246.ダンジョンからの逃亡
パドマが目を覚ますと、ヴァーノンが微笑みを浮かべているのが見えた。何かがおかしい。
目を覚ました場所は、唄う黄熊亭の自室のベッドの上だった。パドマの手のひらの大きさは昨日と同じくらいで、ヴァーノンもすっかり成人して、ジジイへの階段を上り始めている。つまり、幼児期の回想をしているのではない。
布団の感触や、自分の肌触りはいつも通りで、妙にリアルな世界だった。朝だというのに暑さは尋常でなく、今すぐにダンジョンに行きたくなる陽気だった。夢で済ますなら、もう少し涼しくてもいいのではなかろうか。目尻が吊り上がっていないヴァーノンより涼しい日の方が、珍しさはないと思う。
「おはよう。パドマ」
「おはようございます」
パドマは、夢じゃないならこのヴァーノンは偽者だ、と結論付けた。背中を向けて、上着をかぶると剣帯を抱えて、逃げることにした。偽者でも、ヴァーノンとは争いたくなかったから。
「どこへ行く? 俺も連れて行け」
「なんで?」
「苦情がきた。具合が悪いなら、寝てて欲しいとな。お前が元気だと言い張るのであれば、寝てろとは言わない。今日は休暇で暇だから、遠慮なく連れて行ってくれ。そうすれば、俺の保護者としての面目も保てる」
「いや、でも、ウチは大人だよ? 成人して何年経ったと思ってるの? なんなら、3つくらいから1人でその辺をぶらぶらしてたよね。お散歩に保護者なんていらないよ」
「俺も、その通りだと思う。だがな、そうして放っておくと、具合の悪い英雄様を放置する鬼畜兄だの、不仲で捨てられたダメ兄だのと言われてな。紅蓮華が恐れる悪評を、俺は1人で背負うことになる。耐えられると思うか?」
「え?」
「紅蓮華は、英雄様の兄を恐れているのに、俺なんて英雄様本人に嫌われたと言われるんだ。店に迷惑はかけられないから、ここにもいられなくなるし、結婚もできないだろうな。
いや、気にしないで出掛けてくれ。うっかり説教をして家出されたくないから、軽く脅しているだけだ。俺の将来が少々ユニークなものになっても、お前が幸せなら、俺はそれで構わない。好きに生きていいんだぞ」
パドマは、ヴァーノンが笑顔でいる理由を、急速に理解した。つまりは、形だけ変えてみたが、いつも通り怒っているぞ、ということなのだろう。パドマは、ふるふる震え出した。
「とりあえず、飯だな。何を食いたい? 行くぞ」
ヴァーノンは、パドマの頭にブラシをかけると、パドマの手を引いて、外に連れ出した。パドマは時々ヴァーノンと手を繋いで歩いているが、それはパドマが繋ぐからである。ヴァーノンから手を出してくるなんて、捕獲された気にしかならなかった。
ヴァーノンとパドマが玄関を出ると、イレが立っていた。頭にツノが付けられているのは、よく見る光景だったが、クソ暑い陽気にも関わらず、毛皮のマントまで着せられていた。一応、日陰にいるが、とても可哀想だった。
パドマは、ヴァーノンから離れてイレの前に立ち、ぎゅーっと抱きしめてみたが、本物とは毛質が違った。
「こんなふわふわの毛は、イレさんじゃない」
「だから、お兄さんは、いつも何をさせられてるのかな?!」
悲鳴をあげているイレの後ろに、師匠が隠れていた。パドマがイレの後ろを覗き込むと、ヴァーノンのところへ行き、後ろに隠れた。何を考えたやら、今日は町娘スタイルでいる。ピンで留めたり布を挟み込んだり、パドマには着付けのできない難しいワンピースドレスのような服である。男の師匠にも着れるとあっては何だか負けたような気も湧いてくるが、パドマは覚える予定は今のところない。
師匠を見るヴァーノンの顔は、見るも無残なことになっていた。パドマはそれを視界に入れないようにして、イレに尋ねた。
