30.心理的外傷
阿鼻叫喚の人々に囲まれた朝ごはんを終えたら、ダンジョンに行く。パドマは、恐怖の18階を通り抜けなければならないのが、憂鬱だった。剣など抜かなくても、足で踏んだだけで勝てる、その程度の敵なのに、見ただけで泣きそうになる。
ウインナーのおかげで、プールはなくなったのだが、1匹見ると、かつての惨状を思い出してしまうのである。毎日何度も見せられ続けたのだ。忘れようとも、なかなか忘れられない。火蜥蜴を見ても、イモリと誤認する有様だ。
「え? なんで、泣いてるの?」
親に捨てられたり、森暮らしだったり、兄が兄じゃなかったり、思春期かもしれなかったり、イレには対処しきれない爆弾をいくつも抱えた娘が泣いている。突然泣き出しても、何の不思議もないとは思うが、泣かれても困ることしかできない。して欲しいことを言ってくれたら、やろうと思うが、どう相手したらいいかが、わからない。
「イモリが怖い」
「かじられても、ちょっと痛いくらいのコレが?」
「?!」
イレの右手の人差し指が、イモリになっているのをパドマは見てしまった。黒くて、長くて、瑞々しい。ミミズにしか見えないイモリだった。パドマは、目を見開いたまま、動かなくなった。口は、わずかに動いているが、何を語る訳でもない。
「師匠、これダメだわ。荒療治か撤退か、2択だよ。撤退でいいよね? 荒療治したら、殺すよ、マジで」
イレは、パドマを肩に担いで歩き出した。師匠は、珍しい困り眉で、後ろをついてくる。
「しばらく、目をつぶってて。すぐ抜ける」
17階層まで戻れば何ごともないのに、パドマは、イレにしがみついて離れなかった。重たいだろうし、そもそものイレの目的地は反対方向だろうし、迷惑この上ないのはわかっているが、離れなかった。意地でも離れてやるものかと、噛みつかんばかりにくっついていたのだが、そろそろ降りて欲しいと頼まれてしまったので、諦めて降りた。いつの間にやら、イレの家の居間にいた。随分と遠くまで、運んでもらってしまった。
「ごめんなさい。自分で歩けば良かった」
パドマは、ようやく自力で動き出したが、まだ小刻みに震えていた。目の焦点があっているかも怪しかった。
「気にしないでいいよ。女の子にしがみつかれたのは、100年ぶりくらいかな。お兄さんも、まだまだイケてるね」
パドマも、そろそろ米俵1つ分よりも大分重くなっているのだが、何ということもなかったかのように、イレは笑っていた。
「ちなみに、100年前は、どんな状況で?」
「親を亡くした子猿の母親代わりをしてたんだよ」
おじさんが母親とは? 様子のおかしい自分を笑わせようとしてくれているのか、パドマが猿だと言いたいのか、なんなんだろうな、とパドマは思った。残念だが、今は、怒る気力は出て来なそうだった。大人しくソファに座った。
「それ、今のウチを揶揄してんじゃないよね?」
「そうだね。パドマは、どちらかというとウリ坊だし」
イレは、真剣な顔をして答えを探していた。バカにしている訳でも、気遣ってくれている訳でもないことを、パドマは確信した。
「ありがとう。とても嬉しくない」
「パドマは、何をしたい?」
イレは、どかりとイスに座った。ダンジョンには、戻らないらしい。師匠は、珍しくカマドで火を焚いている。イレに惚れてしまったので、尽くさせるのはやめて、尽くすことにしたのだろうか。
「したいことなんて、特にないけど」
質問の意味がわからなかったので、素直にそのまま解釈して答えることにした。今までずっと、した方がいいことと、しなければならないことはあったが、したいことがあったかどうか、考えたこともなかった。食べたい物を言うくらいの心当たりしかない。だが、今は食べていくらも時間は経っていない。食べる必要もない。
