281.ナッツバー
87階層では、美しい毛並みの獣がパドマを魅了した。少し前に、大量殺戮をしたような気がする大型猫型獣の楽園が広がっていた。イレさん牧場を襲っていた獣と違い、のんびりと寝転がっていたから、ゆったりとした気持ちで、それを眺めることができた。あの時は、そんな余裕はなかったが、階段上から見る彼らは、美しく、神々しく感じられた。
このフロアにいるのは、ライオンとトラだった。ずっと眺めていたいが、今はそれは許されない。
ライオンは、オスは師匠より大きく、メスは師匠より小さい。背面の毛は明るい黄褐色か赤褐色で、腹面は背よりも色が薄い。尾の先は、暗褐色の房が付いている。オスは体毛と同じか、それより濃い色のタテガミが頭や首周りに生えており、メスは首毛がアゴの下から胸の辺りに生えている。
基本的にはオス1頭とメス5頭以下のセットで点在しているが、オス2頭でいたり、メス1頭で寝転がっているものもいる。
トラは、小さいものならパドマといい勝負で、大きいものは、イレよりも大きい。背面の毛は明るい黄褐色か赤褐色で、腹面と目の上は白い。そして、体全体に黒い縞模様が入っている。
トラはライオンと違い、単独行動が基本のようだが、中には2頭並んでいるものもいる。やはりみな寝転がっていた。ダンジョンモンスターにも、就寝時間があったのだろうか。
「どうしよう。イレさんを助けに行かなくちゃって言ってる時に、暢気にぐつぐつライオンシチューとか作っても、許されると思う?」
パドマは、深刻な顔をして、師匠に相談を持ちかけた。
師匠は、今日の日のために、ゾウのシチューをこっそり用意していた。それをゾウのフロアで出したのだ。実は、サイ料理も用意していたが、可愛いと言われてしまっては出しにくい。それは、封印することにした。セイウチとアザラシの肉は、師匠が好きではないので用意しなかった。ライオンとトラに関しては、味を知っているパドマが食べたがるとも思っていなかった。故に、用意はない。だから、ダメだと否定した。
「そう、だよね」
パドマが切な気に瞳を伏せたから、見目のいいヤツはずるい、と師匠は思った。そんな顔を見せられてしまえば、ライオンを仕留めて、10回くらい茹でこぼしてやろうか、という気持ちがムクムクと湧いてきてしまう。馬鹿弟子など、いつまででも待たせておけば良いのだから。
「どうせ殺るなら、帰りじゃないと、毛皮を取っても邪魔なだけだもんね。もう絶対にイレさんを許さない。帰りの荷物にライオンとトラを30ずつ乗せてやる」
パドマは抜剣し、瞳をギラリと光らせ走り出て行った。
階段の位置はわかるので、それに向けてまっすぐ走っていく。
一部屋目にいたトラは、寝そべったままだったので、そのまま通過した。二部屋目は、何もいない。三部屋目のトラは、跳んできた。
パドマはまだ通路にいたが、慌てて部屋の中に跳び入った。そのおかげで、トラから逃れることはできたが、トラは通路を踏み外して、穴に落ちていった。
「また落ちた!」
他人事なのに恐ろしくて、思わず見とれてしまった。跳んだ後、前転して立ち上がってはいたが、2頭目のトラもパドマに向かって跳んで来た。気付いていたが、見とれていたから初動が遅れた。もうダメだ、と思いつつも、横っ飛びで逃げてみたところ破城槌が飛んできた。トラより恐ろしい破壊兵器は、パドマの髪を掠めてトラに直撃し、トラと共に飛んで行った。
パドマは、気が付いた。
師匠は、パドマが戦わなければ、戦場に放り込む。だが、真面目に戦う気があるのであれば、ピンチの時は助けてくれる。つまり、戦うフリだけしていれば、そのうち師匠がなんとかしてくれる。勝つ必要はない。
だが、助け方が雑な場合、蹴飛ばされて骨を折られたり、攻撃に巻き込まれて死ぬこともあるに違いない。だから。
最も気を配るべきは、トラでもライオンでもなく、師匠の助け方!
