294.続プロポーズ
「ひどい。結婚してくれるって言うから、見せたのに」
イレは席を立って、じわりじわりとパドマと距離を詰めた。パドマはスモークチーズの皿を持って、逃げた。テーブルをくるくると回って逃げる。イレが手加減しているから逃げられているが、本気を出されたら、一瞬で終わってしまう。パドマは焦った。
「だって、ウチが奥さんなんて、いくらなんでもイレさんが可哀想だからさ」
「パドマ、好きだよ。好かれてなくても構わないから、結婚してよ。他の人の物になるのを見てるよりは、ずっといいからさ。パドマが結婚してくれたら、幸せになれるよ」
イレは、パドマが逃げるスピードに合わせて追いかけた。速く逃げれば速く追い、遅く逃げればゆっくり追う。そう大きいテーブルではないから、どちらかが追いつかないように気を付けて追った。
「いやいやいやいや。イレさんは、知らないからそんなことを言うんだよ。ウチは、可愛い女の子じゃないんだよ。嫌でしょ。そういう子が嫌いなのは、知ってるんだよ」
イレは昔、絵本にでも出てきそうな可愛い女の子像を、パドマに押し付けてきていた。そういう女の子が好みなのだろう。だが、パドマはそんな子には努力したって、もうなれない。どれだけ師匠に頼まれても、無理なものは無理だ。
「パドマ以上に可愛い女の子はいない」
「だから、それ、誤解だから。妄想だから。ウチさ、清い身体じゃないんだよ」
パドマが言った瞬間、イレの足は止まった。ああ、やっぱり嫌いなんだなと安心して、パドマはスモークチーズを口に入れた。イレは、冷たい目に変わった。
「師匠?」
「そんな訳ないよね。師匠さんのこと、何だと思ってるの? 最近じゃないよ。イレさんと知り合うずーっと前だよ。誰と聞かれても知らない人だから、答えられないよ」
「そっか。だからか」
意味もわからず怯えられる現状に合点がいって、イレはパドマを見下ろした。パドマは目を伏せている。言いたくないことを言わせてしまったか、ただチーズを食べたいだけなのかわからなかった。だから、謝罪はしなかった。
「そう。だからなの。だから、やめとこう、ね」
パドマが寂しそうに笑ったから、イレはまた追いかけっこを再開した。
「結婚しよう」
「なんでだよ!」
「顔を見たんだから、責任とって」
「だから、他にお嫁さんを探してあげるから!」
「誰でも良ければ、もう結婚してたよ。好きな人じゃなきゃ嫌だから、独身を貫いていたんだよ。パドマでないなら、全員断る。パドマを紹介してくれないなら、結婚しないよ。師匠の遺言を聞いてあげて」
今度は、イレのスピードが徐々に速くなったから、パドマは必死で逃げた。チーズを食べる余裕もなくなった。
「死んでないって言ったじゃん」
「パドマが結婚してくれるなら、師匠を殺してくるから問題ない」
「やだ! やめて!! そんなことしないで!」
パドマが足を止めて、わんわん泣き始めた。元々言葉のあやで、半分は本気ではなかったから、イレは訂正した。
「パドマが結婚してくれるなら、生かしておく。だから、結婚してね」
「なんでだよ」
「さっきの話は、ショックだったよ。嫌だと思ったよ。でもね、結局、パドマじゃなきゃ嫌なんだ。これをつかまなきゃ、後悔するのがわかるから。前にパドマが言ったんだよ。これが最初で最後の大チャンス。つかませてくれないかな」
イレは手を差し出した。OKしてくれるとして、パドマはイレの手をさわることはできないだろうことはわかっていたが、パドマの手をつかませて欲しいから、手を出した。それを見て、パドマは嫌そうな顔をした。
「ウチは、イレさんのこと、好きじゃないよ」
そう言って、パドマは一歩下がった。
「うん。パドマには申し訳ないけど、お兄さんはそれでもパドマのことを好きだから、一緒にいられたら幸せ」
