなくとも、一歩踏み出せる。
パドマは、ウキウキとヤマイタチのリュックから武器を出して並べた。パドマが作ったのは、ブーメランとブーメランナイフである。くの字のブーメラン、への字のブーメラン、三又のブーメランに四つ股のブーメラン。棍棒のような太いブーメランに刃が付いたブーメランナイフ。大きさも各種作った。それぞれが全部描く軌道が違う。
トンボは、とても頭のいい敵だと聞いたから、学習しにくいようにいろんな物を用意した。投げて戻ってくるブーメランもあるし、戻って来ないブーメランもある。
まだそれほど上手く扱えないので、防刃手袋を装着して、出陣しようとしたら、師匠が近付いてきた。不機嫌顔を隠さない師匠だ。何を怒っているのかわからないが、投げられるかもしれないし、蹴られるかもしれない。腰が引けながら動けずにいたら、青い布を被せられた。重たい方のお揃い服だった。
「そっか。ヤマイタチに乗せて、持ってくれば良かったんだ。ありがとう、師匠さん」
お礼を言うと、師匠はいつもの微笑み顔に戻って、猫の手棒でパドマの頭を撫でてくれた。
パドマは、立て続けに色んな方向にブーメランを投げた。最初の3発までは狙ってみたが、後は、ぶつからない軌道にすることを優先して、適当に投げた。ブーメランで倒せてしまってもいいが、倒せなくでもいい。手数を増やすための囮で、剣で倒すのをメインにしようと思っている。だから、投げると早々に踏み込んだ。
第一目標は、自分がブーメランに当たらないこと。可能であれば、ブーメランをキャッチして投げたいが、できる気はしていない。練習は屋外で広かったからできたが、戦闘しながらやるのは難しすぎる。コンパクトな軌道に変更したので壁には当たらない予定だが、敵に当たるのだから、思うところには返ってこない。ブーメランは、メガネウロには、ちっともヒットしないが、どんどん敵の数は減って行った。
パドマは、これだと思ったメガネウロの1匹に的を絞って斬りかかったが、どうにもこうにも当たらなかった。剣を振りかぶったところで、これっぽっちも狙っていないメガネウロを1匹仕留めたが、狙っている方は、掠りもしない。
トンボは、上にも下にも右にも左にも前にも後ろにも、全方向に動けるらしい。パドマをじっと見て、パドマが動いたのに合わせて反応していた。トンボの方が速いから、全てパドマの攻撃は避けられて、隙をみてパドマに寄ってくるから、空いた左手で払うと、また避ける。さっきたまたま倒した感触からすると、ニセハナマオウカマキリ並の紙防御だと思われるのに、まったく当たらないから、倒せない。
「くそむかつく!」
今、メガネウラがいる場所ではなく、動くと予想した場所を斬ると、相手は避けずにこちらに向かってくる。そして、それを左手で払う。一方的にやられないだけマシだが、膠着状態だ。視界の端で、死んだ個体を食べる個体が大量発生しているので、泣いて逃げ出したいくらいなのだが、まだ自力では何も倒せていないので、撤退したくない。今を逃したら、次はいつになるか、わからない。
「らあああっ!」
気合いと共に、振りかぶって襲い掛かろうとした時だ。パドマは、後ろから誰かに抱きかかえられた。そして、首の後ろに激痛が走る。
「いったーっ!」
師匠、ふざけんなよ! と自分の背中に剣を向けると、右から蹴りが飛んできた。今度こそ師匠だ。
「え?」
パドマは、吹き飛ばされ、地に落ちた。そこに師匠が来て、パドマを拾って肩に担ぐと、右手からナイフを山程飛ばして、一瞬で部屋を制圧した。
師匠は、その場に座ると、パドマを膝の上に座らせて、首の後ろの治療を開始した。
パドマを戦闘中に抱きかかえた犯人は、メガネウロだった。後ろから勢いよくパドマに近寄り、抱きついて飛んで、首の後ろにかじりついていた。パドマが剣で斬れば、トンボからは逃れたかもしれないが、あの勢いでは、パドマも一緒にケガをしそうだった。だから、師匠は渋々介入することにした。パドマは、自分相手にあの剣筋を容赦なく振る舞うんだな、と少し凹みながら。
少し助け方が強引だったので、トンボの大アゴがへし折れて、突き刺さったままになっていた。それを丁寧に取り除いて、消毒後、薬で傷をふさいだ。少しだが、肉を削った。治療にも痛みが伴ったハズなのだが、パドマは何も言わなかった。
パドマは、傷の痛みよりも、自分の周囲が死体だらけの気持ち悪さに、一生懸命に耐えていた。戦っていた時以上に、トンボの複眼が怖かった。カマキリの方が、顔は怖いし、見慣れているハズなのに、数が多すぎるのがいけないのかもしれない。上を見てやり過ごしたいのに、治療の邪魔になるのだろう。上を向く度に下を向かされるので、逃げられなかった。