「今日は、なんで仮装をしてるの? いくらなんでも、年明けの準備をするのは、早過ぎだよね」
「お兄さんの格好については、誰も教えてくれないからわからないけど、師匠のはパドマの所為だよ。昨日泣いてたんだ。パドマに気持ち悪いって言われたって。言われ慣れてないから、マシュマロメンタルなんだよ。それで女装を始める理由は、まったくわからないけどね」
「女装してることを気持ち悪いって言われたんであって、自分は気持ち悪くないんだよ、とか?」
「すごい。意味不明な屁理屈が、師匠っぽい。流石、奥さんだね」
「結婚してないって言ったのに、本当に覚えの悪いおじいちゃんだな! 牛の方が賢かったよ」
「おじいちゃんの次は、牛? 牛の賢さがわからないから、バカにされてるのか、褒められてるのか、わからないんだけど」
「今のやり取りで、褒める選択肢があるんだ」
イレと会話をしていたら、パドマは後ろから持ち上げられて、ヴァーノンの背中に乗せられた。ヴァーノンの仕業でなければ、師匠がやったのだろう。師匠は、ヴァーノンに蝋板を見せている。恐ろしいまでに、女ものの服が似合っていた。似合っているというか、女の子より可愛い。
『一歩歩かせると、一人前多く食べると思え。食費もかかるが、調理だけで1日終わるぞ!』
師匠とヴァーノンは、真顔で失礼なことを話し合っていた。それに腹を立てたパドマは、ヴァーノンにもたれて寝た。寝た子の重みにやられてしまえばいい! という魂胆でいたのだが、パドマは背が低い上に痩せていて、筋肉もついていない。この程度の重さを背負えねば、唄う黄熊亭の仕入れはできない。心頭滅却すれば、背中は何も柔らかくはない。暴れられるよりは余程楽なので、ヴァーノンは気にせずに歩いた。オススメの行き先があるようで、傘を差しかけてきた師匠は、左方向を指差した。
師匠に促されて来たのは、城壁門だった。そこに、馬に繋がれた幌馬車が置いてあり、乗れと言う。もうとうに昼を過ぎているし、これから遠出をするような準備はない。何よりパドマが腹が減ったと騒ぐ前に食事処に着かねば、きっと家出されてしまう。
「すみませんが、パドマに食事を取らせねばならないので」
と、ヴァーノンが帰ろうとすれば、パドマはするりと抜けて、馬車に乗った。そして、勝手に荷台に乗っていた箱を開けて、うっとりと見つめている。
ヴァーノンが追いかけて後ろに立つと、箱の中には、沢山の種類のサラダが入った小箱が入っていた。パドマは、カプレーゼが入った箱を取り出し、無許可で食べ始めた。何も気にせずに床に座って食べているので、師匠はパドマを席に座らせて、落ちないように紐で固定した。ヴァーノンをパドマの横に座るように指示して、自分はパドマの前の席に座る。
そのタイミングで、馬車が動き出した。御者台には、暑苦しい格好をしたままのイレが座っている。
かなり使い古されているように見える荷馬車は、トレイア行きに乗った馬車と同様に、改造された馬車であったようだ。街近くを離れると、馬車とは思われないようなスピードで走り始めた。ヴァーノンは、夜は店で仕事をする予定でいたのだが、パドマが幸せそうに食事をしているから、すべてを諦めた。自分で用意した食事ではないから誇れることではないが、食事に満足しているパドマを見ることができるのは、幸せだった。そんな日は一生来ないと諦めていた時期もあったから。
パドマは、遠慮なく食べ続け、これはと思ったサラダは、ヴァーノンの口にも放り込んでおいた。そして、これが好きだと、師匠にも報告しておく。怒らせたりしなければ、作ってもらえる機会もあるだろう。万一、2人が同時に同じサラダを作ってくれたとしても、問題はない。今の体調なら、きっと両方食べてもお腹はいっぱいにならない。ビーンズサラダもミモザサラダもあっても、まだまだ足りない。だが、箱の中の食べ物はなくなってしまった。パドマは、うなだれた。