気持ち悪いだの、目が怖いだの、顔が好きじゃないだの、散々言われた後である。なんとか怯えられないようにと、イレはパドマの大好きな師匠を真似て、微笑んだ。
「イレさんのこと、怖くてたまらないから、すぐには無理だよ」
パドマは、更に一歩下がった。言葉通り震えているし、泣いている。顔は、これでもかという程、怯えを浮かべていた。イレがずっと見続けてきた可愛いパドマの顔だ。笑顔にしてあげたいと思い続けてきたが、今はイレが追い詰めて泣かせている。その自覚があっても、イレは引けなかった。
「うん。彼女なんて、ずっといなかった。今更10年20年待つのなんて、へっちゃらだよ。100年だって、待ってあげる」
パドマに威圧感を与えないように、イレは座った。
「え? 100年? それは、ちょっと気が楽になったかも。あとね、あとね、お兄ちゃんに嫁に行くのは禁止されてるの。婿ならいいよ、って言われたんだけど」
「両親は既に他界している。うちの跡取りは師匠だから、お兄さんは嫁取りでも婿取りでも構わないよ」
イレは、パドマにプリンを近付けた。パドマはチラリと見たが、手は伸ばさなかった。
「そっか。じゃあさ、結婚式をするならウチは鎧を着なきゃいけないんだけど、どう思う?」
「鎧? なんで? 結婚式は、花嫁さんの夢だって聞いたことがあるから、パドマが着たいものを着ればいいと思うけどさ。、、、なんなら着る物沢山用意して、お色直しでもしたらいいんじゃない。鎧でも仮装でも、お好きにどうぞ」
イレは思わず嫌そうな顔をしてしまったが、パドマが嬉しそうな顔をしたから、慌てて微笑み直した。すると、パドマが怒り始めた。テーブルをバンっと叩いて、悔しそうな表情を浮かべる。
「なんで、嫌だって言わないの! 変なこといっぱい言ったのに」
「大切なのは、パドマと結婚することだから。それ以外には、惑わされないよ。他に何が必要? 何を言われても、もう本気で取りに行くって決めたから。パドマ兄にも、師匠にも、それ以外にも、もう譲ってあげない。誕生日には毎年チーズを300個買ってあげるし、ミルクはヤギごと買ってあげる。だから、結婚しようよ、ね」
「ヤギごと!」
「ヤギ飼育キット一式。飼育員飼料付き。ミルクを遠慮なく分けてもらえるように、沢山飼おうか」
イレの切れ長の目が笑うと優しい顔に変わり、パドマはトキメキを感じて、驚いた。まったく興味のなかったイレのきらきらしい顔が、少し格好良く見えてきたような気がして、パドマは頭を振った。そんなことだから、いろんな人に食べ物の話ばかりされるのだ。他の用件ならいざ知らず、そんなことで結婚は決めてはいけない。幸い、相手は騙されやすいイレである。イレを手玉に取れるカードを、パドマは持っていた。
「お父さんって、呼んでもいい?」
うふふと笑って、イレ好みの女の子を演じる。虫酸がはしるが、ヤギのためだと思って耐えた。可愛い女の子を演じるパドマを見て、イレの顔が蕩けた。ヒゲがなくなって、なんてわかりやすい! とパドマは心の中で腕を上げ、勝利宣言をした。
「娘には、ヤギは1匹しか飼ってあげない」
イレは、それはそれは嬉しそうな顔で、無情な宣告をした。娘気分で接していたから、その線も否定はしないが受け入れなかった。
「1匹じゃ、ミルクをもらえないじゃん!」
パドマが悲痛な声をあげても、イレはブレなかった。これは本音だから、揺るがない。
「娘には、ヤギの出産シーンを見せたくないから、しょうがないよね」
「意地悪。意地悪。意地悪っ。ケチな人、大っ嫌い。結婚して下さい」
パドマは、とうとう陥落した。そもそもここで逃げ切っても、後ほど師匠と兄にやり込められて、どうせ結婚させられてしまうのだと思っているからだ。どうしても逃げれないなら、ヤギ付きの方がマシだと思った。
「はい。謹んでお受け致します」
