282.氷結の微笑み
ライオンから逃れて、階段を下りた記憶がある。だが、何故かパドマは階段の踊り場で、師匠に抱かれていた。どうしてそんなことになったのやら、まったく記憶にないので、きっと歩きながら寝てしまったのだろう。パドマは、そう思って嘆息した。
「師匠さん、ごめんね。やっぱりさ、師匠さん1人で行ってもらった方が早いよ。全然先に進めないんだもん。いい加減にしてよ、って怒る役は引き受けるからさ。大人しく、ここで待ってるよ」
パドマからは師匠の顔は見えないものの、膝に当てられた手が、ずっと心音に合わせてぺしぺしと動いているから、起きてるだろなと見当をつけて話しかけた。
「ひぃい」
師匠が手を止めて、抱きついてきたから、パドマは悲鳴を上げた。嫌だ! という意思表示をしているだけなのはわかるが、別の方法で知らせて欲しいと、パドマは抵抗した。
「こういうのは嫌いだって、言ったじゃん」
や! や! と、じたじた暴れていると、師匠は手を離した。これ以上ないほど不満気に膨れていたが、パドマの様子を見て、動きを止めた。パドマは青い顔で震えていた。
しつこくし過ぎたらしい。師匠は反省して、膝から下ろして、パドマを横に座らせた。だが、簡単には恐慌状態は直らないようだった。ヴァーノンだったらこうならないのにと思いかけて、以前パドマがヴァーノンを嫌がっていた事例を思い出した。
パドマが自分をもっと甘やかすように要求して、ヴァーノンが実行したら嫌がっていなかったか。もしかして、兄だからではなく、無抵抗な棒人間だから仲良くしていられたのか。ヴァーノンでも、ヴァーノンから抱きついたら受け入れられないのだ。そこから導き出された答えに行き着いて、師匠はこれから自分がしようとしていることの、パドマの負担を不安に感じた。
『ごめんね』
いつもの適当すぎる謝罪を見て、パドマは泣いた。
「そういうんじゃないって、わかってる。でも、無理なの。ごめん」
師匠はミニテーブルを出して、サイフルコースを並べた。パドマは、泣きながら食べた。
師匠は、食べられるうちは大丈夫かなぁ、と迷っていた。今なら、引き返せる。今なら、なかったことにできる。脳内で争う、先には進んではいけないという警告と、行けばパドマが手に入るという誘惑に揺れている。
ヴァーノンが婚約してしまったから、当面の脅威は何もなくなったと思うのに、師匠は負けた気持ちが拭えないのだ。あれは、誰がどう見てもパドマの都合しか考えていない選択だった。ヴァーノンは、パドマが自分と結婚しないで済むように、適当な相手を見つけて来て、結婚したのだ。師匠はパドマが喜ぶなんて理由で、リブやニナとは結婚できない。したくない。だから、負けたくなくて、確かな証が欲しくて、焦っていた。
どこの誰だか知らぬヴァーノンなんかより、自分の方が近しい存在なのだから、負けるなんて認めたくなかった。今度こそ、パドマは全員妹にするのだ。師匠は、決意を固めた。
腹が満たされると、自然と気持ちも落ち着いて、パドマの顔色も戻った。
「こっくりして、美味しいね。これ、何の肉?」
などと、普通に話し始めたから、師匠はとぼけた。
『多分、ゾウ』
パドマを慰める方法が分からずに、うっかり出してしまったが、愛でていたサイの肉でした、なんてことは言えない。師匠とて、タヌキ汁を出されたら、恐らく泣く。だから、その気持ちもわかるのだ。
「多分? ごめんね。わかんなくなっちゃうくらい大変なら、今度は手伝わせてね。ほとんどウチが食べちゃうんだから、料金も請求してね。妹だって、成人してるんだから、そこまで甘やかさなくていいんだよ」
ヴァーノンには、もっと甘やかせと甘えていたくせに、と不満に思ったが、師匠は首肯するだけにした。
階段を半分下りるだけだから、すぐに88階層に着いた。ここにいるのは、コモドドラゴンだけである。
半分以上はしっぽだとはいえ、小さいものでイレの身長を超え、大きいものはパドマの2倍以上の大きさともなると、もうトカゲには思えなかった。口からチョロチョロ漏れる舌が火のようだが、火蜥蜴の近縁には見えない。あちらはぬらぬらとして、柔らかそうな質感だが、こちらはムキムキの筋肉質だ。師匠のお腹と、ギデオンの上腕二頭筋くらいの別物である。
体色は濃灰色で、灰褐色、または黄色の斑が入る。全身硬いウロコに覆われ、鋭い爪が生えていた。
パドマは、赤い剣を抜いた。ウロコが斬れるか不明だが、炎はなんらかの効果があるかもしれないと思ったからだった。
大き過ぎるのも困りものだが、体高が低いものも戦いにくいんだよな、と面倒な気持ちをむくむくと膨らませていると、腰に師匠の手が回った。
何を? と不満を口にする前に、師匠はパドマを抱えて跳んだ。コモドドラゴンとの戦闘をせずに、真っ直ぐに階段のある部屋に向かって、連続で跳んでいく。
