268.vs鯱
パドマは、夕暮れに目を覚ました。部屋が橙色だから間違いない。朝焼けとは色が違う。皆が寝る頃に起きてしまうなんて、困ったものだった。もう1度眠れる気がしない。それもこれも、騒がしいヴァーノンの所為だ。
文句の1つも言ってやろうと、ヴァーノンの罵声が聞こえる方向の戸を開けたら、目の前で、ヴァーノンと師匠が抱き合っていた。パドマは、急いで戸を閉めた。
何か変なものが、視界に入った。前々からその兆候がなかったかと言えば、なくはなかったかもしれない。ヴァーノンは、師匠の顔が大好きなのだ。2人揃って赤い顔をして、見つめ合って。
ヴァーノンの怒声が、ずっとしていた。あれは愛し合っているのではなく、襲いかかっているのだろう。ならば、師匠を助けなくてはならないのに、身体が震えて動かなかった。
「気持ち悪」
パドマは、その場でうずくまった。
「誤解だ! 違うぞ。全然、違うからな!」
師匠の部屋で抱き合っていた片割れ、ヴァーノンが戸を開けて、パドマのいる救護室に入ってきた。パドマは顔面蒼白なまま、鳥肌を立てて震えることしかできないのに、ヴァーノンはズカズカと入ってくる。
「お前は寝てるのに、師匠さんが気にせず部屋に押し入ろうとするのを、止めてただけだから! それ以外は、何もないからな!!」
「さわ、るな」
パドマには、ヴァーノンのウソはすぐにわかった。師匠が部屋に入るのを止めるなら、ヴァーノンは廊下側にいなければならない。師匠の部屋にいることがおかしい。
実際は、廊下でもつかみ合いをして、自室から回り込もうとした師匠を捕まえているところだったのだが、パドマは誤解を解かなかった。
ガタガタ震えるパドマを、ヴァーノンが腕をつかんで振っている。師匠は、バカ兄妹だなと思ったから、ヴァーノンを殴り飛ばして、パドマを抱えてダイニングに移動した。今日の夕飯は、チーズフォンデュを用意している。
前回、パドマが喜んだからいけると思ったのに、パドマは自力でイスに座れる状態ではなかった。やむを得ず、師匠がイスに座り、パドマをひざに乗せて、芋をチーズにくぐらせたものを少しだけ冷まして、パドマの口に運んだ。
パドマはまったく欲しがらなかったが、口に入れてしまえば、大抵の物は食べる。師匠はパドマの様子を確認しながら、次々とチーズに食材を浸し、パドマの口に運んだ。焦がしパンも、炙った燻肉やウインナーも口に入った。空腹が満たされるうちに、身体の強張りもとれていくのが、わかる。
「おーいーも」
師匠は甘えた声を出し始めたパドマを可愛く思ったが、脇腹をむにむにとつままれているのを悲しく思った。自分は嫌がられたのに、師匠は受け入れられていることを、ヴァーノンは悲しく思った。
パドマが脂身をつまんで確かめたかったのは、握力の復活だった。震えていうことをきかない身体を調整するのに、師匠の脇腹ほど都合の良い物はなかった。師匠に抱かれている状態はとても嫌なのだが、お腹周りをふにふにとしていると、なんとなく温かい気持ちになってくるのである。嫌そうな顔をする師匠が可愛く見えて、受け入れられるような気すらしてくる。だから、嫌がられているのは気付いた上で、執拗に脇肉をつまんでいた。
山のように積まれていた食材は、パドマの腹の中に消えてしまった。脂の乗った燻肉、噛むと皮がパリッとはじけて肉汁が出るウインナー、ほくほくと甘い芋、中までチーズが染み込むカリッと焼けたパンのチーズフォンデュは最高だった。チーズフォンデュの具材にチーズが出てきた時は、バカなのかな、と思っていたパドマも、食べたらまた師匠が大好きになっていた。
パドマを蹴って突き飛ばして、窮地に追いやるひどい人だが、そんな嫌なヤツは今まで沢山見てきたから。嘘泣きしてパドマを騙して嘲笑う嫌な人だが、パドマを泣かせてうっそりと笑う男や囃し立てる子どもはいっぱいいたから、そんなことは普通のことだと思っていた。だから。
パドマの食の世界を開いてくれて、パドマに常識を与えてくれて、パドマに夢をくれた師匠に惹かれた。決して、顔が可愛かったからではない。可愛いから油断したり、可愛いから安心したりしたり、可愛さがなければそもそもスタートラインまで行かなかった疑いはあるが、それが主な理由ではない。
パドマは眠れそうにないので、師匠に鎧を着せてもらった。いろんなものをぶちのめした結果、まあまあドロドロになっていた鎧は、キレイにメンテナンスされていた。そういうところが心地良い。そのままお任せでやらせてばかりいたら、嫌われてしまいそうだが。
ヴァーノンに反対されたが、パドマは外に出た。いつもよりも大きく明るく色が濃い丸い月の下をダンジョンに向けて歩いて行く。途中にいくつも閉じられた門があったが、開けるのは面倒だから飛び越えて行った。後ろからこそこそついてくるヴァーノンと護衛は、通用口の開錠にまごまごしているが、パドマは容赦なく置いて行った。そして、海に出る。
鎧を着たのだ。絶対にダンジョンに行くと思われているだろうと思って、パドマはあえて行くのをやめたのだ。海と陸地の境目にある柵に腰掛けて、海を眺めた。星見をしたかったのだが、今日は月が明るいからそれほど多くは見られなかった。空には雲がない。潮の香りと波の音に包まれながら、満天の星を眺めるつもりでいたが、うまくいかず、パドマは下を向いた。海に映る月も美しかった。