イレがパドマを抱きしめたから、パドマは大絶叫を上げて、嫌がった。
パドマは泣きながら、チーズはんぺんを頬張った。
「イレさんの嘘吐き。100年待つって言ったのに。1拍も待ってないじゃん。騙された」
「ごめん。結婚は、ちゃんと待つから。でもさ、結婚の約束をしたら、婚約者でしょう? 恋人でしょう? それなのに、ハグもダメなの?」
パドマに泣いて暴れられ、激ギレされた後、また2人は食卓を囲っている。食べているのはパドマだけだか、イレも付き合っていた。
「結婚だけじゃなくて、婚約式も恋人になるのも、100年後だから。無理だから! 嫌なら断って」
「キスもダメ?」
「するごとに、イレさんのことが嫌いになる。大丈夫になる努力はするつもりだけど、努力にも限界があると思って欲しい」
「じゃあさ、呼び名を変えてもらうのは? お兄さんの名前は、カイレンって言うの。パドマだけに特別なあだ名で呼んで欲しくて、イレさんって呼んでって言ったのに、皆にそう呼ばれるようになっちゃったからさ。恋人ができたらね、レンレンって呼ばれるのが夢だったんだけど」
カイレンは、うわー言っちゃった! と1人照れていた。このくねくねするくだりは見たことがあるな、ヒゲを取ってもこの人は気持ち悪いんだな、とパドマはおのれの見る目の確かさに納得した。
「それだけなら、譲歩できる」
「ありがとう」
性懲りも無くカイレンの手が伸びてきたから、パドマはかわした。
「女の子をさわりたいなら、ウチはイレさんのことを縛る気はないから、100年の間に恋人でも奥さんでも好きに作ればいい。スッパリ身を引くから、安心していいよ。だから、ウチにさわらないでね。怖いの! 誰が背の高い男がいいって言ったんだよ。大きければ大きいほど、怖いよ!」
怒るとお腹が空くのか、パドマはガツガツむしゃむしゃと食べている。カイレンの嫌いな躾のなっていない女の子を演じているのではなく、これが地だ。
「ちょっと待ってよ。パドマは良くても、お兄さんは嫌だよ。恋人なんて作らないでよ」
「本当に節穴だな。ウチがどうやって恋人なんて作るの? 必要に迫られても、受け付けられないのにさ」
「羊飼育キットに釣られて」
自分で言い出したことだし、それで受け入れてもらえたなら不満は言えないが、似たようなプレゼントでパドマがなびかない保証はなく、カイレンは不安しかない。大金貨を積んでも、キレイな顔を晒しても見向きもされない女の子は、かつて出会ったことがないし、それ以外の自分の推しに心あたりがなかった。ずっと師匠に負け続けた自信のなさが、止められない。
「それならもう持ってるから、いらない」
「持ってるの? なんで?」
次に切ろうと思っていたカードは、切る前に消滅していた。カイレンは慌てた。牛を飼うには土地が足りない。パドマを手に入れるためだと気付かれたら、もう土地は借りれない。ルーファスを落とす黒い算段を、腹の中で巡らせ始めた。
「きのこ神への献上品。神殿で飼ってるよ」
「誰がくれたの? その人好き? 好きでも怒らないから、付き合わないでね!」
カイレンの仮想敵は、アーデルバードの男全てである。最大の敵は師匠だが、ヴァーノンもルーファスもペンギン野郎も、きのこ男も全員黒だ。何ひとつパドマの気に入る要素がないらしい自分では、パドマを繋ぎ止める自信も信頼もなくて、みっともないと思っても、カイレンは必死に食いつくしかできない。
「何それ。3人も奥さんがいる既婚者だよ。師匠さんの機嫌取りの献上品なのに、なんで付き合わなきゃならないの?」
「パドマが取られないか、心配してるの。お兄さん以外の人のものにならないでね」
