85.初めてのチーズ
「晴、れ、た!」
アーデルバードは、高い城壁に囲まれて、建物が密集している街だった。海を除けば、遠くの風景は見えない。雲の形は多少違うような気はするが、海を見ても、あまり季節を感じることはない。ダンジョンに向かう途中にある誰かの家の庭に、白い花が咲いているのをみるのが、パドマにとっての春の訪れだ。昨日も昨日も雨は降っていなかったが、風が強くて、カフェの外席でごはんを食べる気にはなれなかった。そんな日をパドマは晴れとは認めない。そんな適当な気分で生きている。
「ごめん。今日は晴れたから、ダンジョンをサボりたい。2人で仲良くデートしてきて!」
パドマは、朝ごはんをたいらげると、勝手な宣言をして、走り去った。酒場の常連さんの家を目指して、駆け抜ける。引率は頼まれていないのに、師匠はパドマの後を追った。
酒場の常連さんであるワインのおっちゃんの家は、城壁近くにある。赤いお屋根に広い庭が自慢だと、いつも言っている。城壁内に広い庭があるなど、贅沢な話である。実際に行ってみると、確かに聞いた通りの家があった。赤い屋根の上に、白い生き物が歩いている以外は、噂通りだ。
「おはよー!!」
庭が広すぎて、母屋までは遠い。イギーの家のように門近くに人が立っている訳でもない。どうしたらいいかわからなかったので、大声で叫んでから、勝手に門を開けて入ってみた。
声が聞こえていたのか、門近くに建っている小屋から、ワインのおっちゃんは顔を出していた。パドマの顔を見つけると、手を振ってきた。
「おう。来たか。そこのドアから入ってきな」
「わかったー」
パドマは、言われた通りのドアを開けた。人1人分のスペースを置いてまたドアがあり、さらにその先にもドアがあった。さらに、抜けると、広い空間があった。ワインのおっちゃんと母ヤギと子ヤギが沢山いた。
「うわぁ。これがヤギかー。美味しそうだねぇ」
パドマがうっとりと見つめると、ワインのおっちゃんは、顔をしかめた。
「おいちゃんの可愛がってる子を食べないでくれよ? 腹減ってんのか? 朝メシ抜きか?」
「大丈夫。ここに来る前に、たらふく食べてきた。今日の朝ごはんは、パスタとハンバーグとローストビーフとドリアとパンケーキだよ。もう入らない」
パドマは、おなかをぽんぽん叩いてみせた。
「小さい身体に、よく詰め込んだな。すげぇな。具合悪くなけりゃ、こっちに来な。今年生まれた子ヤギたちだぜ。かわいい、よな?」
部屋の中にある柵のところまで、パドマは近付いてみた。近付けば大きさがよくわかる。大きいヤギはパドマの腰より少し上で、小さいヤギは股下くらいの大きさだった。
「目がちょっと綺羅星ペンギン風だけど、かわいいよ。この子たちに名前を付けたらいいの?」
「そう。もう増えすぎて、名前を考えるのも覚えるのも大変なのよ。おいちゃんにもわかりやすいのを、ちょいと考えてくれよ。みんなの憧れの新星様に付けてもらえば、縁起もいいだろ?」
「なんでも良ければ、いいけどさ。
だいふく、しらたま、かるかん、あわゆき、おかき、あられ、もなか、ぼたもち、ごまたま。これでいい?」
「やっぱり、食べようと思ってんだな?」
ワインのおっちゃんは、ジト目になった。唄う黄熊亭にダンジョン食材を持ち込んで、嬉しそうに食べているパドマを知っている。肉屋にはヤギ肉も売っている日もあるから、食べれないとは言わないが、これはペットのヤギだ。どう言ったらわかってもらえるかな、と少し悩んだ。
「食べて良ければ、食べるけどさ。そうじゃないよ。だいふく、どーれだ」
「どれって、言われてもな」
ワインのおっちゃんは、足下のヤギを見回した。
「まさか、こいつがだいふくか? すると、しらたまは、これだな? まさか、これがかるかん? なるほど、わかるな」
話している間も、乳を飲んでいる丸々とした小ヤギがだいふく、小さい小ヤギがしらたま、腰に黒いブチがあるのが、かるかん、同じ白ヤギで少し色が違うのが、あわゆきだ。茶色や黒のヤギもそれぞれの色の違いで、名前が想像できる。
数日前に、酒場で給仕中に相談に乗った、ワインのおっちゃんの悩みは、増えすぎたペットのヤギの名前についてだった。そんなん適当に付けちゃえよ、と発言したばっかりに、パドマが適当に付けることになってしまったのだ。ヤギに何の思いいれもないし、本気でぱっと見で適当に付けてしまった。ワインのおっちゃんには恩があるので、真面目に考えてもいいのだが、どうせクオリティは、たいして変わらないと思う。
「育ったら変わっちゃう分は、責任取れないけど。どうせヴァランセ、とかは、もういるんでしょ?」
「いる。だいふくたちの父ちゃんが、ヴァランセだ」
「じゃあ、名付けはそれでいい? 高尚な名付けをするには、人生経験が足りないからさ」
「ああ、充分だ。予想以上に良い名をもらった。ありがとよ。礼は」