師匠が、箱の上段を外すと、煮込み料理や炒め料理の入った小箱が沢山出てきた。パドマは、リボリータを手に取った。どれもこれも冷めてしまっているようだったが、弁当だから仕方がない。むしろ冷ましてから入れたのだろう。手に取った時はがっかりしてしまったが、食べて満足した。冷たくても美味しいようにできている。むしろ、くそ暑い陽気で熱い物など食べたくなかった。
その後も、一段また一段と食べていき、パドマが入れそうなサイズの箱をキレイに空にした頃には、空が夕景になっていた。パドマが起きたのは、朝ではなかったようだ、と漸くパドマは気が付いた。寝始めたのが夜かどうかも定かではないのだから、体内時計では時間がわからなかったのだ。
夕景が、夕闇となり、星あかりしか見えなくなった頃、ぽつんと建つ建物の前に着いた。道はここで途切れているので、ここが目的地なのだろう。
師匠に促されて、馬車から降りようとパドマが立ち上がったら、ヴァーノンに抱えられた。
「自分で歩けるよ」
とパドマは抵抗した。ヴァーノンが、パドマを化け物でも見るような顔で見てくるのから、逃げたかったのだ。
「お前、、、食った物は、何処へ行った?」
ここまで来る間に、パドマサイズの弁当箱を3箱空にした。ヴァーノンと師匠とイレも食べたが、ほぼパドマの腹の中に収まった。
食べ物が、パドマの口に入っていくのをヴァーノンは見た。パドマの全身よりも多くの料理を食べたのに、パドマの腹はぺたんこのままだった。ノンストップで来たので、トイレ休憩もしていないし、吐き戻してもいない。それなのに、パドマの体重は馬車に乗る前と大差はなかった。これならば、いくら食べても満たされないと言う、パドマの言葉も納得できる。食べたフリをしていたが実際には食べていないパフォーマンスを見せられた気分だった。だが、パドマは間違いなく、食べていたと思う。
師匠に案内されて建物に入っていくと、人気はないのに、風呂は沸いていた。パドマを脱衣所に放置して、ヴァーノンは弁当箱洗いの手伝いに行った。家の中の土間に井戸があり、そこでイレが洗い始めていたのを半分受け持つつもりだ。ほぼ全てを妹が食べたのに、何もしない訳にもいかない。
「ここは、誰のお宅ですか?」
「師匠の家。師匠のお父さんが呆れるほど持ってた家の1つ。当時のままか、建て替えたかまでは知らないけど」
「師匠さんの父親は、資産家だったのですか?」
「資産家? どうかなぁ。他人の経済状況までは、わからないよ。これといった仕事はしてなくて、毎日、師匠をいじって遊んでるようにしか見えなかったな。その割には貧乏でもなかったから、収入はあったんだろうけど、何で稼いでたのかも知らない。家は沢山あるけど、どれもこれも人里離れた山の中とか無人島とか、そんなところばっかりでさ、その上、砂こねたり、岩削ったり、木切ったりして、自分で作っちゃうからさ。お金は関係ないんじゃないかな。誰のものでもない土地に、大きな工作を無断で作ってるだけみたいだよ」
「でも、沢山家があると、管理が大変ではないですか? 放置していたようには見えませんし」
「あー、うん、それはね。なんて言うんだろう。管理人? そんな人がいたんだよ。それぞれの家に。管理人は、女性限定なんだけど。、、、あ、お父さんの時代だけだよ。今はいないよ。師匠は、自分で管理してるみたいだから」
「そういうことですか」
ヴァーノンは、急にパドマが心配になり、部屋の中に戻った。