「質問を変えよう。19階層以降に行きたい気持ちはあるかな? 18階層を通らずに行けるなら、行きたい? もしくは、17階層までで終わりにするか、ダンジョンに行くのをやめるか、どれがいい」
イレは、足を組んで、とても冷めた目をしていた。パドマは、目を逸らして答えた。
「ダンジョンで稼ぐのが、ウチの仕事。安全に効率よく稼げるなら、何階層でも構わない」
「安全を取るなら、ダンジョン探索者の職業選択は、あり得ない。今なら、他の職業も選べるよ。お兄ちゃんと一緒に働いてもいいし、ここで家政婦をやってくれてもいい。今預かっている金を小出しにしたら、しばらく遊んでてもいいくらいだ。食費も家賃もなけりゃないで、何とかなるよね?」
「イギーの家も、イレさんちも、どっちも嫌だな。それなら、毎日イモリまみれになる方を選びたいよ」
「そこまで嫌われてるとは、泣いてもいいかな! 18階層は、しばらく出禁だよ。どうしても通りたいなら、毎回師匠に抱かれて、今日みたいに通ればいい」
カマドから師匠が飛んできて、唐突に2人の世界が始まったので、パドマは、いたたまれずカマドに移動した。師匠の後を引き継いで、お茶を入れてみたら、美味しくなかった。間違いなく、胸を張って家政婦に雇ってもらえる味ではなかった。
パドマくらいの年になれば、他所の子は、家の手伝いをしたりする過程で、生活に困らない程度のスキルが身につくと聞いたことがあった。このままでは、パドマは、師匠のような宿暮らしで散財して、家事をみんなにやってもらうような生活しかできないのではないか。兄のスネをかじるにしても、血のつながり以前に、家のことを何もできない方が迷惑ではないか、と思われた。
「師匠さんって、野菜料理が得意なんだよね? 教えてもらえないかな」
聞いてはみたものの、今は、2人の世界で忙しいらしい。何の返事もしてもらえなかった。
パドマは、武器を持たずに家を出た。フライパンを持たずに外に出たのは、2年以上ぶりだ。左手が、とても軽い。
「パドマ、今日は、どこへ行くんだ?」
ヴァーノンは、仕事を休むこともしばしばあるが、パドマが休むのは、とても珍しいことだった。少々どころでない体調不良時も、なんだかんだでダンジョンに通っていた記憶しかなかった。
「ごめんね。しばらくダンジョンはお休みにして、師匠さんの花嫁修行に付き合うことにしたの」
「嫁に行くのは、早過ぎるぞ」
「そんなことないよ。交際を始めたのは昨日でも、赤ちゃんの時からの付き合いがあるらしいし、別にいいじゃん。諦めなよ」
「そんなの俺くらいしかいないだろう?」
「何、夢見てんの? もうお兄ちゃんじゃ無理だよ。ウチは、諦めたよ。案外、似合いの2人だよ」
「誰の話だって?」
「イレさんに師匠さんが嫁ぐんだよ」
「なるほど。理解した。邪魔はしない程度にしろよ」
ヴァーノンは、パドマが急に結婚願望に目覚めたのかと思ったのだが、誤解していたのに気付いた。
イレと師匠がカップルになったのは、パドマの安全を確保するために、師匠を追いかけ回す人間をなくすための小芝居だ。3人で話し合いをした時に、ヴァーノンが提案して、嫌がる2人にゴリ押ししたのだから、間違いない。周囲はどうか知らないが、まだパドマは騙されているようだ。おかしな画策を始められるより、余程いい。パドマの誤解は解かないまま、道をわかれた。
「任された」
パドマは、元気そうに歩いて行った。
いつも通り3人で朝ごはんを食べたら、イレと別れて、市場に買い物に行った。パドマも師匠も市場になど行ったことはないが、場所だけなら何となく知っている。カゴを下げた師匠とたどり着いたはいいが、よく考えたら、師匠はしゃべらない。荷物持ちはしてくれるだろうが、買い物はパドマの仕事かもしれないと、着いてから焦った。何を買うのかから、わからないからだ。
