258.マグロがいない理由
食べ過ぎて苦しくなったパドマは、ハワードによじ登って、連れて帰ってもらった。食い過ぎで歩けないなんて、ボスの姿勢として正しくない。かなりバカにされているような気がして、誤魔化すために寝たフリをしていたのだが、フリではなく、いつの間にか本当に寝ていた。どういう時間配分なのかよくわからなかったが、ダンジョンでは2泊3日過ごしたらしく、戻ると唄う黄熊亭の開店時間だった。
間違いなくヴァーノンは怒り狂っているのだが、今度は笑顔ではなく、泣いているヴァーノンと対面させられて、パドマは困惑した。
「ごめんね。マグロは見つからなかったの。そんなに楽しみにしてたなら、今からもう一回行って、探してくるね。こっそり自分だけ食べたりしてないからね」
ヴァーノンは、パドマがダンジョンに食われたという報告を聞き、ダンジョンに探しに行った結果、パドマを見つけることができず、家に戻ってはいないだろうかと一時帰宅をしたところでパドマに再会したから泣いているのだが、パドマには伝わらなかった。パドマは確かにダンジョンに食われたのだが、寝ている間に戻ってきたので、まったく自覚がなかったのである。
「もう行かなくていい。マグロなら店にある。お前のマグロだ。全部食っていいから、もう行くな」
「え? なんであるの?」
ヴァーノンは、抱きついて来た上にのしかかってきて、パドマは支えきれずにひっくり返りそうになって、そこでやっと離してもらえた。
マグロは、アーデルバード近海では獲れない。遠洋産が入荷されることがあるが、市場に出回っているのは大体ダンジョン産だと言われている。ダンジョンでマグロを見つけられなかったのに、普通に自宅にマグロがあるのが解せないのだが、あるというなら席に着いた。
パドマは、店の食材を無断利用して、ピッチャー3つ分、サングリアを作って、席まで持って行った。ワインは大量にあるからいいと思うが、果物やハチミツも遠慮容赦なく使ったのに、マスターもヴァーノンも泣いて喜んでいた。何だか様子が変だな、とは思ったものの、怒られないのはいいことである。お金だけ払って、パドマは客席へ逃げた。
パドマが座ると、カマトロのオーブン焼きと、尾の身の煮付けが出てきた。パドマが見つかったという報は、ダツと遊び始める前に送られていたから、帰り時間を予測して、先んじて仕込まれていたものである。
カマトロは、脂乗りがよく、柔らかくて美味しかった。パドマは白身の魚ばかり食べていたが、ホロホロと崩れて食べやすい赤身肉もいいものだと思った。尾の身は、肉の様な旨みとともに、コラーゲンのぷりぷり食感が楽しめる面白い魚肉だった。
それらをもぐもぐと楽しみつつ、サングリアの甘さに溶かされて、パドマはだらけていた。師匠がいる日はしゃんとしているのに、いないことをいいことに、テーブルにひじをついて、だれている。いつもと様子が違うから、立ち飲み客からガン見されていた。そこに隣にイレが座ったから、席によってはイレが壁になり、パドマが見えなくなる。イレは無駄にヘイトを稼ぎながら、パドマに声を掛けた。
「やっと帰ってきたね、不良娘。マスターが、パドマのためにマグロを用意したのに、帰って来ないんだから。ちゃんと1匹食べるんだよ」
イレが座った途端に、ヴァーノンがエール2杯とチヌイの照り焼きを運んできたから、イレは大銀貨を1枚支払った。今日の食費のまとめ払いである。パドマはフォークを伸ばして、少しだけ盗み食いをした。
「え? マグロって、めちゃくちゃ大きいよね」
「そうだね。パドマ用は特別に、よりによってパドマ15人以上級の特大サイズを用意したからね。心して食べるがいい」
イレはニヤリと笑って、エールを1杯一気に飲み干した。パドマは、ぴょこんと身体を起き上がらせて、話題に乗った。
「そんなの、1人で食べ切れるか! どいつもこいつも、ウチをなんだと思ってるんだよ。小ちゃくて細いウチの身体に、そんなに入る訳ないから!