パドマはまだ風呂場にいるようだが、師匠はダイニングの拭き掃除をしていた。パドマを管理人にするつもりかと思い付いて様子を見に来たのだが、いらぬ心配だったようだ。うっかり忘れていたが、師匠は女性だったと思い出して、ついでにそれを知らせた方法まで思い出し、ヴァーノンの耳は朱に染まった。あの日の師匠は、パドマと同じくらいやわらかかった。
「何かお手伝いすることはありますか?」
邪な嫌疑をかけていたことを反省し、師匠に声をかけると、指を向けられた。意味がわからず困惑していると、背中にぽすんとヴァーノンの宝物がぶつかってきた。パドマは、ヴァーノンが見えていないように足を止めないので、避けてやったら案の定、寝ているようだった。そこまでは想定範囲内だったのだが、パドマは思いがけない服を着ていた。
「何を考えて、こんな服を着せたのですか?!」
ヴァーノンは、涙目で師匠を睨んだ。しかし、師匠は可愛い顔を崩さなかった。
『涼しいから。心配しなくても、ヴァーノンの分もあるよ』
「そんな心配はしていません」
特に何も気にせず、裸像を作る師匠の感性はズレているらしいことを、ヴァーノンは悟った。
パドマはいつも着ている部屋着と似たような形のシャツを着ているのだが、いつもの服よりも前面が広く開いている気がしてならないし、やたらととろみのある生地のおかげで、シルエットがくっきりと強調されていた。普段なら嫌がって着ないと思うのに、眠気に勝てずに気付かず着てしまったのかもしれない。
師匠は、『野獣はバカ弟子しかいないから、大丈夫』と、まったく安心できない蝋板を出して、上を指差し、眠るジェスチャーをした。
「わかりました。寝かせてきます」
ヴァーノンが、パドマを抱えて部屋を出ようとすると、師匠はもう1枚蝋板を出した。
『先にお風呂を使ってもいい? それとも、一緒に入る? 洗ってあげるよ』
師匠に揶揄われているだけなのはわかったのだが、ヴァーノンの身体がみるみる赤くなっていった。
「お先にどうぞ!」
ヴァーノンは、今度こそ部屋を出た。
斜め向かいにあった階段を上ると、窓のあるちょっとしたスペースの他に、ドアが6つあった。目線の高さにプレートが下げられており、その中にパドマやヴァーノンの名が入った物もあった。パドマとは別室らしいことを確認して、ヴァーノンは少し安堵しながらドアを開けた。
これから、ヴァーノンにはまだ一仕事待っている。パドマの頭を乾かさなければならない。完全に寝入ってタコのように力の入らないパドマを、たまに宙に浮かんで何処かへ行こうとするパドマを、なんとか固定して、タオルで頭を拭き続けた。
「優しいお兄ちゃん、だぁい好き。ぎゅーして」
パドマはロクでもない寝言を言っているし、拭いてもふいても髪は乾かないし、なかなかの苦行だった。師匠を巻き込んで、半分ずつやれば良かったと言う後悔と、この寝言は他人には聞かせられないと言う気持ちと、いろいろないまぜになる時間だった。
満足するまで乾かしきると、ヴァーノンはパドマをベッドに縛りつけ、布団をかぶせて部屋を出た。ようやく自分の時間だと思ったら、師匠とイレが階段に身を隠してヴァーノンを観察し、何かをひそひそと話している。いや、何かではない。蝋板は見えないが、すべて筒抜けで聞こえている。
「え? パドマは寝てるの? それじゃあ、何かあっても助けも呼べないね」
「うんうん。部屋に運んだだけなら、すぐに出てくるよね。絶対にやらかしたよ。パドマ兄だって、男だし」
「可哀想なパドマ。可愛がるなら、起きているうちにすればいいのに」
ヴァーノンの腕は、怒りに震えた。
「髪を乾かしていただけですよ!」
灯を置いていたから、隠れているつもりもなかったのではないかと思っていたのだが、ヴァーノンの声を聞いて、師弟は階下に逃げて行った。