師匠は、パドマを抱きしめたと思ったら、投げ飛ばした。意味のわからない行動だったが、治療終了の合図だろうと、パドマは礼を言って、ブーメランナイフを1つだけ回収し、隣の部屋に走った。
後ろから、ヴァーノンとイレの声が聞こえるので、急ぐ。まだ帰れない。
部屋に入る手前で、ブーメランナイフを投げて一緒に突撃する。メガネウラには役に立たなかったが、それ以外のトンボは落ちるからだ。
パドマは反省もなく、左手でぶんぶんと剣を振り回し、メガネウラを追い回した。そして、斬った。なんだか知らないが、前のメガネウラには剣が当たらないのに、後ろのメガネウラは、簡単に斬れるのだ。パドマが一切後ろを振り向かないから、トンボの接近に気付いているとは、認識できないのかもしれない。パドマからすれば、見えるトンボも見えないトンボも同じくらいに存在がわかる。羽音がうるさすぎて、見なくともメガネウラだとわかる。次々と後ろのトンボを斬り伏せ、最終的に前のトンボも斬った。追いたてて、こっそり端に追い詰めてしまえば、なんということもなかった。
「よし、次!」
さくさく進もうとしたのに、とっくに追いついていたイレとヴァーノンに立ちふさがれた。
「何? 首の後ろは、もう痛くないよ?」
ふふふ、と笑って、すり抜けようとしたら、ヴァーノンに右腕をつかまれた。
「あ゛ぁああぁあぁあ!」
パドマは、悲鳴をあげた。ヴァーノンは、正確に先程師匠が蹴った位置を掴んでいる。絶対にケガに気付いて、わざとやっている。気付かれる前に先に進もうと急いで来たのに、もうバレていた。
「あのね。あのね。せめて、次の階の敵をちらっと見てから、帰りたいの。ここまで来るの、大変だしさ。お兄ちゃんは、仕事忙しいしさ。ね?」
「今なら、歩いて帰ることを許そうと思っていた。これ以上長居するのなら、イレさんに頼んで抱えて帰ってもらうことにする。俺は1人でも、入り口まで走り切れないからな。諦めて、そうした方がいいだろうか」
「今すぐ帰る」
パドマは、キレイにきびすを返して歩いた。ブーメランだけは、全て回収させてもらったが、後は一切剣を振ることもなく、大人しく歩いた。
「あのパドマが素直になっちゃうくらいかー」
イレは、そっと悲しい気持ちを胸にしまった。
寝る前に、はたと思い出し、パドマは自分の疑問を唯一解消できそうな人に答えを求めた。
「あのさ、お兄ちゃん。変なことを聞いてもいい?」
「ベッドから逃げ出して、何処かに行く相談は、一切受付ないぞ」
ヴァーノンは、警戒していた。トイレに行くフリをして外に出ようとしてみたり、既にパドマは何度かヴァーノンや、さっきまでいた師匠に捕まえられていた。もう寝るのだから、そんなことはしないのに、まだ信用していないらしい。
「そう言うんじゃなくてさ。昔、街に住んでた頃、お兄ちゃんがもう1人いなかった? 生き別れか、死に別れか、わからないけど」
今日、ダンジョンの中で思い出した記憶だ。寝ぐらでは、ヴァーノンと2人で暮らしていたのに、外に、もう1人兄と呼ぶ人がいた。あれは、誰なのか、気になった。
「街で暮らしていた頃か。それは、いたとも言えるし、いないとも言える」
「答えになってないじゃんー」
「俺が兄かも疑問だが、母が同じ兄弟はいない。だが、お前は、誰でもお兄ちゃんと呼んでいた時期があった。女だろうと年下だろうと、みんなお兄ちゃんだ。その誰かを兄だと誤認している可能性までは、否定できない」
ヴァーノンは、パドマを見て、優しく微笑んだ。昔のパドマを語る時のヴァーノンは、大体優しい顔をする。
「誰か止めろよ」
「あんなに無邪気で可愛い生き物を止められるのは、人間じゃない」
「教育上、やめさせろよ」
「そんな物は、育てばいずれ自然となくなる。その時限定の可愛さを見守ってもいいだろう」
パドマは、あっという間に話を聞きたくなくなった。兄の昔話には、ロクなパドマは登場しない。
ヴァーノンの話からすると、記憶の中のもう1人のお兄ちゃんは、近所に住んでいた友だちなのかもしれない。街をうろうろすれば、再会することもあるだろうか。綺羅星ペンギンの従業員の中にはいなかったと思うが、トマスがパドマに気付いていないように、その逆もあるかもしれない。だとしたら嫌だなぁ、と思う間に、寝ついていた。
「おやすみ、パドマ。20日間、大人しくしててくれよ」
パドマの就寝を見届けてから、ヴァーノンも布団に潜った。
次回、お布団生活。こんな暮らししてりゃ、しょうがないけど、主人公寝過ぎ。