72.ペンギンのハンカチ
パドマは、人生で初めて兄より早起きに成功し、兄の弁当作りに参加しようとしたのだが、今日はダメだと断られてしまった。もう一生こんな早くに起きられないかもしれない、と言ったのに。ヴァーノンならまだしも、マスターにまでダメだと言われたので、諦めて見学した。昨日、あの師匠に甘やかされるくらいのケガをしていたことと、油を使うから危ないと断られたのだ。揚げ物くらいやったことがあるのに、と思っていたが、ヴァーノンは、なかなかワイルドな揚げ物を作っていた。それは、室内ではやめた方がいいよ、と言いたくなるような炎の上がりっぷりに、パドマはドキドキが止められなかった。手伝いを断られたのは、パドマの所為ではなく、ヴァーノンの所為ならば仕方がないな、と納得した。
とはいえ、ただ見ているのも暇である。その辺にあった食材を使って、ピンチョス風の食べ物を作って過ごした。
パドマは、ヴァーノンもマスターも視界に入れず、ただひたすらピンチョス作りに没頭していたのだが、ジュールとともに弁当を運びに行っていたハズのヴァーノンに、ピンチョスを1つ食べられてしまった。
「あ!」
「食べたらいけなかったか」
「いや、いいけど。最終的には、食べてもらう予定だったから」
「随分、手間のかかる物を作っているが、何をしてるんだ?」
「ペンギン食堂の料理開発。料理できない輩でも問題なく作れて、できたら扱う食材は増やさないで、見た目と味がそれなり以上だと望ましい」
「あいつらが、これを作るのか。なかなかだな」
「できたら、可愛い女の子を呼び込んで、わちゃわちゃする店にしたいのに、客は野郎ばっかりで、女の子を連れて来てくれないの」
「それは、この街の風習だろうから、店をどうしようと、どうにもならないだろう」
「薄々そうじゃないかと思ってたけど、ウチが女の子を拉致って集めないといけないのかな。でもなぁ、女の子たち、仕事に休みがなさそうなんだよ。遊びに来てくれた子には、お金を支給すれば良いのかな」
「それも変じゃないか?」
「そうなんだよ。お金をあげるからおいでなんて言われたら、怪しすぎて近寄りたくなくなるよね」
「行った先に、強面男しかいないからな」
「あいつらを、解雇するしかないか」
「あいつらの更生施設なんじゃなかったのか?」
「だよねー。ダメだよねー」
話している間に、ピンチョスが全てなくなってしまった。パドマは、1つも食べていないのに。
「半分、ママさんのとこに持っていくつもりだったのに!」
「悪い。美味いのもあったが、まったく食った気にならなかった」
「もうお兄ちゃんなんて、仕事に行ってしまえ。片付けはやっておくから」
パドマは、膨れっ面で、兄の追い出しにかかった。兄は、昔から仕事ばかりしている。勉強のためにやっていることは代われないが、片付けならば、手を出してもいいだろう。パドマもそろそろ、手伝いたいと思っていた。
「頭は大丈夫なのか?」
パドマが兄を心配するように、ヴァーノンも妹を心配している。だが、パドマは、許容量が狭い。素直に心配しても、聞く耳を持たない。だから、ヴァーノンなりに考えて、茶化して聞いた。
真面目に聞いても、ふざけて聞いても、結局、パドマはふくれるらしい。だが、以前のようにキレることはなかった。
「その聞き方が嫌だ」
「ちゃんと治せよ」
「もう治ったよ」
片付けを済ませて、外に行くと、パドマは師匠に睨みつけられた。機嫌が悪い時も、ふわふわ微笑んでいる師匠が、全力で睨みつけてくるのである。それは冷気さえ漂ってきそうな風情で、パドマにとっては、回れ右して帰りたくなる恐怖体験だった。
「何を怒ってるのかな。怖いんだけど」
「完全武装で、ダンジョンに行く気満々なのが、気に入らないんでしょう」
「だって、武器を持ってなくても、ダンジョンに連れていかれた時もあったし、そうじゃなくても安全のために、武装はいつでもしとこうって」
「バングルが、籠手に戻ってる言い訳は?」
「左右の重さのバランスが悪い」
「だってさ、師匠」
イレが籠手を外すと、師匠がバングルを取り付けた。ご丁寧に、籠手に見えなくもない形に金属のラインが伸びていて、ところどころに小さなペンギン飾りが隠れ潜んでいる。今度は、両手とも取り替えられてしまった。
「ひぃ!」
「お兄さんたちの本気を、思い知ったか」
「腕が軽くなって嬉しいけど、対ハチクマ戦は、籠手の方が安全度が高いと思う」
「まだ言ってるよ。このバトルジャンキーが!」
素直な感想を伝えたら、イレに怒られた。籠手は、防具屋の宣伝のために付けていたのであって、パドマとしてはあってもなくてもどうでもいい代物ではあるが、ハチクマ戦で手首付近はケガしなかったのは、籠手のおかげだった。あのズタボロ具合で、今更手首だけ無事でも仕方がない、とも思ったが。
「そうは言っても、こっちも命懸けなんだよ。自分のペースとか関係なく、放り込まれるんだから」
師匠が、布でできた花とリボンとレースでゴテゴテとしたヘッドドレスを、パドマの頭に乗せた。昨日の帽子を被らずに、ハゲを晒していたのがバレてしまったのだ。
「ごめんなさいぃ。昨日の帽子をかぶってくるから、これは勘弁して欲しい」
「心配しなくても、髪の色と大体同じなんだから、大して目立たないよ。諦めたらいい」
「そんなことばっかり言ってるから、イレさんには彼女ができないんだよ!」
