389.優しいヴァーノン
すみません。昨日、上げ忘れた分です。
床と一体化していた師匠は、むくりと起き上がった。大丈夫? と起こしてくれる人を募集していたのだが、誰にも声をかけてもらえなかったのである。声を掛けてもらえた時代は鬱陶しいと思っていたのに、声をかけてもらえないことを切なく感じていた。自分勝手だなぁと思いながら、建物を出た。
まだ昼日中の明るい時間だった。太陽が眩しく、目に刺さる。気分と合わない天気に閉口しながら、師匠は日傘をさして、とぼとぼと歩いた。
これという目的地はなかったが、歩いて着いた先は唄う黄熊亭だった。毎日のように立ってパドマを待っていたその場所に、師匠は立っていた。間違えたのは、あの時だ。あの時、パドマをダンジョンに連れて行かずに、どこへなりと連れて行って、慈しめば良かった。そうしたらきっと、師匠はもっと優しくしてもらえただろう。パドマは別の人格に育っていただろうから、それでは意味がない気もするし、そのパドマには今と同じ気持ちを持たないかもしれない。師匠は、パドマの人格に影響を及ぼすほどに、深く長く一緒にいた。
「いらっしゃいませ。今開けます。少々お待ちください」
うなって悩んでいるところに、仕入れから戻ってきたヴァーノンが出会して、師匠を店に招き入れた。
師匠はそんなつもりでここに来たのではなかったが、声をかけられてしまった。折角だから、先日失敗したヤケ酒に再挑戦することにした。格好つけて、アルコール度数の高い酒を開けたのがいけなかったのだ。もっと庶民的な女子どもが好むような酒から慣らせば、この身体だって酒が飲める。実父も実母も浴びるほど飲んでいたが、これといってどうにもなっていなかった。あの2人の愛し子である自分は飲める体質でなかったら、おかしい。養父もカイレンの父も大酒飲みだった。師匠が飲めないなんて、誰の子かわからなくなってしまう。自分だけ特別可愛がられていた理由が拾った子だったからだとしたら、悲しすぎる。そんな事実は、親からちゃんと知らされたかった。
『ヒレステーキとサングリア。果物多めで、かわいいの!』
師匠の記憶は、酒を注文したところで途絶えた。その後、ヴァーノンが酒を運んできて飲んだり食べたりしたと思うのだが、何も覚えていない。
師匠は目を覚ますと、暗闇にいた。窓から差し込むぼんやりとした月明かりはあるが、真っ暗だ。今は昼間のはずなのに。何故こんなことにと考えるが、頭がガンガンとして整理がつかない。頭が痛い理由もわからない。呪いの影響で、すぐに不具合は治る身体なのに。呪いよ、こんな時こそ働け。
「お加減は如何ですか。お水を召し上がりますか?」
ヴァーノンの声が聞こえた。そこで、ここは唄う黄熊亭の子ども部屋かと思い当たり、師匠は厠に逃げこんだ。
気が済むまで胃の内容物をぶちまけると、魔法で消した。臓腑がむずむずとするのを光龍に何とかしろと脅しつけたが、効果はなかった。光龍とは仲が悪いので、簡単には願いを聞いてもらえない。
ふらふらと厠を出ると、ヴァーノンに支えられて、長椅子に座った。かつて具合の悪い日に、パドマが使っていたものだ。
「何かあったのですか」
レイラーニが言う通りの優しい眼差しを向けられて、師匠は胸が詰まる思いになった。手本は、すぐ近くにあった。これをトレースすれば、きっと師匠は幸せになれた。
「知慮深きリヒトルーチェよ。星の輝きを集め、深淵の闇を照らす光を紡ぎ出さん」
師匠は自分の手元に光を生み、蝋板を削った。
『ゲームで、推しにこっぴどく振られて、つらい』
文字にしてみると、実に馬鹿馬鹿しい悩みに思えた。しかし、師匠は真剣だった。
