275.バグ
81階層には、シカがいた。背景が石レンガでさえなければ、牧歌的な風景がそこにあった。あちこちにシカが点在して歩いている。
シカさんは可愛い。シカさんは美味しい。今まで、パドマはシカが大好きだったのだが、今日初めて、シカを見て恐怖した。ジャイアントムースは、半端なく大きかった。パドマが思うシカとは、見た目も少々違う気もしたが、やはり圧倒的な違いは大きさだった。
普通のシカなら、抱きしめるのにちょうど良さそうなサイズ感だと思うが、ジャイアントムースは、頭高も頭胴長も、パドマの身長の倍ほどあった。体重ならパドマの10倍から20倍くらいありそうである。大きさだけならキリンの方が大きかったかもしれないが、それとはまた違う威圧感を感じた。ツノだけでイレの身長くらいあるからだろうか。2本生えているから、頭の上にイレが2人いるようなサイズ感だ。大きいものが、より大きく見える。シカなのに大きすぎて、脳の処理がバグっているような気持ち悪さを感じる。
ダンジョンの魔法で大きくなったのではなく、外の世界でも同じサイズだと言うのが、恐ろしい。アーデルバード近郊にはいないが、ちょっと北に行った辺りやトレイア近郊にはいるらしい。パドマは実際に見る機会はなかったが、店の商品に描かれた絵は見た。話も聞いていたが、こんな風だときちんと理解していなかったことに気が付かされた。
そして、もう1つ問題があった。壁がなくなってしまった。
100部屋の外周になる壁はあるが、1部屋ごとの壁がない。部屋の床と部屋を繋ぐ通路はあるが、部屋を区切るものは穴である。壁があるべき場所に、穴が空いている。
1部屋目にジャイアントムースがいなかったことをいいことに、穴をそーっと覗いてみたが、その先には何もなかった。今までの階段の長さを思えば下階が見えそうなものだが、何もない。ただの闇だった。
「うわ。実はこれ、シカよりこの通路を歩くだけの方が怖いんじゃない?」
アーデルバードの山のように高い城壁から、何度か落ちたことのあるパドマである。高いところは、すっかり嫌いになっている。ここは、高いか低いかすらわからないのだ。絶対に落ちたくない。敵と戦わずに下階に行ける楽な道だと言われても、落ちたくない。
でも、悪いことばかりではない。階段がある部屋は行く前にわかるし、敵のいない部屋を知ることもできる。100部屋全部見て歩かなくても、イレがいれば見つけることができる。鳥や魚などの空を飛ぶ系の敵が出てくると、100部屋分すべての敵が1度に押し寄せてくる可能性があるのだが。
パドマは階段のある部屋を確認し、なるべくシカのいない部屋を選んで向かった。通路は2人並んで歩いても余裕がある程度には広いのだが、柵がない上に、落ちた先がどうなっているかわからないから、怖くて仕方がない。
パドマは、無言で師匠の袖をつかんで歩いて行った。命綱代わりだ。きっと力一杯押しても、師匠は落ちない。落ちたとしても、涼しい顔をして跳んで出てくると信じてつかんだ。師匠はそんなパドマを一瞥しただけで、何の反応もなく歩いていく。
全部屋戦わずに階段まで行けなかったので、ジャイアントムースがいる部屋を通ることになった。通路を1人で歩くのが嫌だから、普通に部屋についてきて欲しいのに、師匠が手前の部屋から動かなくなった。
「大きいって言っても、シカだよ? 大丈夫だよ。向こうから逃げてくよ。美味しいよ?」
パドマが何を言って引っ張っても、微動だにしない。力任せに押しても引いても動かない。
「何がお兄ちゃんだよ」
と悪態をついた時だけ、僅かに反応が見られたが、やはり歩いてはくれなかった。
「むきー。いいよ。もう置いて行っちゃうからね。イレさんを見つけたら、師匠さんを置いて飲みに行っちゃうんだからね! ずっと1人で、そこに立ってたらいい」
パドマはぷりぷり怒って、へっぴり腰で歩いて行った。なるべく真ん中を選んで、そろりそろりと通路を進んで行った。
部屋に入る直前、ジャイアントムースがパドマめがけて走ってきた。たまたまパドマがいる方角に走り出したのではない。首を下げて、ツノを前方に出して突撃してきたのだから、攻撃する意思があるのだと思う。
「ひぃい!」
パドマは、慌てて走った。ジャイアントムースが到達する前に部屋の入り口に飛び込んだ。すると、恐ろしいことに、ジャイアントムースはスピードを落とさないままに、方向も変えずに走り続け、そのまま穴に落ちていった。
クラゲやアイゴに比べて、この階層の敵が少ない理由を知った。きっと沢山落ちているのだ。今はもう穴を見ても、何も見えない。ジャイアントムースは相当大きいのに、豆粒になっていく様は見えた。穴は相当深いに違いない。
部屋からジャイアントムースがいなくなると、隣の部屋からぴょんと師匠が跳んできた。無駄に命知らずな行動をとる師匠に、パドマはドン引きした。