師匠は、パドマの言葉を無視して、ヘッドドレスの角度調整をしていたが、満足したのか、ふわふわの微笑みに戻って、似たようなテイストの髪飾りを自分の頭に付けた。パドマは、自分はあれより酷い物を付けられているのかと思うと、とても恐ろしい気持ちになったが、可愛い師匠には、とても似合っていた。
「イレさん、この人、男なんだよね」
「そうだよ。すごいでしょう」
イレは、誇らしげにしているが、今は、そういう場面ではない。花とレースの可愛らしい髪飾りを自ら頭に付け、とても可愛い師匠がより可愛くなってしまったのである。似合うのも変だし、おっさんが飾っているのも変だし、おっさんが女の子にしか見えないのも変だ。
「うん。すごいね」
パドマは、それ以上言うのは、諦めた。
いつものように3人で朝ごはんを食べた後は、イレの家に連れて来られた。ソファに座らされ、何もするなと、師匠の監視が付いている。ここまでの道も、歩くと傷が開くに違いないとイレの背中に乗せられて運ばれていたし、とても不本意だった。
何もしないでダラダラと過ごし、ごはんを食べる生活がしてみたいと夢を見たこともあったが、実際、それをすることになったら、手持ち無沙汰で仕方がなかった。
もうほぼケガは治っている。今ハチクマのところに連れて行かれても、同じ結果にしかならなそうだから行きたくはないが、別の階で狩りをするには支障はないように思われる。頭の傷だって、縫い付けたのだから、この上開くことはないだろう。それとも、まだ開く余地があるのだろうか。
「師匠さん、暇だよ。暇すぎるよ。ペンギンでも作ってていいかな」
離れたイスに座って、熱心に薄い本を読んでいた師匠は、ため息を吐くと、廊下に出て行った。この隙に、ダンジョンに逃げ出すことも少し考えたが、どうしたって足の速さでは、師匠に負ける。諦めて座っていたら、師匠は大量のハギレと裁縫セットを持ってきて、パドマの前に置いた。
「師匠さん、ありがとう」
持ってきてもらったはいいが、ぬいぐるみを作るには不適当な薄手の生地ばかりだった。パドマは、使い道に困ったが、ただの暇つぶしにペンギン縛りはいらないなと考え、ペンギンの刺繍を始めた。
考えるのは、ハチクマのことだ。あのとんでもなく速く飛ぶ鳥をどうしたことか、師匠は普通の顔をして斬っていた。イレは、無傷で通り過ぎるのだろうし、帰ってきてないところを見ると、ハワードたちも通過している。師匠はともかく、ハワードができるなら、パドマにだってやれる公算はあるだろう。単純なパワーなら勝てないだろうが、ハチクマの問題は、スピードである。速さでも、パドマの方が劣りそうだが、それでも何か方法があるハズだ。
攻撃を避けるだけなら、大きな盾があればなんとかなりそうだ。しかし、誰もそんな物は持っていなかった。
空を飛んで、こちらに突っ込んでくるところは、ツノゼミやオサガメに似ている。いや、スピードを思えば、トリバガの方が近い。
「トリバガで練習? 違うな」
トリバガも相当速いが、あれはもう斬れる。軌道が単純過ぎるからだ。前面の敵だけならば、フライパンを前にかざすだけで、6割は処理できる。トリバガより速いから、大変なのではない。数だけならば、トリバガの方が多い。狙いが、それぞれズレているから、処理が大変なのだ。
そこまで考えて、視界に入ったものに、思考が中断させられた。
「どうしよう」
なんとなく手持ち無沙汰で、手遊びしていただけだった布たちは、刺繍をして、ハンカチに加工していた。刺繍は、全体的にはペンギンなのだが、目が猛禽類のようになっていた。ハチクマのことを考えていたからだろう。ファンシーなペンギンのイラスト風なのに、目付きがとんでもなく鋭い。
そこまでなら、まだ良かった。絵心がないだけで済まされる。あまりに暇だったので、知り合いの名前を刺繍した。文字は読めるが、うろ覚えである。字があっているのか、謎だ。更に、ハンカチのフチがレース編みになっていた。ミラたちにあげようとレース編みにしたのだが、兄のもイレのもレース編みになっている。知り合いなど大半男なのに、全部レース付きだ。道理で1日つぶれた訳だ。
「師匠さん、もらってくれる?」
とりあえず、文字が読めない上に男に見えない人に見せてみたら、手に取ってはくれた。目を丸くして、刺繍とずっと読んでいたらしい本を見比べている。
「ごめんね。思いの外、不細工なペンギンになっちゃったんだけど」
師匠は、渡したハンカチの上に、指で文字を書いた。
「あ、り、が、と? 書ける文字が、増えたんだ。あれ? その本、文字の本? 見せて」
師匠がずっと読んでいた本は、子供用の文字学習教材のようだった。師匠が貸してくれたので、開いて見てみる。
「すごーい。キレイな字だね」
本を読んだのは、恐らく初めてだが、恐ろしく整った文字が並んでいた。何度か出てくる同じ文字が、判を押したようにそっくりだった。
「あ、しまった。今日はもう帰らなくちゃ。明日、この本、借りて読んでもいい?」
師匠の許可は得られたので、裁縫道具一式を片付けて、唄う黄熊亭に帰ることにした。
帰る前に、頭の傷を消毒してもらったら、また出血していたので、師匠が泣き出した。おかげで、帰りも歩くことは許されず、文字の本は貸し出されて、治るまでベッドから出すな、とヴァーノンとマスターに伝えられてしまった。
喋らなくて、意思の疎通に難があるのが師匠の良いところだった、とパドマは気付いた。
次回、さよならイギー。