「折角来たんだから、他にも手伝うよ。何かできることない? 師匠さんが付いて来ちゃったから、力仕事でも、汚れ仕事でも、なんでもやってもらえるよ」
パドマは、大人用ヤギ小屋の掃除や、ヤギの散歩の手伝いなどを請け負った。師匠は、ヤギ小屋のペンキの塗り替えと、屋根に登って帰ってこなくなったヤギの回収を請け負った。ダンジョンに行かない日は楽しいね、とパドマが言ったら、師匠はスネた。
そうしてお礼をせしめたパドマは、いつもの如くイレの家に不法侵入し、汗を流した。
「偽お父さんち、大好き!」
風呂釜を使っただけでは飽き足らず、パドマは釜戸にも火を焚いた。
本来なら、薪を買って帰って、マスターにお願いして釜戸を借りるべきところなのだが、イレの家は、薪を使っても調味料を使っても、怒られないのが、魅力的だ。薪は重いし、香辛料は高いのだ。どちらも自力で調達するのは、大変なのである。それに関しては、いい人と知り合いになったなぁ、と素直に思う。
火が安定したら、鍋を乗せ、ヤギ乳を入れて温めた。もらった全ては入らなかったが、そのまま飲むこともできる。問題ない。
パドマは、楽しみすぎて、ずーっとヤギ乳を見ていた。時折、我慢できずにかき混ぜたりしていたら、ふつふつと煮立ちそうな兆候を捉えた。待ってましたと、魔法の液体をぶちこんだ。
みるみるうちに、ヤギ乳は分離していった。パドマは、ペンギンを眺める師匠のような状態になっている。それを離れた場所にいる師匠は、白い目で見ているが、そういうところはよく似た師弟だった。
分離が済んだら、布で濾して、個体と液体に分けた。個体は、更に2つに分けた。そして、粗熱を取るため、待つ。待つ。待つ。パドマは待てずに、匙ですくって食べた。
「味見、最高!」
胡椒をかけて食べて、ジャムと一緒に食べて、そんなことをやっていたら、作ったシェーブルチーズが半分なくなっていた。
「なんで!」
嘆いていたら、襟首を摘まれて、ダイニングに連れて行かれた。調味料をあさって味見をしている間に、師匠はお昼ごはんを作ってくれたらしい。
師匠の皿には、焼いた肉しか乗っていなかったが、その肉を流用して作ったらしいガレットやサラダが、パドマの皿には乗っていた。
「やる気さえ出せば、できる男。流石だ」
パドマは、チーズのことは一旦忘れ、有難くいただいた。今日の謎肉は、ムササビだった。師匠がムササビに目覚めてしまったのか、パドマがムササビ好きだと思ったのか、どちらかはわからない。
本当は、チーズと一緒に食べようと、果物を買ってきていたのだが、味見でチーズが半分いなくなってしまったので、諦めた。ライチとビワはデザートに食べて、ホエイと残りのヤギ乳で作ったラッシーにさくらんぼを入れた。
そして、残りのチーズは固めて食べようと、地下パントリーに隠した。
唄う黄熊亭において、パドマは、また兄に甘やかされていた。残りのチーズの使い道に気を取られていて、まったく仕事に集中できていないので、戦力にするのを諦めて、師匠の横に座らされている。
注文を取ってきても、マスターにはチーズとしか言わないし、何を頼まれてもミルクしか持っていかない。パドマを娘のように可愛がる常連客ばかりなので、笑ってミルクを飲んでくれるが、いくらなんでも酷すぎるので、ヴァーノンは諦めた。叱っても、注文があったと、マスターのところにチーズを取りに行く有様だ。聞こえていないことだけは、わかった。
そんなに食べたいならばと、アスパラのチーズ焼きを提供したが、師匠に取り上げられて、イレの前に置かれた。
「え? それ、パドマのじゃないの? お兄さんは、さっきチーズを食べてきたから、もうチーズはいいかな」
イレは断ったが、師匠に更に皿を近づけられただけだった。
「チーズを食べた?」
先程まで、まったく会話が成立しなかったパドマが、イレを見ながら立ち上がった。
「チーズを食べた? チーズを食べた? 食べたの?」
パドマは、元々いくらも距離がなかったところを、イレににじり寄っていく。顔に表情は浮かんでいない。イレは構わず酒をあおっているが、ヴァーノンは、なんとなく事情を悟った。
「うん。小腹が空いたから、そのまま食べれるものが何かないかなって見たら、見つけたから」
イレは、まったく悪びれていなかった。一人暮らしをしている自宅に置いてあるものは、全てイレの物だ。記憶にはないが、いつか買ったんだろうな、と思ったのだ。不法侵入をした挙句、高級胡椒を食べたパドマの方が、罪は重い。
「やっぱり偽お父さんは、いらない。初めて作ったチーズだったのに」
パドマは、床に崩れて泣き出したので、ヴァーノンが部屋に連れて帰った。
「え? なんで? なんで泣いてるの? 師匠は知ってる?」
パドマの泣き顔を見てなお、まったく飲み込めていない弟子に、師匠は微笑みを忘れた。
次回、ダンジョン! 走って、どんどん進みます。