「やっぱり星じゃあ月には敵わないね」
そうこぼして足をぷらぷらさせていると、師匠はパドマに首飾りを増やした。宣伝の結婚式の時にくれたダブルループのネックレスは、黒茶の兄がくれたペンダントの石を師匠が勝手に加工して作ったものだった。壊した上、返却をしてくれなかったので、効能は同じだよと丸め込まれて、あの日以来、パドマの首にはダブルループのネックレスが下がっていた。そのチェーンより少し長いネックレスが、師匠によって下げられた。先に白い球がくっついている。
「なに?」
白い球を指で弄びながらパドマが聞くと、師匠は蝋板を出した。
『小さい月。シャチの歯から作った新商品。神殿の売店で売る』
「ごめん。字が小さくて、月明かりじゃ読めない。後で見せて」
海に飛び込んだら沈むかな、という誘惑がむくむくと湧いてきたので、パドマは柵から降りて道に戻った。
大回りに散歩をした後、パドマは師匠とダンジョンに入場した。階段は致し方ないが、それ以外はなるべく迂回しながら静かに進むと、53階層でヴァーノンを見つけた。パドマがレッサーパンダに引っかかっていると予想しているらしい。たまにうっかり猫を蹴飛ばすヴァーノンにイラつきながら、パドマは接触せずに通過した。
67階層でマダコを仕留めて、70階層で休憩をとり、タコ焼きかイカ焼きかわからないものを食べたら、79階層に下った。
下ってすぐの部屋には何もいなかった。そろりそろりと部屋を移動すると、3部屋目にシャチが6頭いた。パドマは、「シャチちゃん発見!」と走り寄って行った。
パドマは部屋の中心に立ち、シャチを見上げている。シャチは、パドマの周りをぐるぐると回っていた。パドマは、キレイ、速いなどと言ってはしゃぐだけで何もしない。あまりにも何もしないから、やられてしまった。中でも大きな個体の尾鰭ではたかれて、吹き飛んだ。
師匠は、顔を青くしてパドマを追った。そのまま壁に当たれば、あの身体はまた骨折する。場所が悪ければ、死ぬ。そうとしか思えないから、壁とパドマの間に挟まって衝撃を緩和しようとして、パドマに蹴られた。パドマは、師匠を踏み台にしてシャチの下にもどり、赤の剣で焼き切った。
「ベーコン! ステーキ! ハンバーグ!! 串焼き! 唐揚げ! 食べたいな!!」
パドマは、呑気な掛け声とともに、一刀でシャチを輪切りにした。シャチはパドマの元いた場所をぐるぐると泳ぐだけで、反撃に移らなかったから、簡単に斬られた。あっという間に、シャチが台座別れして転がったのを見て、師匠の顔は白くなった。剣筋は素直で、無駄に速かった。あれは、もしかしたら自分に向けられたら、避けきれないかもしれない。
「ねーねー、師匠さん、これどうやって解体するの? ステーキはどこ? 面倒だから、丸焼きにしてかぶりついた方が早いかな?」
パドマは、師匠に問いかけているようで、聞いてはいない。3枚下ろしにしようとして背割りにして失敗し、腹割りして失敗し、適当に横っ腹から切り身を切り出そうとし始めた。このまま置いておけば、シャチはすべて売り物にならなくなるだろう。
師匠は台車をごとごとと沢山出し、その上にシャチだったものをくくり付け、それらをワイヤーで連結させ、先頭車両にパドマを乗せると、パドマがバラした個体から赤身を切り出し、剣で焼いてパドマに持たせた。
「師匠さんも剣を使えたんだね」
パドマがご機嫌で焼いただけステーキを食べるのを、師匠は無視して帰途についた。帰り道で護衛たちを拾い、台車がダンジョンに引っかかるのを防止させるまでは、曲がる度に前に進めなくなり、難儀した。
しばらく進むとパドマが寝てしまい、台車から落ちた。ヴァーノンが拾って抱えると、寝たまま悲鳴をあげた。
寝たままでもバレた、嫌われた、と落ち込む鬱陶しい男を排除して、師匠はパドマの鎧を剥がした。その上、服までむいたので、護衛たちは慌てて後ろを向き、ヴァーノンは怒り狂った。
「パドマは女ですよ? やめてください!」
だが、やかましいヴァーノンも、黙らずにはいられなくなった。パドマの白い背中が、大きく赤黒く変色していた。パドマは明るくふざけていたが、これを隠していたのかと、師匠はやるせない気持ちになった。
師匠は懐中から戸板を出し、布団を乗せると、氷板をタオルで巻き、置いて固定した。その上に、ヴァーノンが着付け直したパドマを仰向けに寝かせ、逃げようとするから、軽く縛りつけた。その際に、パドマの下着類の紐をぴぴぴと取ってしまったから、またヴァーノンが騒いだ。
だが、師匠はそれを放置して、護衛に戸板を水平に持ってついてくるよう頼んで、急ぎ帰った。
きのこ神殿に戻ると、師匠は人払いをし、救護室にパドマを寝かせ、呼吸と手足の状態を確認した。本当は、起こして本人に話を聞きたいところだが、正直に答える気がしないのと、寝ていれば痛くないだろうと、起こさなかった。
だが、師匠の置いた氷の所為で、パドマが濡れてしまった。慌て過ぎたことを反省して、着替えさせて、ベッドに寝かせた。
今日の寝言の話題は、シャチ一色だった。だから、安心して付き添い、師匠はいつまでもパドマを見ていた。
次回、ケガの治療。