ここ最近、フェーリシティのゲームはアーデルバード街民の間で話題になっている。一番人気は、先日レイラーニがプレイさせられた、学校を舞台にした恋愛シミュレーションゲームである。一般向けは、その日のモンスター師匠の気分で、多彩なキャラクターが出てくるようになっている。モンスター師匠の趣味が反映されているので、緑の肌の乙女やレイラーニとしか思えない美女(性格は日によって大幅に変わる)が出てくるので、何だこれと一部マニアに注目されている。ヴァーノンも噂くらい聞いたのではないかと、ゲームの所為にして話した。師匠がプレイしていたゲームは、モンスター師匠扮するレイラーニではなく、本人だったのだが大筋は間違いない。
ヴァーノンは、友だちが悩んでいることにして相談するアレだなと、すぐに気付いた。師匠はパドマを振って蔑ろにした最低男だが、想い人がレイラーニだとすれば情状酌量の余地はある。ヴァーノンも、小さいパドマよりレイラーニの方がパドマなのではないかと思ってしまう時があった。妹ならばどちらも妹で構わないが、恋人となればどちらも恋人という訳にはいかない。レイラーニを選ぶのが順当だ。師匠が年を取らないからそのうち釣り合いが取れるようになるとしても、あえてよちよち歩きの3歳児を選んで口説き始めるなら、変態の烙印を捺さねばならない。
「嫌われるようなことをしたのですか」
『背が低いのを気にしていたから、少し足を伸ばした。それだけのつもりだったのに、自分好みに改造して、、、イタズラするのが目的だと言われた!』
師匠が衝撃を受けたのは、それだ。ただ振られただけでも寝込むが、振られた理由がひどすぎると思うのだ。父親面して抱きつこうとしたり、口付けしようとしたから誤解が深まったのかもしれないが、あれは師匠の所為ではない。師匠をそのように育てた養父と、そうしたくなるレイラーニの可愛さが悪いのだ。
「ああ、変わったのが足だけだったら、そんなことは言われなかったのではないですか?」
ヴァーノンは、首や肩や胸や脇腹を指で押さえた。レイラーニ本人よりも、詳しく変化に気付いていそうな断定ぶりに、師匠は頬を引き攣らせた。
『妻にも手を付けたことがない私に、ひどい言い草だと言いたい。でも確かに、触れても許されるなら触れたい自分もいるから、あの子の言う通りなのかもしれない。大好きなのに、嫌われたくないのに、抱き潰したい。私は最低の変態だ』
ヴァーノンの目は、文字上を滑って盛大に転んだ。口がによによと動く。妹が関わっていなければ大爆笑する話題だった。妹似で可愛い面立ちの何だかよくわからない生き物が、真剣に悩んでいるようだった。
「奥方とも清い仲なのですか?」
『大切な人だった。嫌われたくなかったし、失いたくなかった。種族が違うから、子を宿せば何が起きるかわからない。妻は死んだかもしれない』
師匠は適当な言い訳を並べた。嫌われることを恐れていたのは事実だが、真実はそんな気持ちが起きなかっただけだ。可愛い可愛い大好きだと思っていたが、レイラーニを見ると湧いてくる激情はなかった。レイラーニがレッサーパンダを可愛がるような感情で結婚してしまっただけだと、今は思っている。だが、ヴァーノンはそれをそのまま受け取った。
「それは重大な問題ですね」
前者はともかく、後者には多大な問題がある。そのような事由があれば、ヴァーノンも手を出さないだろう。その前に、仮令好きでもそんな相手とは結婚しない、が挟まれるが。
『あの子も同じくらいに、それ以上に大切にしようと努力をしているのに、嫌がられるのがわかっているのに、手を伸ばすのをやめられない。やめたら、きっともっと仲良くできるのに』
「ちなみに私は、誰が相手でも必要ならば手を出しませんが、必要ならば誰にでも手を出しますよ。好みなんて、大した問題ではありません」
ヴァーノンがにっと笑うと、師匠はのけぞって驚いた。
『ウソだ。無理だ。できない』