そう胸に刻んだ。
だが、現実問題、師匠が何をやらかすかなんて考えたくもないから、師匠の助けを借りないのが無難だ。失敗失敗てへ、と奈落に蹴り落とされる未来が容易に想像できる。なんなら、うっかりを装って、わざとやりやがるかもしれないと疑うくらいだ。
「正々堂々飛びかかってきたトラちゃんに、酷いことをしないで!」
パドマは寸胴剣を師匠に向けて悪態をつくと、4部屋目に向かった。4部屋目のトラは、飛びかかってきたのを下をくぐった上で、反転し、飛びかかって頚椎を薙いだ。返り血で目がやられたところにトラが反撃の姿勢を見せたから、師匠はトラの横に跳んできて、金属棒をフルスイングしてトラを吹っ飛ばした。
パドマが師匠を見ていると、怒られると思った師匠は、金属小箱を差し出した。パドマが箱を受け取って開けると、大量のナッツバーが入っていた。パドマのお腹も自分と同様にたぷたぷにしてやろうと、黒い師匠が作った高カロリー携行食だった。パドマは、師匠の目論見に気付かずに、喜んで食べた。
「ありがとう」
ふわりと笑ったパドマが可愛くて、師匠の膝が折れた。それを見たパドマは、立ち食いは見苦しい、と怒られるのかと思い、ピシッと座って食べ始めた。
姿勢は大変宜しいが、顔は緩んでいる。師匠の黒い思惑など考えもせず、幸せそうな顔で、パドマはせっせとナッツバーを口に運んだ。師匠は、それを素直に可愛いと思った。やはり、妹はこうでなくちゃと、嬉しくなった。だが、ナッツバーは、パドマの口には合わない味だ。濃いキャラメル味で激甘に作ったのに、文句も言わずに食べるなんて、余程お腹が空いてるんだろうなと気付き、師匠はそれを作った当時の自分を呪った。何故、もっとパドマ好みに作らなかったんだ! そうしたら、もっと喜んでもらえたかもしれないのに。
だが、パドマは師匠の目論見から外れ、少しも腹は膨れなかった。50人前食べても太らない人間が、少々高カロリー食を食べた程度で変わる訳がない。
パドマは師匠に水も分けてもらうと、立ち上がって、階段を見た。まだまだ通り道にトラもライオンも沢山いる。死なずに通り過ぎ、イレをとっとと見つけたら、言いたい文句は刻々と増えている。余りに多すぎて、見つけるまでに覚えていられるか自信がないから、早く見つけなくてはならない。
パドマは、次の部屋に向かった。
次の部屋には、はぐれメスライオンがいた。ライオンも、トラ同様に飛びかかってきたので、横に避けがてら首を斬り、先の部屋に走った。
次の部屋のライオンは、オス1頭にメスが3頭いた。4頭が扇状にじわじわと寄ってくる。パドマが間を通り抜けようとしたらオスライオンが飛びかかってきたから、前に逃げた。すると、オスライオンはパドマを追ってきた手負いのライオンとぶつかり、戦闘を開始した。
その調子でこそこそと、敵同士をぶつけてパドマは逃げ歩いた。たまに師匠に助けられながら、無事に階段まで辿り着いた。卑怯千万だが、自力で倒すメリットが特にない。素材を回収しないなら、相手は死んでくれなくて構わないのだ。
ダンジョン外の肉食獣を狩るのは、そう苦労しなかったが、遮蔽物のないダンジョンで敵対するのは、大変なのだ。
お土産の持ち帰りだけでなく、毛皮狩りもイレにやってもらおうと心にメモをして、パドマは階段を下った。
眠れねむれ我が最愛の
眠れねむれ良い子よ
次回、88階層。