だが、師匠は、1人で勝手に買い物をしてくれた。買っているよりもらっている量の方が多い気はするが、指さしと首振りだけで意思疎通を完了させていた。
いつぞやの靴屋では、どんぶり勘定も甚だしかったのに、今日は値切って買い物をしている。ベテランのおばちゃんも目を見張る、とんでも値切りが成立するのは、やはり顔の造作のおかげなのだろうか。師匠は、あっという間に食材まみれになった。持参のカゴには入り切らず、パドマにも持たせた上で、頭の上にまで荷物を乗せて歩いている。
まだ買い物をしたがっているようなので、慌てて止めた。
「買い忘れがあるにしても、一回家に置いて来なきゃ無理だよ!」
師匠を連れて、イレの家に行くと、師匠は食材を放り投げて、紐でぐるぐる巻きになった。また奇行が始まったと思ったが、自分も巻かれて気がついた。
「袖を片付けたのか」
びらびらと広がる袖は、生活をする上で、何度も邪魔だな、と思ったことがある。片付ける方法があるなら、もっと早く知りたかった。
師匠は、エプロンをつけて、とてもやる気をみせている。井戸から、次々と水を汲み上げてくれるので、買ってきた野菜を全部洗った。
種類別にテーブルや調理台に並べていたら、師匠はナイフを出した。濃い緑の葉物野菜をザクザク切って、パドマにナイフを差し出した。
「そっか。ウチが、切らないといけないのか」
ここ最近のナイフの使い道は、投げるばかりであったが、それ以外にも使ったことはある。師匠のマネをして、同じように切って、脇に片付けた。
師匠は次々と新しい野菜を出した。細長い棒状の物や丸い芋、ボールのように大きい野菜は、なんだろうか。運ぶのが困難なほど買い込んできた野菜を、全部切らないといけないことに気付いて、パドマは少し目眩がした。同じ野菜でも、複数の違う切り方を指定されたり、指定された切り方が難しすぎてイライラしたりした。
「どうやったら、そんなに薄く切れるの! 師匠さんが宿暮らししてる気持ちがわかったよ!! めんどくさ」
師匠は、ふてくされるパドマをふわふわと微笑み眺めながら、手はものすごい勢いで野菜を千切りしていた。
「なんで手元を見てもいないの? 危ないよ!」
師匠が粉を水で練って作った白い丸に野菜を包んで焼いたり、鍋に放り込んで煮込んだり、炒めたりするお手伝いをしていたら、見たことがあるようなないような料理が次々とできた。
「すごい。師匠さん、マスターみたいだ」
師匠は、一切味見をしないで調味料をドカドカ入れていたので、味付けは不明だが、見た目だけは立派な料理ができあがった。テーブルには、サラダと2種類の野菜炒めと餃子とミルクスープが並んだ。パドマが切った野菜は不恰好だったが、師匠が切った分は、均等に切れているばかりでなく、本人を見れば納得の美しい飾り切りまでされているものがある。普段、何もしないのでナメてかかっていたが、イレが褒めていたのも納得だ。ただ手でちぎっただけの野菜まで仕上がりが違うのが、理解できない。
「あれ、ちょっと待って。作ったのはいいけど、これ、誰が食べるの? ウチ1人じゃ無理だよ。師匠さんも食べてくれるの?」
師匠は、微笑みとともに、弁当箱を出した。ごはんを作る予定があっても、食べたくないから他に買ってきていたようだ。仕方がないから、勝手に戸棚を漁って、弁当箱を借りて料理を詰めて、ヴァーノンとレイバンに押し付けに行って減らしてから、改めて昼食にありついた。
「美味しい」
師匠の気分で適当に作っていると思しき料理は、マスターが作ったものと遜色ない味に仕上がっていた。
料理が出来上がって、初めて野菜の正体も分かったし、できないなりに切り方は理解した。いなくなった母よりも、今でもいないこともない兄よりも、師匠の方が料理の腕は格段に上だ。師匠が嫁に行ってしまう前に、料理を習得しようと決めた。
次回、イモリの克服。いや、イモリは克服してない気がする。