304.浮気宣言
パドマは、クマちゃんの服を師匠に作り直してもらった。いつまでも女装させておきたくないからだ。
師匠は、袖がびらびらレースのシャツの上にひざまであるゆったりとしたベストを着せ、クラヴァットをつけた上にコートを着せた。ボトムは、ふわりとしたキュロットである。コートのフチに少々ジャガーの毛皮を採用されている。クマは、貴族になった。
「れんれん、こーゆーので良かったんだよ。もー全身ジャガーとか、やめてね。クマちゃんは、クマだから」
「うん」
カイレンは、素直に肯定しているようでいて、師匠を恨んでいた。さらりとパドマの要望を叶える師匠は、敵なのだ。そうして奪われた恋は100や200ではきかない。今となってはそれで良かったと思っているが、パドマこそ最後の恋なのだ。奪われてはたまらない。2人が相愛なのは承知の上で、譲る気はない。
「じゃー、行こー」
パドマはカイレンの肩車で、魚介レストランに連れて行ってもらった。介助人員が沢山いるから、しばらくは白蓮華で暮らすことにしたものの、おかゆばっかりの生活が嫌になったのだ。おかゆの固さはどんどん固くしてくれて、どこまで固くしても食べれるかチャレンジを続けているが、結局おかゆばっかりなのに、パドマが飽きたのだ。
こんな時のカイレンである。適当に丸め込んで、大人のごはんを食べさせてもらおうと、おねだりした。パドマは、小さくとも3歳である。もう堅いパンだって食べられるだろう。ウトパラだって食べているのだ。あんなついこないだ生まれたヤツにまで、負けたままではいられない。
「れんれん、大好きー」
出てきた食事を見て、パドマはテンションを上げた。それぞれ量は少ないが、大人と同じような食事が出てきたのである。焼き魚に煮魚にと並ぶ料理の中に、ちっちゃいおにぎりがあった。小さくなったパドマにとっても一口サイズの大きさだが、おかゆではない。盛り付けがお子様ランチなのが腹立たしいが、お店だから見栄えを気にしないといけないんだろうな、と溜飲を下げた。
師匠が作ってくれるごはんから逃げて来たからだろう。師匠が渋面になっているから、取り上げられる前に食べた方がいい。そう思って、パドマはカイレンに手を拭いてもらって、手づかみで食べ始めた。赤ちゃん扱いされているうちは、テーブルマナー云々と言われない。さっさと食べるに限る。
師匠は、ずっとイガイガしていた。魚など食べていないのに、ずっと小骨がノドに引っかかっているような気分でいる。
何をしたのやら詳細は教えてもらっていないが、パドマの身体は幼児退行しており、バカ弟子は嫌われていた。骨を折ってやったのに、本当にバカで使えないヤツだな、と思っていた。だが、パドマは他人に異常に甘い。もう関係が修復され、おかしな愛称でカイレンを呼ぶようになった。このまま放っておけば、師匠の望みは叶いそうだった。
だが、こうなってみると、なんでこんなものを望んでいたのだろうと思う。師匠はパドマを本当の妹にして、存分に可愛がり倒すつもりでいた。だが、今の自分は、弟と弟の彼女のおじゃま虫になっているだけではないか。どこに妹を可愛がり倒す余地があるのか。妹と義妹は似て非なるものではないかと、ようやく気が付いた。パドマには、美味しいごはんを食べさせてやりたいが、カイレンの嫁など知ったことではない。飯など食いたければ、勝手に食えばいい。そこまで、弟の面倒は見切れない。
だとするならば、何のためにあんなことをしたのだろう。それをずっと考えている。
パドマは大きくても小さくても、手間がかかるのは変わらない。だが、小さくなったら、カイレンとの距離が縮まったようだ。他の男たちに抱かれて移動することも増えた。まったく嫌がらないし、震えていない。怖い思いをせずに済むなら、いいことだろう。それなのに、それを見るのも、イガイガする。
今も、カイレンに果実水を飲ませてもらっているパドマを、腹立たしく思っている。小さくなって自分でできないらしいと知っているのに、未来のカイレンの妻なら何の問題もない、と思うのに。
かつて、ヴァーノンに抱いていた気持ちと、似ている気がする。我こそは兄だと争っていたのだが、いつの間にか、ヴァーノンが気にならなくなっていた。あの時は、必死に争っていたのに、何故だろう。
パドマを手元に置いて、ごはんを作って食べさせてやりたかった。パドマを死地に置いても生還するように育てたかった。パドマを撫で回し、抱きしめて可愛がりたかった。パドマの喜ぶ顔を見ていたかった。