師匠の生まれながらの婚約者は、地龍だった。地龍は同い年の妹だ。師匠は彼女のことを双子のように思って、暮らしていた。一度たりとて女性だと意識したことはなかった。だが、両親5人と村人の大多数が2人の結婚を望んでいた。自分のコミュニティのほぼ全てが、それを望んでいたのだ。
地龍は容姿に優れていた。(村の中で)世界一の美女と称された乳母の娘である。両親が似たような顔をしているのだから、それ以外の顔はできなかったのだろう。どこを切り取っても美しかった。師匠も、それは認めている。
妻の安寧が保証されるなら、妻と結婚しなくても良かった。友人としてそばにいられれば、構わなかった。だから、皆の意見に巻かれて、地龍との結婚を真剣に考えてみた時期もあった。皆に反抗するのに疲れてしまったのだ。自分さえ諦めれば丸く収まるなら、そうすればいいと自棄になってしまった。
結果、地龍とだけは無理だと悟っただけだった。隣に立っただけで、全身に拒否反応が出る。それが外見にくっきりと現れて、止められなかった。我慢で何とかなる領域を超えていたからこそ、しつこい両親が手を引いたのだ。それでも、呆れるほど寿命が長いのだから、冷却期間を置いたらどうだ、という諦めの悪い内容だったが。
それ以前もそれ以降も、誰にも食指を動かしたことはない。こんな気持ちになるのは、大きいパドマとレイラーニだけだ。ハニートラップには頻繁に巻き込まれていたが、その気になろうと思っても無理だった。かなり女が頑張っても、どうにもならないらしかった。妻と一緒にいられたのは、種族の違いを言い訳にさせてもらえたからかもしれない。
「恋愛対象の許容範囲が狭いのですね。ただそれだけでしょう。好みの女に触りたくなるのは、普通の生理現象ですよ。わたしは男なら皆、それなりに広いものだと思っていました。理想像そのもの以外でも、許せる範囲があります。わたしの妹は女だからか、許容範囲が本当に狭くて、理想像そのものでも拒否するくらいでしたが」
ヴァーノンは、くすくすと笑っていた。妹が済みませんと言われて、師匠は頭痛を忘れて顔から火が出るかと思った。何故、バレた?! ヴァーノンにはそんな姿は見せていないつもりでいる師匠は、盛大に驚き慌て、『ゲーム!』と書いた。
「妹がああなってしまったのは、わたしの怠慢の所為です。天子を授かったと思って、ずっと必死に育てていたのですが、なんで休みなく育児をしなければならないのだろうと、魔がさしてしまいました。パドマを放って、遊びに出てしまったのです。大体、パドマは何事もなく家にいましたし、食料を持って帰るのにパドマは邪魔だと、自分を正当化して過ごしていました。ですが、その間、パドマはツラい目にあっていました。何度かイジメられている場を見たのに、それでも何度も置き去りにしました。友だちと遊ぶ魅力に、取り憑かれていました。その所為でパドマは追い詰められて、ある日、錯乱しました。あれでも本人は相当頑張って、人を受け入れるようになったのです。申し訳ありません。好意を寄せて頂けるのはありがたいことですが、あまり追い詰めないでやってください。困り果てた結果、暴言を吐いて、距離を取ろうとしているだけだと思います」
師匠は、その件に関しては、本人から話を聞いている。なんであのヴァーノンがパドマを放置していたのだろうという疑問はあったが、パドマはその件に関しては記憶がないようだった。そして、ヴァーノンがパドマの近くにいなかった疑問が解けると、パドマの人嫌いになった理由をヴァーノンが知らないのが気になった。パドマはそんな境遇におかれても、この変質超人から秘密を守り切ったのかと、改めて驚嘆した。何の教育も受けず、1000年以上秘匿されていた魔法を独自に復活させた兄妹は、やはり普通ではないと、師匠は思った。
師匠は、今まで誰にも聞けなかった恥ずかしい相談を次々とした。優しいヴァーノンは、他の友だちにも相談されたことがあると、笑って話してくれた。
次回、交換日記。