そんなことを言うなんて、なんて格好悪い。そう思うのに、カイレンは言わずにいられなかった。格好つけて、パドマに惚れてもらわなければならないのに、掠る気配も手ごたえもまったくないから、みっともなくなるばかりだった。師匠のようにあればいいと、正解がわかっているのにカイレンにはできない。
「もうとっくのとうに」
「その件は、カウントしないから」
「しようと思っても、無理なのに」
「しようとしない確約が欲しいんだよ」
「じゃあ、イレさんが約束を守ってくれてるうちは、しない。裏切ったり、うっかりしたりしたら、知らない」
パドマは、ニヤリと笑った。きっとロクでもない企みが潜んでると思うのに、カイレンの心は弾んだ。
「う、うっかりは許して欲しいかな。あと、呼び名は、レンレンだから!」
「わかった。それならウチも、うっかりは許してね」
パドマは、カイレン好みの可愛らしい微笑みを見せた。企みはそれか! とカイレンは思ったが、ハズレだ。パドマは、この関係を維持することは、そもそも求めていない。
「い、や、だ!」
「うっかりは、しょうがないよね。わざとじゃないよ?」
パドマは、楽しそうにカイレンを見ている。慌てているカイレンを見るのも面白かったし、ようやくカイレンに約束を守らせることができるかもしれないと思っているのだ。
「い、や、だ!」
「じゃあ、れんれんも、うっかりしないように気をつけて」
「はい。重々気を付けます」
浮気をする言い訳をしているのではなく、パドマもカイレンのことを信頼していないのだと、カイレンにもわかった。パドマに出会ってからは、パドマの機嫌取りしかしていなかった。それなのに信頼してもらえていないことに、カイレンは肩を落とした。好かれる道の遠さを、思い知った。
「ちなみに、その約束は、出会った頃からした約束全部が有効だからね。今日以降の約束だけじゃないから」
「えっ?」
「ウチはかなり裏切られた気持ちでいるんだけど、れんれんは、ちゃんと守ってるつもりでいるみたいだから、構わないよね」
「緊急時以外は、パドマに触らない。自宅のチーズは、勝手に食べない。ペンギンの餌代と白蓮華の寄付金を、定期的に支払う。他に何かあったっけ?」
「ペンギンの餌代なんて、まだ払ってくれてたの? ちょっと待って。ウチ、すごい面倒で嫌なヤツじゃない? そんなに貢ぐ価値なんてないのに」
「いいの。お兄さんの唯一の特技なんだから。好きでやってるんだから。恋ってね、そういうものなんだよ。利害じゃないの。パドマのためにできることなら、何だってするの。出来ることしか出来ないけど、ずっとずっと好きだったから」
「ごめん。いいこと言ってる気がするのに、気持ち悪くて、鳥肌が止まらない」
カイレンは、自慢のキレイな顔で情に訴える作戦に出たが、期待した反応は得られなくて、心が折れそうだと思った。どうでもいい女の子はカイレンの顔を褒めてくれたものだが、パドマはヒゲを取る前と反応に違いがない。
「この顔見て手のひら返されたら嫌だと思ってたけど、そこはもう少し変わってくれても良かったよ?」
「うん。綺麗だとは思うけど、好みじゃないから。ウチが好きなのは、お兄ちゃんの顔だから。そういえば、比較的綺麗な方のお兄ちゃんは、ここにいないの? 一緒にいると思ってたんだけど」
「お兄ちゃん? パドマ兄を綺麗と表現するのは、パドマだけだよ」
「違うよ。頭と目の色がウチと同じでさ、師匠さんが大人になったみたいな顔したお兄ちゃん。居留守を使ってなければ、この辺にいるよね?」
パドマはキョロキョロと、周囲を見渡した。上階と違って、ここには壁があるから、他の部屋は見えない。
「その人と、知り合い?」
「うん。物心つく前から、ずっと騙されてたんだ」
「そっか。そうなんだ。じゃあ、ついて来てくれる?」
「これ食べ終わったらね」
パドマは大量に並べられていた料理をすべてたいらげてから、カイレンの後について歩いた。
次回、ばいばい師匠さん。