それは、かつてカイレンに抱いていた感情に似ている。里帰り出産で会えない日々が続いたが、同じ家で暮らすことになったカイレンを母から強奪して、目一杯可愛がって育てたのだ。長じてカイレンを連れ歩けない状況に至っても、師匠は意地でもカイレンを手放さず、独力で育てた。周囲は反対したが、誰よりも優秀さを見せつけ、カイレンの育児も手を抜かず、全てを黙らせて、ワガママを通した。カイレンが師匠の身長を追い抜き、くそムカつく発言をするようになるまで、それは続いた。
カイレンは弟だが、パドマは女だから妹だ。そう思っていたのだが、師匠は5人いる妹たちを育てたことはない。親の手伝いで世話をしたことはあるが、育てようと思ったことはない。5歳も過ぎれば、可愛げもなくなりもういらないな、と思っていたくらいだ。パドマと妹たちは、何が違うのだろうか。
普通、異性に愛情を持つとすれば、恋だろう。だが、パドマに抱く思いと、かつて妻に抱いた思いは、似ているとは思えなかった。
当時、師匠には妻しかいなかった。カイレンはいたが、赤子だったから除外する。両親との折り合いが悪く、兄妹仲も冷えていた。近所に友だちはおらず、妻とだけ仲が良かった。
だが、よく考えたら、妻とも仲が良いとか悪いとかいう関係でもなかったのかもしれない。妻は、モンスターだった。それを誘拐同然に、家に連れ帰ったのだ。師匠の庇護がなければ、即座に殺される。だから、師匠の顔色を伺って生活していたのを愛されていると勘違いして、この人だけは自分を認めてくれると、依存していたのかもしれない。
そうであるならば、これこそが恋なのか。パドマを抱くと感じた胸苦しさは、病気ではなかったのだ。初めてのことだから、気付かなかった。正直、パドマは面倒臭いだけで、少しもいい女ではない。惚れる男たちの気がしれなかったから、自分までその仲間になるなんて、考えもしなかった。恋は理屈ではどうにもならないとは、こういうことかと納得させられた。
それに気付いて初めて、過去に想いを寄せられた時に踏みにじって歩いたことを、申し訳なく思った。断るにしても、あれは酷かったな、という記憶が、ゴロゴロある。だが、もう1度同じ体験をすれば、同じように踏みにじるだろう。パドマ以外は、興味がない。恨まれて、嫌われるくらいで丁度良い。
師匠は、パドマを見た。本人は3歳だと言い張っていたが、1歳でも通りそうな小さな子どもになってしまった。それでも中身は変わらずパドマで、顔も身体も面影しかない。7年経てば、初めて会ったパドマに戻る。15年待てば、数日前のパドマに戻る。それは焦がれて待つには長い時間だが、師匠が過ごした年月を思えば、瞬きするくらいでしかない。
パドマは、カイレンにカリンのシロップ煮を食べさせてもらうところだった。師匠はパドマを抱いて、食事を阻止した。
「何? なんで、邪魔するの?」
睨んでくるカイレンに、師匠は蝋板を出し、注意を書き込んだ。
『幼児にハチミツを食べさせると、死ぬことがある。加熱しても、食べさせるな!』
カリンのシロップ煮には、大量のハチミツがかかっていた。甘い方が喜ぶだろうと、カイレンがかけたのだ。師匠は、そこに付け入る隙を見つけた。
「え? そうなの? 教えてくれて、ありがとう。わかった。これは自分で食べるよ。パドマの分は、また頼む。だから、パドマを返して」
カイレンには、師匠の目論見はバレているようだが、それは気にする必要はない。カイレンは、完全にパドマに尻に敷かれている。場を支配しているのは、パドマだ。心配になるくらい食い物に釣られるパドマなら、釣り上げるエサには不自由しない。
『デザートの怨みは怖いから、カリンゼリーと、いちじくのクリームチーズ乗せと、栗山ケーキをご馳走しようと思う』
という蝋板をパドマに見せたら、パドマは喜んだ。
「師匠さんに、ついてく!」
チョロかった。パドマは、カイレンに意見を聞くことなく、両手を上げて即決した。
「ダメ! パドマは、お兄さんの婚約者」
「残念だったね。それは100年後。その上、嘘吐きれんれんとは、浮気をしてもいー約束をしてるから、誰と何をしても何の問題もないんだ。まだ婚約式もしてないし、不満なら別の人と取り替えたらいい。ウチは何も困らないから、お構いなく。師匠さんのデザートが食べれないなら、結婚なんてしなくていーよ。そもそも何で結婚するって話になったか、覚えてない? ウチは、ししょーさんの妹になるために、れんれんでいいやって思ったんだよ」
カイレンが反対しても、パドマは拒否した。パドマを妹のように愛して、いつか掠め取ってやろうと、師匠はほくそ笑んだ。
次回、テッドがとうとう10歳に。