あっという間に階段に着いたが、パドマは朝ごはんがミックスされたことにして、気分を悪くしてうずくまった。師匠は荷物を運んだだけなのはわかるのだが、接触されたのが嫌だったのだ。顔色が土色になっていた。
師匠は、青くなった。コモドドラゴンには勝てないだろうと気を遣ったつもりが、致命症を与えてしまったようだ。何か食べ物はないだろうかと、模索した結果、パドマにキャベツを1玉差し出してみたが、嫌そうな顔をされた。
「そんなのもらって喜ぶとか、イレさんじゃないんだから」
お菓子だと思って差し出したものがキャベツだと知って、師匠も驚いた。オヤツにキャベツ1玉は、確かにひどい。せめてキャベツケーキくらいは用意したかった。キャベツ1玉なんてパドマには似合っているが、師匠のコンセプトには合わなかった。
師匠は慌てて、キャベツとタルトレットの箱を取り替えて出した。食事向けのエビのタルトレットと、フルーツを乗せたタルトレットはどっちがいいかと見せたら、両方とも取られてしまった。師匠は、仕込みの在庫量が不安になってきた。だが、飴玉を取り上げて、別の方法で機嫌取りをする自信はないし、パドマの顔を見れば師匠も嬉しくなって、またいっぱいお菓子を作って来ようと思った。
お腹の調子が悪いフリをしようとしていたのも忘れて、パドマは幸せそうにタルトレットを頬張った。
パドマはタルトレットを食べ尽くすと、フロアに戻って、コモドドラゴンと対峙した。それを見た師匠は、止めに入った。
先程までは、パドマは戦闘をスキップしようと言っていたし、師匠は戦えと言っていた。それが反対になってしまっている。それぞれ折れた結果である。だから、お互いに折れてやったのに、何が不満だと思っている。
パドマは師匠ごと斬るつもりで突っ込んで、コモドドラゴンは両方食おうとノシノシ歩いてくる。射程圏内までたどりつくと、首をかしげて師匠の足首に齧りつこうと口を開けた。師匠は、パドマの腕をつかんでとめ、コモドドラゴンを蹴り飛ばした。
「なんで邪魔するの!」
パドマが睨みつけたら、師匠は怯んで手を離した。パドマが止められないのなら、師匠には奥の手が残っている。自前の赤い剣を引っ張りだすと、柄を握って力を込めた。結果、師匠の周囲は炎ではなく、冷気に包まれた。それがじわじわと広がっていく。
「寒っ。何? 何をしたの?」
金属鎧を着ているパドマは、冷却に耐えかねて、ガタガタ震えて師匠を見た。師匠は、静かに剣で階段を指している。冷気と佳人の微笑のコンボに気圧されて、パドマは素直に従った。
「かしこまりましてございますー」
階段まで撤退したパドマは、怨みがましい目を師匠に向けた。
「なんで止めたの?」
師匠は、無表情で2枚の蝋板を差し出した。
『しばらくは動かないから、今なら殺戮しても良い』
『咬まれたら、44階層に直行する』
パドマは、数字を見た瞬間に、蝋板のフタを閉じた。その数字は、このダンジョンで最も不吉な階層だった。つまり、即座にタランテラの魔法を施さねばならない、危険な毒を持っているということなのだろう。
キスするぞ、という脅しだ。師匠もしたくてしてるのではないことくらい、パドマも気付いている。仕方なく渋々しているだけで、救われたパドマに怒られるなんて、割に合わないことをしてくれているのだ。感謝すべきことなのはわかるが、それでもパドマは嫌だった。
「そっか。やるなら、帰りにしよう。師匠さん大好きイレさんと、誰でもOKなキス魔の師匠さんが揃えば、怖いものなしだもんね」
パドマが納得して答えると、師匠は、断る、お前たちで好きにやれ、とハンドサインを出した。
「なんで? 恋人とだけは、人前ではできないの? 面倒臭いこだわりだな!」
だが、パドマは覚えていた。誰相手でも平気で口付けをかわす師匠は、タランテラダンスの後、イレにほっぺチューをされただけで、静かにぶちギレて、後程イレに地獄の特訓を課していた。
『何があっても、アレとだけは嫌だ』
「仲良しそうに見えるのに、どうして? でも、まぁ、ウチもイレさんとキスするくらいなら、出血多量で力尽きる手前で、生きながら食いちぎられて食べられる方を選ぶから、人のことは言えないか」
師匠の気持ちを変えさせるなんて大事業は、面倒なだけである。パドマは即、興味を失った。師匠は、食い入るように、パドマを見た。
師匠は、そんな具体的に細かく検討しなかった。嫌なものは嫌だ、という子どもじみた発想をしたにすぎない。それに引き換え、パドマの意見は無駄に生々しかった。軽いキスより、マシだと言われた内容がグロすぎて、アレはそんなに嫌われてるのか! と師匠は震えた。
次回、89階層と兄。ダンジョン飽きた。早く出たい。