ん? 選りに選って? イレさんが持ってきたの?」
「そうだよ。お兄さんは、アーデルバード唯一のマグロハンターらしいからね。あれ、知らなかった? あんな奥まで行って、重たい魚を持って帰ってくる人はいないって、どこに行っても持って来てって言われるんだよ。お兄さんも、あんまりやりたくないんだけど、頼まれちゃったら、仕方がないよね。夏はね、注文が多くて、大変なんだ。
それはね、最後の1匹。こんなこともあろうかと、1匹だけ野放しにして大きく育ててたんだけど、パドマが食べたがってるならいいかー、って持って来たんだ。夢に見るほど食べたかったんでしょう? 良かったね。美味しい? でもね、夏のマグロはお刺身が人気なんだよ。是非、食べて欲しいな」
「うーん、食べてあげたいのは山々だけど、ここに来る前もダツとウツボの食べ放題してきたから、もう本当にお腹いっぱいだよ。サングリアの果物も食べる予定だから、もう勘弁して欲しい。無理無理」
パドマはそう言って、赤いワインの中のフランボワーズを食べた。
「ちっ。ウチがマグロに出会えないのは、イレさんの所為かよ。絶対に、刺身なんか食ってやるもんか」
パドマは、小さな声で悪態をついた。ペンギン席まで声は届いているようだったが、真横のイレには気付かれなかった。
「サングリア? ちょ、どうしたの? なんで、お酒なんて飲んでるの?」
「お酒の味を覚えてしまったから。知らなかったんだけど、ウチは今まで安酒しか飲んだことがなかったんだ。でもね、世の中にはそれ以外にうまうま酒があったんだよ。このサングリアはね、ハチミツ入れ過ぎちゃったから、違うんだけど。イレさん、お兄ちゃんが飲んでたあまぁい美味しいお酒は、何? ちょっと何処かで買ってきてよ」
「買ってあげるのはいいけど、そんなの知らないよ? 名前聞けば、教えてもらえるかな。
なんかふにゃふにゃしてると思ったら、パドマは絡み酒なの?」
「違うよ。まだ酔ってないし。
そうだ、イレさんをカツアゲするよりも、もっと大事なお願いがあったんだった。師匠さんがね、イレさんがぎゅーしてくれないから、寂しいんだって。愚痴られて鬱陶しいから、キリキリごはん食べたら、師匠さんとデートしてきてね。そんな話に、ウチを巻き込まないで欲しい」
「師匠は、そんなこと言う人じゃないよ。冗談でも抱きついたら、殺されかねないよ。やっぱり酔ってるよね。目も蕩けてるし」
「酔わないから。目がとろとろなのは、生まれつきだから。
イレさんさ、どうやってクラゲ通り過ぎたの? 密集しすぎて、絶対に避けるとか無理だと思うんだよ。だからさ、クラゲ階は、近々は誰も通ってないと思ってたんだ。だから、絶対にマグロはいるって信じて探し回ってたんだよ。なのにさ。イレさんが取り尽くしちゃってたんだよ。ひどいよね。ウチ今日さ、マグロ探して、ダツを全部取り尽くしちゃったんだよ。誰かに怨まれたら、イレさんの所為って言っていい?」
「え? マグロ狩りがしたかったの? ご、ごめんね。マグロはしばらくリポップしないから、ちょっとなんとか増やせないか、ダンジョンマスターに相談してくるよ」
「ええー。いらないよ。イレさんなんかと約束したって、果たしてもらえる気もしないし。期待して裏切られて、ガッカリするだけだからいらないー。それに、イレさんの仕事を奪う気もないから。いいよ。気を遣わないで。ちょっと目の前で、鬱陶しくいじけるだけだから。
ああ、イレさんが、ウチのマグロを、ウチが楽しみにしてたマグロをさー。1匹くらい残してくれてもいいのにさー。ウチなんか、ダツが刺さってればいいんだよ。めっちゃ似合うからさ。ダツブローチ!」
パドマは、赤サングリアピッチャーを、ダイレクトでぐびぐびと飲み干した。
「ちょ! ワインは、そんな風に飲む飲み物じゃないよ。危ないよ」
「らってさー。ウルーベリーが、プカプカ逃げるんらよ? ジュース邪魔らよね。らからさ。飲んやったの。ウチ、天才れしょ?」
ふふー、と笑ってピッチャーにフォークを入れると、ブルーベリーは底に落ちてしまって、フォークは届かなかった。
「イレさんのいじわる! ひどい!!」
「それは、お兄さんの所為じゃないよね。もうお酒をやめなよ」
「らって、頭悪い大アカらな、って顔しらもん。もやもやで見えないけろ、してらもん!」
パドマはがイレにイチャモンをつけたのは、ただのマグロの恨みだ。それ以外に理由はないから、苦情は酔っ払い理論で封じる。
見かねたヴァーノンが、ピッチャーの果物を皿に移し替えてくれたので、パドマは喜んでそれを食べ始めた。
「さぁっすあ、お兄やん! お兄やんは、きっといいお父さんになるお。イレさんとは、大違〜。もうお兄やんの妹はやめれ、娘になろっかにゃ〜。
と、、、それはいいとして、クラゲの極意教えてよ。どうやって、通ったの?」
ふにゃふにゃと舌ったらずに話していたパドマが、急にいつも通りだらだらと話したから、イレは驚いた。
「え? え? お酒は?」
「だから、まだ酔ってないよ、って言ったよね」
「え? 言ってたかな?」