師匠はしれっと合流してきたが、さっきの恨みがあるので、パドマはもう師匠の袖を頼らない。師匠の袖はちょっとシワになっているので、いっそもっとシワくちゃにしてやろうか、という気持ちも湧いたが、無視したまま次の通路を歩いた。
次の部屋にいたジャイアントムースは、後ろ脚で立って、前脚でパドマを踏み潰そうとしてきた。
「逃げないシカなんて、ウチはシカだと認めないよ!」
パドマは、赤の剣を抜いて、軸脚を斬りつけると、ジャイアントムースは倒れた。あわや下敷きになるところを、パドマは強引に横っ飛びして逃げた。咄嗟に違う方向に行っていたら、潰されていた。
「!! あぶなっ、あぶな? なんで」
前脚の踏み潰し攻撃を避けるついでに全体重を乗せた全力斬りをお見舞いしてみたが、いかんせん、今着ている鎧は軽い。キリン戦を参考にすると、痛打を与えられる予定はなかった。剣から炎を出していたので、温度に驚いてひっくりこけただけかもしれないが、巨体が倒れてくるのは、かなり危険だ。
ジャイアントムース自身も転んだことでダメージを負ったらしく、バタバタと暴れて、立ち上がるまでにタイムラグがあったので、その隙に首を刈らせてもらった。致命症を与えたと思うが、即死させるほどの傷はつけることができなかった。復活しないならまぁいいかと、パドマはそれを放置した。
「師匠さん、腹が減っては飯が食えぬって言うじゃん。大シカをたまたま倒したんだけど、食べてもいいかな」
火蜥蜴と対戦する間に、まあまあ時間が過ぎていた。腕は痛いし足は痛いし、疲労も溜まった。少し休憩もしたいし、パドマのお腹はぐるぐると鳴っている。次の階層に食える敵がいるとは限らないのだ。食えるうちに食った方がいいと、パドマの腹は言っている。
「ちょっとだけ、おやつね」
パドマは、手慣れた様子で解体を始めた。大きくなってもシカはシカである。ロースともも肉を切り出して、フライパンと赤い剣を使って肉を焼いた。焼けたら食べて、食べながら焼いて、1頭分のロースともも肉だけ食べ終えると、腹いっぱいとはいかないが、まずまず満たされたので、パドマは立ち上がった。
「もう少し食べたかったけど、緊急事態だし、我慢するか」
調理に時間をかけたら進まないので、料理に参加せず、ソースも提供しなかった師匠は、パドマの食事量に引き、目を逸らし続けた。
ジャイアントムースはかなり危険だ、ということを身をもって体験したパドマは、戦わない作戦をとることにした。
走ったジャイアントムースに跳ね飛ばされたり、倒れるジャイアントムースにぶつかったりすると、穴に落ちてしまうような気がするからだ。潰されるのも嫌だが、穴に落ちる方が怖い。
だから、パドマは走った。走って走って走って、たまに急激な方向転換をし、ジャイアントムースの突進の目標位置を誤魔化す。前蹴りも後ろ蹴りも、いっそジャイアントムースの股下を走り抜けてかわした。彼らの脚は長いから、パドマなら身を屈ませることなく通り抜けることができた。
師匠は、ぴょんぴょん跳んでついてくる。それを視界に入れず、全力で走って、階段に飛び込んだ。
ダンジョンに来た時点で、足が痛かったのだが、いよいよ我慢がならなくなったので、パドマは足鎧を外して検めた。腿の辺りが痛いのはケガではなさそうだったが、足裏近辺の傷が拡大していた。道理で痛いと思ったと納得し、師匠にもらったポーチを開けると、焼き菓子が出てきた。
「傷薬じゃないのかよ!」
パドマが怒り狂うと、師匠がつつつと寄ってきて、足を洗って、消毒して、包帯を巻いて、また鎧を装着した。
「傷薬ないの? もう、ダンジョンセンターでもらってきたら良かったのに! ポイントなんて溜め込んでたって仕方がないんだよ。こんな時に使うものなんだよー」
『ごはん作りに夢中になってたら、在庫がなくなった。あんな劣化品は使わせない』
師匠が走ってもらってきてくれたら、すぐに手に入るだろうに、どうやらもらってきてくれなそうだぞ、とパドマは渋面になった。
「じゃあ、今すぐ帰って作って来て! ウチは先に行ってるから。どうせすぐに追いつくでしょ? お金払うから、ポイントもあげるから。こんな足じゃ、いくらももたないよ」
『1人じゃ寂しい』
可愛くしょぼんとした師匠に、パドマはブチ切れた。
「おじいちゃんのくせに、かわいこぶるな! 師匠さんはアルパカじゃないんだから、1頭で放置しても死なないし! もう何なの? 準備もさせてくれないくせに。足の傷を抱えて戦うの、危ないんだよ? 痛くて反応が鈍るし、踏みしめると滑るんだから。ウチを死なせたいのか。そうか、そうなんだ。わかったよ」
パドマは、スタスタと階段を下った。
パドマは、怒っていない。パドマの傷を無視してイレを探す師匠に、暗い気持ちになっただけだ。
次回、子守唄