「この牛頭! くーらーげ! クラゲの話を聞いてるのに。もうやだ。いじわるいじわる。教えてくれないなら、酒に逃げてやる」
パドマは、発泡サングリアのピッチャーを、また一息にぐいっと飲み干した。
「うわ。本当に、やめなよ! 話すから。別に秘密でも何でもないし。ただ避けて歩くだけだから」
「うそつき。あんらにみっしりとクラゲあいたら、パンラちゃんらって通る隙間なんてないんらから。酔っ払いらと思って、アカにしてさー。イレさんあそーゆーつもりなら、店おと飲み干して、イレさんのお酒をなくしてやるんらよー」
パドマは目をすわらせて、ふわふわとした足取りで、ペンギン席に行った。ペンギン席は満席だ。パドマの手もサングリアのピッチャーを抱えているので、ふさがっている。イスを持って来れない。パドマが顔を顰めたから、セスが席を譲ったが、パドマはギデオンのひざに座った。
「オスやから、座ってもいいんらよれ?」
「はい。お好きなだけお座りください」
「うむ。いい心掛けら。お兄ちゃんに、サンウリラを注文する栄誉を進せよー」
パドマはそう言って、白のサングリアを飲み干した。
「にゃあああ。やあっぱり果物入れた酒より、酒に入れた果物のあ、美味ひい」
そう言ったパドマは、ピッチャーをテーブルに置き、ぐったりとギデオンにもたれた。ヴァーノンは、パドマの前に追加のサングリアを置いた。
「パドマ、やめて! やめてよ!! パドマ兄も、何追加オーダーを引き受けてるの? 妹よりも売り上げの方が大事なの? そんなことするなら、いい加減、触ってでも引きはがすよ。怒るよ。お兄さんは、何もウソなんて言ってないし。クラゲは避けてくれるから、歩けば通れるんだよ。パドマにはできないだろうけど、お兄さんはスーパーイケメンだから、通してもらえるの!!」
イレが、パドマの横まで来て声を張り上げたから、パドマは手で耳をふさいで立ち上がった。
「なんだよ。ペンギンだけじゃなく、クラゲにも嫌われてるのか。何の参考にもならなかった」
そう言って、追加のサングリアをがふがふと食べた。先程の発泡サングリアの果物を再利用して、食べやすい器に移し替えて作ったフルーツポンチだった。ノンアルコールだから、気前よく出してくれたのだ。
「やっぱりお兄ちゃんは天才。超食べやすい。サングリアも作ってくれないかな? かな?」
パドマは、イレもギデオンも放置して、ヴァーノンにまとわりつきに行った。
「お兄さんは、嫌われてるんじゃないから!」
なおもパドマを追いかけようとするイレを、ギデオンが制した。
「心配いりませんよ。ボスは、微塵も酔ってはおりませんでした」
「何言ってるの? ベロベロだよね。パドマ兄も、甘やかして酒を持って来ちゃうし。あの飲み方を続けたら、死んじゃうよ!」
「確かに、足取りはふらふらしているように見えますが、芯は少しもブレていません。今剣を抜いたら、あなたの方が負けますよ。間違いありません」
「え? そうなの? そうかな? 飲んでなくても、まだまだ負けないと思うけどな」
イレは、自席に戻った。
すると、間髪入れずにピッチャーを5つも抱えたヴァーノンが、赤い顔に涙を浮かべて、厨房から出てきた。後ろから、上機嫌なパドマもついてきて、イレの横に座った。
「ふふふふふ。お兄ちゃんの弱点を見つけたよ。本物のサングリアをせしめてやったよー」
パドマは、とろとろに甘い微笑みを浮かべて、サングリアを見つめた。
「お兄ちゃん! マグロのお刺身盛り合わせ! イレさんの奢りで!」
「お兄さんからのプレゼントのマグロをお兄さんに売りつけるとは、なんていう商魂だ」
「だめ?」
パドマに、無自覚な上目遣いでおねだりされたイレは、絶句した。その調子で何人殺してきたんだろうと、屍を晒した人々に、合掌したい気持ちになった。
「構わないよ。パドマは自分が取ってきた物まで、お金を払ってるんでしょう?」
「うん。ここは、店だからね」
「なら、ちょっと奮発しよう」
イレは、通りすがりのヴァーノンに大金貨を渡した。
「パドマとみんなに美味しい刺盛りを振る舞ってあげて」
「やだ。イレさん、サイフだけイケメン!」
パドマは、酔っ払いモードで囃し立てた。
「だけじゃないから」
「ツノだけイケメン!」
「そんなの生えてないから」
パドマはきゃらきゃらと笑っているが、厨房で見せた顔とは別人だったので、ヴァーノンは安心して厨房へ行った。
パドマは、イレからマグロの値段を聞いて、凍りついた。小さいのやお得意様には大銀貨1枚程度で卸しているが、今日のような特大マグロは、大金貨2枚でも売れるらしい。パドマは、今日、マグロだけでイレに大金貨3枚も奢ってもらった計算になる。そんなにお金があったら、人脈があれば黄蓮華くらいなら買える。まったく返せる気がしない。ちょっと家政婦したくらいじゃ、返せる気がしない!
酒に手伝ってもらって、忘れようと思ったが、まったく酔えなかった。せめてもの償いと、苦手な刺身を頑張って食べたが、普通に美味しかった。最初は、アボカドのタルタルや、カルパッチョで誤魔化していたが、塩を乗せるだけでも食べれるようになってしまった。
次回、罪滅ぼし。